熱:ジェイド

(俺は、一体……何をしていた……?)


 立ち尽くす。一人、王都の町中で。

 目に映る全てが疑わしく、自分を陥れる罠に見えた。一時は錯乱状態にまで追い込まれたその要因は、単純な恐怖。

 いつだって自信に溢れ、肩で風を切って歩いた道に今や確かなものなど何も無く、精巧で美しい舗装路に一歩踏み出す事にさえ躊躇する。


 段差に足を取られるのではないか。

 足が滑り、転倒するのではないか。

 床が突如崩落するのではないか。

 足元に現れた肉塊に飲み込まれ、化け物の体内で磔にされ、四肢を千切られ、それでも命を繋がれ、永い時を生かされたまま苦痛を与えられ続けるのではないか──


(やめろ! 違う!)


 ありもしない妄想。凄惨なイメージ。まるで第三者の視点で見たような、悲痛に歪む自らの表情。植え付けられた偽りの記憶。

 いつからか頭に浮かぶようになった鮮明な光景から逃げるように頭を振る。

 次に顔を上げると、そこには見慣れた街並みがあった。自分が現実にいることに安堵する一方で、そう考える自分に嫌気が差す。


(ただの一度の敗北で幻覚を見るまでに弱るか、ジェイド・グレード……!)


 湧き立つのは怒り。

 それは極小さな火種だったが、今の自分にとっては何よりも必要なものだった。


(クソッ! クソッ! クソッ!)


 普段であれば、現状を前にして真っ先に表面化するであろう怒りの感情。久しく忘れていたその姿を追い、意図的に熱を持たせていく。

 拳を握り、歯を噛みしめ、石畳の床を蹴る。心だけでなく、体を使い感情を昂らせていく。


(あの庶民さえいなければっ! あいつさえ! あいつさえ! ……)


 やがて火種は大きく育って光を放ち、熱く、熱く、熱くなって──


(…………俺さえ、もっと強ければ)


 ──それでも、燃え上がるには至らなかった。

 気力を失い、停滞し、ゆっくりと浸水していく心情はまるで川岸に掛かる流木のよう。

 とてもではないが自分を知る者に見せられる姿ではなく、実際、あれから学園には顔を出していない。


『グレード家の人間はいつの時代も壁を越え続けてきた。それは敵対する派閥であったり、時代そのものであったり、立ち塞がる個人であったりする。そして今、お前も同じ状況に直面している』


 決闘をした日の夜。厳格でいつも叱るような口調だった父の言葉にどこか温もりを感じたのを覚えている。


『俺も挑み、破れた。それも当主になってからで、相手はかつての仲間達だった。グレード家の男として、お前もいつか壁に直面するだろうと思っていたが……まさかその若さでとはな。少なくとも学園を卒業してからだと思っていたが……』


 こちらを気遣うように一つ一つ選ばれた父の言葉を受け、惨めな気持ちばかりが募った。

 酷く似合わない、子を想う父親のような言葉を選ばせてしまった自分が嫌になった。いつものように、失敗を責めて欲しかった。


『全てを使え。何よりも打倒を優先しろ。今日立ち塞がった相手は、お前の将来に絶対に必要なものだ。何度敗れても構わん。期限も設けない。その相手に勝つために必要だと思った事だけをしろ。そしていつか勝利し、ここで報告してみせるのだ』


 そしてついに、父は哀れな息子を責めずに話を終えてしまった。


 あれから俺は屋敷を出た。本当に近しい者しか知らない場所に身を移した。それこそただの我が儘で、どんな顔で毎日親に会えば良いのか分からなかったというだけの幼稚な理由に過ぎなかったが、護衛や使用人は何も言わずに付いてきてくれた。

 グレード家の人間が庶民に敗れた。その事実は派閥を巻き込んだ大問題になるかと思っていたが、不気味なほど身の回りは静かだった。

 今は頭を冷やせと、そう言われているような気がした。


(俺は……どうすればいいんだ……)


 崩壊した自己同一性アイデンティティ、今までの自分を作り上げていた偽りの実力と、それに裏付けられていた空虚な自信。それらが剥がれ落ち、ただの特別でない一個人になった自分。

 今まで積み上げてきた、若しくは自動的に積み上げられていたものの大半が崩れ去り、塵のように残った何かを拾い集めて形成した本当の自分。ジェイド・グレード。

 そんな男は、かつての自分が見れば鼻で笑う程に弱く──そして現実が見えていた。


(勝ち、負け……あれは、そういう相手じゃない)


 あの日、召喚場での出来事を想起する。思い出そうとする度に割れるように痛む頭を押さえ、ブチリと何かが千切れるような感覚の奥から目的のものを引き上げる。

 本能の拒絶を振り切って思い起こしたのは、恐怖と絶望の記憶だ。


 シルバーと化け物が対等に向かい合っていたのは最初の一呼吸だけ。飛翔し、破裂した肉塊が召喚場を飲み込んで、それから始まったのはとても戦いとは呼べない惨事だった。

 相手が行ったのは、決闘での勝利ではなく敵に苦痛を与える事のみを目的とした所業。

 自分が見たのは、無数の肉塊にたかられ、数え切れない暴力を受けてシルバーが惨たらしく形を変えていく様子。


『よろしくな、シルバー!』


 目の前の光景を受け入れられず呆然としていた時、視点が切り替わるようにして遠い日の自分が現れた。


『だけど、おれだって強いんだ! ケガしそうになったら、シルバーだって、他の誰だって、おれが守ってやる! 約束だ!』


 あの日交わした約束。無邪気に、無責任に、そして本当にそうできると信じていた約束。


『うそつき』


 そんな過去の自分を共に見ていたシルバーが、強い恨みと非難を込めた言葉を口にする。守ると約束しておきながら、何も出来ず苦しむ守護獣を見ているだけの自分。

 浅く呼吸を繰り返している間にもシルバーは分割され、肉塊に取り込まれていく。

 助けないと。約束を守らないと。そう思った。


 震える足を叱咤し、肉の床を駆けた。

 ただ速く走る事だけを考えていた俺は、上から降ってくる別の肉塊に気付かなかった。

 強い衝撃を受けると共に取り込まれ、向いている方向さえ分からない空間に閉じ込められた。体の自由を奪われ、剥がされ、折られ、刺され、千切られ、繋がれ、狂う事も許されず生かされ続けて──


(っ……違う! あれは幻覚だ、惑わされるな……!)


 分かっている。ありえない。今の記憶は自分の恐怖が生み出した幻覚で、事実ではない。

 後から聞けば、シルバーも同じような幻覚を見たらしい。たとえ悪質な精神攻撃を受けていたとしても、俺を助けられなかった事に酷く落ち込んでいる様子だった。

 シルバーが見た悪夢の中で俺がどうなっていたのかは、最後まで教えてくれなかった。


 挑む事が間違いだったとは思わない。結果としてあの怪物の危険性をレティーシアに伝える事ができたし、体の欠損も無い。あの庶民が自分にとっての越えるべき壁なのだとすれば、むしろ出会えた事は幸運だとさえ言える。

 呪いのようなものも受けておらず、すぐにでも行動を起こす事が可能だ。しかし……。


(何もない。俺は……全てを失ってしまった)


 再び立ち向かわなければならないという使命感はある。しかし自分の意思として、あの庶民を下してやろうという気は起きなかった。

 それは単純な相手への恐怖だけではなく、歩みを止め、熱を持てなくなってしまった自分自身への失望によるもの。

 最も致命的なのは、それを理解していてなお心が揺れ動かない事。焦りも悔しさも何も無い、胸に穴が空いたような虚無感。


 ──ジェイド・グレードは折れてしまったのだろうか?


 家の者達が今最も危惧しているのはそれだろう。それを知った上で、その問いに答えを出す事ができずにいる。

 空っぽなのだ、本当に。今の自分は。幼き日からの恋心でさえ、その空洞を埋められない程に。


「盗みだ! 黒い服の男ッ! 誰か!」


 助けを求める叫び声。閃光と爆発に続いて砂煙が足元に吹き込み、思考が中断される。

 聞こえてきた言葉が本当であれば、断じて許してはならない悪事が行われている。それもすぐ手の届く距離で。


(近い……! ……だが、俺が行ったところで……)


 脳内を支配する負のイメージ。

 油断し、貴族としての本質を忘れ、召喚師として敗北を喫した自分。これ以上恥を上塗りするような事があれば、次こそ本当にグレード家の人間ではいられなくなるだろう。

 幸い、今は目立たない格好をしている。誰にも気付かれる事はない。表立って行動するのは調子を取り戻してからでいい。そんな逃げる理由ばかりが脳裏に浮かんで──


『シルバーだって、他の誰だって、おれが守ってやる! 約束だ!』


(……そうだ、俺は……約束したんだ……)


 家族を守るという約束。民を守るという約束。

 一度破ってしまったそれを次こそは果たす。そうしたいと思った。自分の意思で。

 空虚な世界に放り出され、進むべき道が定まらなかった自分が辛うじて見つけた小さな目印。

 冷え切った体の中心が、僅かに熱を持っていくのが分かる。


(行こう。俺だって誰かの盾になるくらいはできる筈だ)


 自分が失った何かを求めて──否。

 ただ民を守るために、ジェイド・グレードは走り出した。




    ◇ ◇ ◇




「動くな。次はその目を焼く」

「ハァ……ハァ……! クソッ、なんで魔導師のガキがこんなに動けるんだ……!」


 爆発地点に向かう途中、複数の追手を振り切りながら人混みを縫って走る黒装束の男を発見して後を追った。

 通行人に危害が及ばないよう注意しながら追跡し、ようやく人通りのない路地に入ったところで魔法を放った。魔導具によって何度か防がれたものの、魔力量で押し切った。

 召喚術を使いはしなかったが、相手も一端の実力者のようだった。


「かなりの数を盗んだようだな。しかも、どれも魔力を溜め込むものばかり……何が目的だ?」

「止めろ! 小汚い手で邪神様の供物に触るなッ!」

「邪神……? お前、邪教の信者か? まだ活動していたとは……」


 戦に区切りがつき、人々の生活が安定してくると話題に上がるようになった邪神を信仰する団体。

 しかし年月が経ち、神官を自称する幹部たちが捕らえられた事で急速に衰退し、ここ最近は噂を聞く事も稀になっていた。

 既に解散したか、自然に消滅したものだと思っていたが……。


「馬鹿が。『まだ』じゃない。俺たちは始まったばかりなんだ。そして、もうじき終わる」

「気の触れた人間の戯言に付き合うつもりはない。檻の中で壁に向かって喋っていろ」

「本当に何も分かってないんだな。数日前に邪神様は一度この世界に顔を出されている。もう終わるんだよ、この世界は」

「数日前……」


 狂信者の妄言。本来であれば聞く価値のない、耳を傾けてはならない言葉。

 しかし、そう一蹴してしまうには違和感の残る、どこか引っ掛かる内容であるような気がした。或いは、心当たり。

 強盗犯の男は言葉を続ける。


「あの日、邪神様は狂気と恐怖を振り撒いて俺達に教えて下さった。常日頃から祈りを捧げていた俺達だからこそ気配を察知する事ができた。耐え忍びながらも続けてきた教団の活動は正しかったのだと、今こそ顕現するための供物を捧げよと、そう仰ったのだ!」

「それで、盗みか。お前達の言う邪神とやらは随分と小さい事を指示するんだな」

「黙れ。消滅する世界の法になど微塵の価値も無いと分からんのか。俺達はもう隠れない。耐え忍ばない。儀式の準備は既に整いつつある」


 事実なのか、それとも妄想を信じきっているのか。自分達の情報を一切隠そうとしない男の様子からは、既に目標を達成し、未来が確定しているという自信が感じられた。

 ありもしない救いに縋り付き、古い書物のでたらめな記述に騙され、呪いの行使や不吉な存在を呼び出してしまう事件は近年でも僅かながら存在する。

 世界が滅亡するなどという与太話は信ずるに値しないが、そういった事例に当てはまるのであれば強い警戒が必要だ。


(邪教の実態を暴く必要があるな。家に話を持ち帰って、組織的に対応を……)


 家を出ておいて数日で戻るという行為には抵抗があるが、そんな事を言っていられる状況ではない。民を守る剣として、貴族としての役割を全うしなければならない。


 そう考えていた時だった。



『──縺ッ繝シ�……、……縺薙縺ッ窶ヲ……窶ヲ骼後√……──』



「ッ……!? この感覚は……!?」


 頭を殴られたような衝撃。身の回りの空気が重くなった感覚。心臓を握られるような重圧に本能が警鐘を鳴らす。

 この世界にとっての異物が、絶対に地上に顕現させてはならない致命的な存在が町中に舞い降りたという確信めいた予感。


「……は。……ははっ、……邪神様だ……っ! 邪神様が再び顕現して下さった! みろ、邪神様は俺の行動が正しかったのだと肯定されている!」

「この気配……これが邪神……なのか……?」

「……お前もこの狂気を感じるのか? 信心を持たない愚者共は、実際に神のお姿を拝見するまで狂気を感じ取る事ができないだろうと文献には書いてあったのだが……」

「信心? 違う、これは……」


 これは恐らく──経験。

 知っている。この狂気の主と対峙した事がある。だからこそ自分は気配を感じ取れる。

 それを裏付けるのは曖昧な記憶の欠片。精神の崩壊を防ぐために本能が封印した、あるいは切除した記憶の一部分。


 邪教の男が言った、多くの人間はこの気配を感じないという言葉は恐らく事実なのだろう。誰しもがこれを感じ取っているのなら、既に王都は絶望と混乱の最中にある筈だ。

 だが、そうはなっていない。強盗があった事による喧騒が遠くから聞こえているだけで、町は今も静かなままだ。


「まぁ、いい。ならばお前にも分かる筈だ! 邪神様がすぐ近くに御出でになっているという事を! この袋小路の世界を破壊して下さるという事を! あぁ邪神様、私はここにおりますっ!」


 男は大きく口元を歪ませ、歓喜の表情で叫ぶ。

 このまま邪教の情報を得るために喋らせておくか、近隣住民に不安を与えないように黙らせるかを悩んでいたところで変化はすぐにやってきた。


「もうこれ以上お待たせする訳にはいかん! 早く儀式を行い、邪神様をこの世界に正式にお迎えしなければ! ……!? ……ひっ……! あが……っ」

「? おい、どうした!」

「なん、だ。これは……? 違う、こんなもの……違う! 来るな……! 来るなああああああぁ!!」


 突如男は何かに怯え、背後の壁に頭を衝突させながら首を、胸を、地面を掻き毟り、血だらけになった両手を己の口に押し込んだ。続けて全身を痙攣させながら口内の異物を掻き出すような動作を繰り返すと、ついには白目を剥いて脱力する。

 急いで状態を確認したが呼吸はしており、どうやら失神しただけのようだった。


「邪神の影響を受け過ぎた、のか……?」


 長年にわたって祈りを捧げ、邪悪と狂気に対する感度を研ぎ澄ませていたであろう教団の信者達。

 この男はそんな気配を強く知覚した事に精神が耐えきれず、こうして狂ってしまったのだろうか。


 気付けば邪神の気配は消え去っており、重く停滞していた空気も元に戻っていた。止まっていた時がゆっくりと動き出すような感覚。


「邪教……か」


 状況とは不釣り合いな、美しく澄んだ空を見上げて思う。

 男の話はどこまでが本当なのか。

 他の信者が続けて事件を起こすのではないか。


(それを確かめるためにも、やはり奴らを野放しにはできない。まずは家に報告して、多少強引にでもこの男に尋問を……)


 やるべき事とその手順を脳内で組み上げていく。立ち尽くしている時間など一瞬たりとも有りはしない。


 目を閉じて息を吐き、もう一度前を見る。

 昨日まで心中を支配していた虚無感や無力感は完全に消え去り、胸の内には確かな火が灯っていた。

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