1.森の中で



ばさり。と、大きな鳥が羽ばたくような音が聴こえた。

何処からか射し込む光に意識を引き上げられ、もう二度と開く事は無いだろうと思っていた瞼が持ち上がる。


「え…」


目に映ったのは、綺麗な青空を背景にして緑の葉が生い茂る立派な枝木。

やはり山にでも捨てられたのかと思いながらも、イメージしていた雰囲気との相違に瞬きを繰り返す。


瞼を上下する度に覚える額と左目の違和感が、傷と凝固した血液が記憶のまま確かにそこへと存在しているのだと自覚させた。


どれくらいの時間意識を失っていたのかは分からない。

目を覚ましたのは幸運なのか不運なのか…

ここが何処かも分からない中で、このまま飢えを待つ以外自分に何が出来るというのだ。


「ハァー」と、肺の中の空気を吐き出す。


(それにしても、もっと陰鬱で鬱蒼とした山奥に棄てられていると思っていた)


そもそも、空が見えていたら駄目ではないか。

埋める労力を惜しむ程に自分の存在は驚異になど成り得ないちっぽけな物だとでも言うのか。


頭を傾け、上空に向いていた視線を自らの転がる地面へと移す。

記憶と変わらない黒の制服に包まれたままの腕が投げ出されているのは、陽射しを受けて清らかな露が光る柔らかい芝生の上だった。


記憶の最後は凍てつく空気が耳に痛い冬の日だったはずなのに、降り注ぐ光と頬を撫でる風は心地よい春の温もりを含んでいる。

凛として立つ木々の合間からは空からの光が差し込み、一枚の絵画のように神秘的な森の果てまでを照らす。


(あぁ、そうか…)


これは死に際に見ている、最後の夢なのかもしれない。


──錆色の落ち葉に覆われ空から降り注ぐ光を遮る程に生い茂る樹木の群れ。

──身を裂くように冷え込んだ空気で凍り付いた土の中に、本当の私は居るのだろう。


ゴミに囲まれた小さな暗い部屋の中で失った意識の果てに、美しい死に場所を求めた心が見せる…皮肉なくらい幸せな夢。


「綺麗だ…」


呟きが溢れると同時、上空から射し込んでいた光を遮るように大きな影が落ちた。


「?」


目覚ましになった羽ばたきの音だ。

随分と大きな鳥だと思っていた、重厚な力強さを持つ羽音の正体が今この真上に来ている。


──鳥じゃない。


理解の追い付かない頭で空を覆い尽くす大きな影を見上げる。


「何アレ…」


それなりの高度へと留まっているように見えるのに全体を一度に捉える事が出来ず、正体を掴めない。

呆けながら見上げたままでいると影の中に何かがキラリと小さく輝き、そのまま真っ直ぐに墜ちてくるのが見えた。


「ひっ…」


咄嗟に身を捩って避けた背後で、先程まで頭を預けていた位置の地面にストンと降ってきた何かが突き刺さる。


夢の中だというのに痛みを伴う体を庇いながら緩慢に起き上がり振り返れば、そこに在ったのは銀色に輝く刀身が美しい…洗練された装飾を持つ西洋風の剣だった。


(なんで、こんな物が…?)


惹き寄せられるように手を伸ばして彫刻が施された鈍色の柄に触れた時、突如として雷鳴にも似た凄まじい音と共に強風が巻き起こる。


影の元であった大きな塊が周りの木々をメキメキと踏み倒しながら頭上に落ちてきたらしい。


「──っ!」


目も開けていられない程に吹き荒ぶ風の中、吹き飛ばされないようにと地面に突き刺さった剣の柄を力いっぱい握り込む。

しかし剣先が耐えきれずに大地から引っこ抜け、暴風に巻かれるまま共に背後の木へと打ち付けられた。


「!」


肺の空気が強制的に押し出されて息を詰まらせる。

そして、強風に続いて地震でも起きたのかと思う程の衝撃が地面を揺らした。


――グルルル――


へし折られた木々の軋みが止んで森閑を取り戻した空気。

それを再び揺らすような獣の唸り声らしき音を間近に感じ、ごくりと喉を鳴らしてから恐る恐る閉じていた目を開く。


視界いっぱいに広がる"何か"。

空を映したように輝く群青色の鱗を持つ巨大な生物の鼻先に、自分は居た。


人の頭程はあるだろう大きさの…爬虫類を思わせる鋭い金色の眼光に射抜かれている。

巨大すぎて全貌を認識する事は出来ないが、空想として描かれる西洋のドラゴンが絵から抜け出してきたような生き物だった。


「…夢だ…」


圧倒的に大きな体躯。

敵うはずなどないと悟らせるのに十分な威圧感。


ここが自分の頭が作り出す夢の中ならば、それは幼い頃に植え付けられ時間を掛けて育て上げられた恐怖の対象の比喩だろうか。


「ひどい夢だ…」


あの女の比喩としては勿体ない程に神々しい威厳を放つ生き物を前に、歪んだ笑みが零れて無意識に呟く。


(夢の中でも、私に何も出来ずに殺されろというのか…)


「―――!!」

鼓膜を貫くような咆哮を放ちながら、自分の脚程はあるだろう太く鋭い牙を生やした口腔が迫る。奈落の底を思わせる程に果てない内臓へと繋がる闇。


地面を転げるように決死の思いでかわした背後、先程まで背を預けていた大木がひしゃげ砕ける音が聴こえた。

続けて、見るからに固そうなギラつく鱗に覆われた尻尾が暴れて残っていた周りの木々を薙ぎ倒す。


「ぅ゛…」


転げた先、降り注ぐ木片の雨の中で掴んだままだった剣柄を握る手に力を込めた。

手の甲に残る火傷がジクリと痛む。


(我ながら往生際が悪い…)


虫の息で立ち上がり、カタカタと震えながら思っていたよりも重みのある刀身の切っ先を巨大な体躯へと向ける。


(だったらどうして、生きている内に抵抗しなかったんだろうな)


相手はこんな怪物じゃなかったんだ。

14年掛けて成長した身体は、敵わないまでも母親と大差の無い力を持っていたはずなのに。


ギョロリ──再び此方を捉えた大きな眼の中に自身の姿が映り込む。

金色の光彩の中に見えたのは、凝固した血液で癖付いた髪が張り付く不恰好な自分。


──『下手くそ』。

かつて、伸びて持て余した髪を手ずがら古びた文房具のハサミで切り落としていた所に帰宅した女は言った。

そして女は私が持つハサミを横取りし、散切りになった私の髪を整え始めた。


あれは今にして思えば最初で最後に見た彼女の優しさだったのかも知れない。


けれど、その時の私は…

刃物を持って背後に立つ女がそのまま自分の首を切り裂いてくれればいいのに…と、祈るように願っていたのだ。


(あぁ、そうか…)


「私は、殺されたかったのか…」思い当たって呆然と呟く。


あの女の手で殺されて、意識を失う直前に浮かべた卑屈な呪いだけを遺す機会を自分でも気付かない内にずっと待っていた。


自ら幕を引く事も生きて逃れる術を模索する事すら放棄して、理不尽を与えた相手の足枷になる最期だけにすがって生きていたのだ。


(馬鹿だな…)


無気力に受け流し続けた時間の中で、あの女の中に確実に残る何かを…痛みを、傷痕を。


どんな些細な事だって、自分の意志で反抗した事実さえあれば今の自分がこんなにも惨めな思いになる事はなかった筈なのに。


「ふー」長く深い溜め息が漏れる。


命を賭けた結果、有効打だと思っていた考えの当てが外れて惨めになってるんじゃ世話がない。


(やっぱり一度くらい、殴り返してやれば良かったんだ)


──散々な環境であろうとも、出来る限りの後悔が無い人生を送れていたなら。

今頃は、この美しい森の中で朽ちる夢を素直に受け入れる事が出来ていただろうに。


(だからこそ、私は…)

たとえどれだけ神々しく荘厳な生き物であろうとも、もう大人しく殺されてやるのは御免だ。


そう。どうせ、これが最期の夢ならば…

無様に、醜悪な姿を晒してでも抗ってみればいい。

──持ち合わせているのかも不確かな程にささやかな…自分の矜持を守る為に。


幾度か迫る巨大な牙から逃げる内…

無事だった森の木々が隔たりとなって生まれた少しの隙を突き、怪物の鱗へと全力で刀身を叩き込む。

しかし、金属同士がぶつかったような甲高い音と共に弾かれた。


「!固ッッ──」


全力の反撃だというのに相手は蚊に刺された程の刺激も感じていないような顔で、目が合っている此方との間にそびえた木々をミシミシとへし折る為に力を込めている。


(鱗の上からじゃ歯が立たない)


大木の耐久力が生み出してくれた僅かな時間で、無事な木々の狭間を駆け抜けて出来る限りの距離を取り怪物の背後へと回り込む。


「あぁ、綺麗だ…」


やっと視界に捉えた全貌を眺めながら無意識の内に声が漏れた。


踏み荒らされ拓けた一帯の先で何事も無かったかのように佇む森の木々。

そんな柔らかな緑の光を背景に、地を這う唸り声を鳴らしながら巨体に釣り合った重々しい仕草で振り返る群青色の怪物。

まるで、神話の一部を見せ付けられているかの如く美しく神々しい。


(これがあの女の比喩であるはずがないな)


カパリと再び、巨大な孔が開く。

向かって来るソレを、今度は避けようとはしなかった。


体を噛み砕こうと閉じられる鋭い牙を避けて自ら奈落の闇へと飛び込む。

スッポリと身体が収まってしまう程に広い口腔の中…

ざわりと木の皮のような固さを持つ舌に背中を預けて、閉じた口から喉へと嚥下される前に素早く渾身の力を振り絞って手にした剣を脳天へと続くだろう頭上の肉壁に向けて突き立てた。


「─────ッッ──────!!!!!」


体をバラバラにされそうな程に強烈な咆哮が自身の収まる空間に反響し、襲う。


音が有るのか無いのかさえ分からなくなってきた感覚の中で開いた口の外へと吹き飛ばされないよう、脇にそびえる牙を抱え込みながら剣を引き抜き、そして再び突き立てた。


「ぐっ…」


一太刀目を引き抜いた傷口から鮮血が噴き出し、頭からまともに浴び被る。

引き抜いては突き立てるを幾度となく繰り返し、空気を吸う隙も無い程の鮮血に溺れた。


やがて背に敷いた舌が弛緩し、ぐらりと重力が傾いて衝撃が続く。


「………」


横向きに倒れた巨体の力無く開かれた口の中で、紅く染まった牙の檻が遮る果ての空を見上げた。


──美しい怪物に重ね、殺してしまいたかったのはきっと…自分の中の恐怖だ。

呪いすらも掃き捨てられ、足枷一つ遺せてなどいないのだと知らしめる無自覚の中にあった後悔。


だからこそ、殺すなり殺されるなり…

一つの終わりを示せたのなら夢から覚めて死の淵の闇の中へ消えるだろうと思っていたのに。


「ごほっ―」音を立てて口に入り込んだ血を吐き出す。


「…覚めない…」


自身を包む肉塊から体温が抜け落ちていく過程を肌で感じ、この生き物は確かに"生きていた"ものなのだと実感した。


――絵画の中に迷い込んだかのような美しい森。

――自身の想像力では賄えない程の神々しさと威厳を持ち合わせていた生き物。


遠ざかるどころか、むしろ生まれ変わったかのようにハッキリと冴え渡る意識の中で思考が巡る。


(ここは、本当に夢の中なのだろうか…)


呆然と、幾許いくばくかの時間が過ぎた。

身を裂くような断末魔に支配され、ぐわぐわと頭の中まで揺らしていた聴覚の違和感が薄れてきた頃。

不意に、草を踏みしめながら近付いてくる複数の足音に気が付いた。


倒れた体を起こしても、横たわった巨体の口の中では視界が遮られ周りの様子を窺い知る事が出来ない。


近付いて来る足音は自分にとって害なのか救いなのか、得体の知れない存在にギュッと剣の柄を握り直した。


近くまで来た足音が一斉にピタリと止まり、どよめく人々の声が聞こえる。

聴こえた声の限り、男ばかり…数人というのでは足りない程にかなりの人数が居るらしい。


ザク――散らばった木片を踏み砕く音。

立ち止まっていた集団の中から一つだけ、足音が前進を再開し近付いてくる。

それは肉の壁を隔てた周りをなぞるように歩き、少しの時間を掛けて開かれた口の門へと辿り着いた。


「!」


目が合った。

中世の騎士に似た甲冑から覗くエメラルドグリーンの光彩に驚きの色が宿る。


「…」

此方の存在を認めた男は、一呼吸置いて頭から甲冑を引き抜いた。

精悍な顔付きをした北欧風の若い男。

首の後ろで一つにまとめられた褐色の髪が風になびく。


「貴女が…彼女を倒したのか?」


呟きのような問い掛けが耳に届く。

音を理解するよりも早く、不思議と頭の中で反響するように言葉が浮かんだ。


──この男は、日本語すら話していないような気がする。

それでも、何故か頭の中で反響が繰り返し言葉の意味を理解出来た。


「彼女…」


巨大な牙が並ぶ怪物の口先に手を添えながら呟いた男の言葉に、自身を取り囲む巨体を仰ぎ見る。


(この生き物は雌なのか)


口振りや手つきから、目の前の男がこの巨大な生き物に慈しみを持って接しているような印象を受けた。


(この人と親交のある生き物だったのか?)


──抵抗しなければ確実に喰い殺されていた。

しかし、関係の無い後悔を押し付けて執拗に刺したのは此方の身勝手な八つ当たりだ。


(悪い事をしてしまった)


横にそびえる肉壁の傷に手を這わせ、懺悔の思いも込めて静かに首を縦に振る。


「…そうか。ありがとう」


頭に浮かんだ言葉の反響に疑念を抱く。

原理なんかは置いといて、翻訳が間違ってやしないだろうか。

真意が読み取れず、男の表情を窺い見た。


「私たちは逃がしてしまった」


眉根を寄せながらも穏やかに微笑む男の顔がとても奇妙に見える。


「その剣も…鱗を砕けず、結果、奪われた」


此方の手の内に収まる血塗れの剣を示し言う。

だから一緒に降ってきたのかと納得した。


「貴女のおかげで、彼女は誰も犠牲にする事無く命を終えられた」


男が言葉と共に頭を下げた時、ベッタリと血に塗れていた体にさらりと風が吹き抜ける。

目を落とせばまとわり付いていたはずの鮮血が空気に溶けるように消えていた。


──ぴしり──


何処からか、固いものに亀裂が入る音が響く。

肉壁に触れていたはずの掌にざらりと無機物の感触。


「え…?」


自身を取り囲む巨大な生き物の口腔。

その、血色が感じられていたはずの肉の壁がみるみる内に鱗と同じ群青色の鉱物へと存在を変えていく。


「こっちへ!」


痛い程の力で手を掴まれ引き寄せられる。

男に庇われながら倒れた背後で巨大な石像が崩れ落ちる音が轟いた。


「無事か?」


掌で肩を軽く叩かれ、放心していた意識が戻る。


「今の…なに?」


身を起こして振り返れば、もうそこには先程までの神々しい生き物の姿は存在しなかった。


宝石のように輝く鉱物の瓦礫が積み重なっている。


「竜は命を終えると魔石に姿を変えるんだ」


ファンタジーが過ぎてピンと来ない言葉を聞きながら、諸々の出来事にすっかり力が抜けてしまった足を踏ん張って男の手を借りながら立ち上がった。


「あぁ、怪我をしていたのだな」


頭から全身にまみれていた竜の血が消えた事で額の傷口や元々張り付いて固まっていた血液が目に付いたらしい。


「手当てを」

額の傷に目を向けていた男は、いつの間にか近くへと集まって来ていた甲冑姿の兵士達に目配せで指示を出し離れていった。


目配せに応じた兵士に清潔そうな布で傷口を押さえてもらいながら眺めていると離れて行った男が他の皆よりも一歩前へと踏み出し、群青色の瓦礫へと腰を折って深々と頭を下げた。


「アウローラ、安らかに眠れ」


その言葉を合図に他の男達も胸に手を当て瞳を閉じ、巨石に向けて頭を垂れた。


突然に起こった数々の出来事に戸惑う事しか出来ないが、視線を向けた先、石へと成り果てた彼女はきっと…自分などよりも余程多くの人に愛されていたのだと思い知る。


皆の先頭に立つ褐色髪の男が姿勢を正し、正面からこちらに向き直った。

他の男達も一斉に視線を寄越してきて居心地が悪い。

そんな中、正面の男がうやうやしくひざまづく。




「改めまして、新たな竜血よ。貴女の存在に感謝します」



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