第23話 リスク管理

 天災は忘れたころにやってくる。


 リーダーである峻が、一番の初心者である佐久に注意を払っていなかった。


 それが、どういう結果を招くのか。


下り道も大分過ぎ、行きよりも遥かに順調なペースで下山していた頃。


 前を歩いていた佐久が、急にバランスを崩した。


「佐久!」


 叫ぶような望月の声に、佐久からは返事がなかった。地面に転がったままで顔をしかめている。


 佐久の下に駆け寄ろうとした望月の横を、峻が下っていく。


 足元は腕の太さほどもある木の根と石ころで歩きづらく、しかも湿って滑りやすくなっている。


 だが目の前の少年は、望月が足を踏み出すことすらためらう不整地を忍者のようにダッシュで下っていった。


「大丈夫?」


駆け寄った峻は佐久の足元にかがみこむ。母のことを話しながら大事そうに来ていたレインウエアは土で汚れてしまっていた。


足元に泥がこすれた木の根がある。この上に体重をかけた時に足を滑らせたらしい。


「……痛い」


 佐久は顔をしかめ、足首を抑えながらも立ち上がろうとする。


 だが腰を浮かせかけたところでバランスを崩してしまった。


「さっちー」


小梅がザックを下ろして佐久を診ようとすると、峻はすでにザックを小雨の当たらない大樹の根元に置いて治療を始めていた。


「ズボン、まくるからね」


雪のように白い佐久の足首は片方だけ赤く張れ、石で切ったのか軽く血が流れていた。


すぐに峻がザックのポケットから水を取り出して傷口にかけ、泥を洗い流す。


 傷口に泥が付着していないこと、異物が入り込んでいないことを確認すると絆創膏を張った。


「消毒はせんの?」


「むやみに消毒液を使うと、皮膚の細胞や常在菌を殺して治りが遅くなるから。よっぽどひどく汚れたなら使うけど」


「……詳しい」


「まあ、怪我したこともあるし。父さんが色々教えてくれたから、このくらいは」


 峻はそこでなぜか言葉を濁す。


泥が流れたのを確認すると、そのまま包帯を巻く。その手際の良さは看護師の娘である小梅や医師の娘である佐久が舌を巻くほどだった。


 特に小梅は小学生のころから家で一人だったこともあり、小さなケガや風邪は自分で手当てするしかなかった。


友達に感心されたことも多い。


だが目の前の男子は、そんな自分よりはるかに手際が良く、佐久が舌を巻くほどの知識を持っていた。


「シュン、まるで山マスターやね」


 場の雰囲気を明るくするために、小梅はわざと軽い調子で言った。


「……これから、どうするの?」


 激しくなってきた雨を逃れるために峻がザックを置いた大樹の根元に四人は集まった。佐久は望月が肩を貸して立たせ、大樹の幹にもたれかかっている。


 佐久の足ではこの滑りやすい山道を歩くのは厳しい。望月が肩を貸しても、立ち上がるのがやっとだった。


 峻は何もしゃべらなかった。ただ降りしきる雨、徐々にもやで遮られる視界、誰も

通りがからない山道をじっと見ている。


 場の雰囲気が、徐々に重たくなっていく。それでも峻は、一言も発しなかった。


「……峻」


 一番初めにいたたまれなくなったのは佐久だった。



 今にも泣きだしそうな声で、すがるようにこの場でたった一人の男子を見つめる。


 やがて峻はゆっくりとうなずくと、三人の方に向き直った。


「僕が佐久さんを背負って帰る」


 その言葉に、望月と小梅は目を見開いた。


「この距離を?」


「シュン、さすがにそれは……」


 だが佐久だけは、驚くことも峻を見つめることもなく、ただ首を横に振った。


「……いい」


「じゃあ、どうするの?」


「……助けを待ってるから。大勢人がいれば、なんとかなるから。迷惑かけたくな

い。さっき会ったおばさんたちとか、まだ上の方に人がいるはずだし」


「……だから、先に降りてて」


「いや、佐久さんを放っておけない。それにこれはリーダーである僕の責任だ。僕に責任取らせてよ」


「でもここから三十分はかかるよ? 大丈夫?」


「それくらいなら休み休み行けば大丈夫。縦走とか、ニ十キロ近い荷物を背負って何日も山道を歩いたことがある。佐久さんの体重は三十キロ台のはずだから、休み休みならいけると思う」


 心配する望月に対し峻はそう言い切った。その言葉には経験者にしか醸し出せない自信と重みがある。


「……セクハラ。女子に体重の話をするなんて」


「佐久、今はそんなこと言ってる場合じゃ……」


峻は自分のミスだったことを自覚していた。強く責任を感じ、「大丈夫~」と軽く言うようなことはできなかった。


「いい加減にしなよ」


 苛立ちで声が荒くなる。峻が自分でも自覚するほど、怒気をあらわにしていた。佐久が肩を震わせるが、峻は言葉を止めなかった。


「山は危険なんだ。町と違って手を挙げればタクシーが止まるわけじゃない。周りに助けてくれる人が多くいるとも限らない」


「この場で君を背負って下山できるのは僕だけだ。それに君を心配してるのは、みんなだよ」


 話しているうちに少し怒りが収まり、声が穏やかになっていく。


 佐久も、自分を見つめる望月と小梅の視線に気が付いて。


今度は首を縦に振った。


「望月さん、僕のザック持ってて?」


峻から自分のそれより一回りは大きいザックを受け取った望月は、体のバランスを崩しかける。


「こんな重いものを背負って、この道を歩いてきたの? すごい……」


「重かったら、途中で小梅さんと交代して」


 峻は望月の声を気にする余裕もなく、しゃがみ込んで佐久に背を向けた。


 小梅に手を貸されながら峻の後ろに回り込んだ黒髪の少女は、おずおずと肩に手をかける。彼女の太ももに手を回し、自分の背中にぴったりとくっつけてから峻は立ち上がった。


「佐久さん、軽いね。ちゃんと食べてる?」


「……うるさい。セクハラ峻、だまれ」

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