傾倒:レティーシア
「おいで、ハッピー」
クラスメイトの少年が、ペットの小動物を呼ぶような気安さで虚空に声を掛ける。
幼少期に名付けたであろう素直な名前の響き。小柄で可愛らしい召喚獣が呼び出されるのではないかと考えた私だったが、その予想は大きく外れる事となった。
──どろり。
気配を感じた瞬間、召喚場の空気が冷たく、そして重くなる。まるで水の中……いや、油の中にいるような不自由さ。息苦しさ。
咄嗟に自分の守護獣に助けを求めようとして──寸前で踏み留まった。今呼べばもう会えなくなる。
──ぐちゃり。
虚空に現れたのは漆黒の裂け目。そこから出てきた大きく柔らかい何かが召喚場の中央へと落下し、強い衝撃と水音を立てて楕円形に潰れる。
銀竜と少年の間を遮るようにして落ちてきたのは赤とピンク色の……肉塊? 馬車ほどの大きさを持つソレは表面に無数の凹凸と突起のようなものを持ち、その窪んだ部分から赤黒い粘液を滲ませ、溶けた体をスライムのように使って這いずりながら移動している。こんな召喚獣……いや、生き物は見た事がない。いてはならない。
視界に入れているだけで全身に鳥肌が立ち、寒気と嫌悪感で手が震える。この世の禁忌に触れたとしか思えない、とても生物として認める事のできない異質な姿。神への冒涜。
「お、おま、それ、ヒト……なの、か」
私より近くでそれを見ているジェイドが声を震わせる。
その言葉の内容が気になって、本能が訴えかける忌避感を抑えつけて肉塊に目を凝らした。アレが一体何なのかを確かめるために。
そして私は、肉塊の表面に──無数の人間を見た。
「なん……なの、あれ……う"っ。おえ……」
鮮やかな赤は剥き身の人間の肉。無数の顔が、腕が、胸が、脚が痛々しく爛れた姿で寄せ集められ、癒着し、ひとつになっている。
パクパクと開閉する女性達の口から発せられるのは自らを殺してくれと懇願する声。痛い、苦しいと叫んでいる溶けた顔はどれも悲痛に歪んでおり、いくつもの手や脚が滅茶苦茶に暴れて耐え難い苦痛から逃れようとしている。
ぐるぐると宙に視線を泳がせていた数十にもなる眼球達は、やがて強い敵意を込めた視線を目の前の銀竜に集中させた。
──辛い。悔しい。恨めしい。妬ましい。
肉の牢獄の中で際限なく膨れ上がった行き場のない憎しみは、やがて目の前の傍観者を地獄に引き摺り降ろす理不尽な刃となる。"ひとかたまり"になった者達は、目の前にある平穏を──
『縺ゅ�窶ヲ窶ヲ繝峨Λ繧エ繝ウ縺輔s縲∽サ頑律縺ッ繧医m縺励¥縺企。倥>縺励∪縺吮ヲ窶ヲ』
空間を斬り裂くような甲高い声が無数に寄せ集まった人間の口から発せられる。それは聞く者の恐怖心を煽り、自らの怪物性を高める不浄の鳴き声。
「ぁ……ぁ……、うぷ……っ」
気付いた時には腰が抜けていた。今すぐにこの場から離れなくてはという本能がようやく機能したところで立ち上がれなくなり、五感全てから絶え間なく流れ込んでくる狂気から逃げる事もできず延々と精神が犯されていく。
今までの人生で少しずつ培ってきた常識が、性格が、自我が、何か恐ろしいものに塗り替えられていく感覚。込み上げる胃酸を震える手で押さえたのは最後に残った自尊心か、それとも新たに植え付けられた人格か。
「先手は譲ってもらえるみたいだから、まずは胸を借りるつもりで軽く当たってみようか」
『縺ッ縺�』
少年の指示を受け、その巨体からは想像もできない軽快さで怪物が前進する。無数の腕と脚を叩きつけながら床を滑るようにして銀竜との距離を詰めた肉の塊は、縮めた体の反動を使って高く跳ね上がるとそのまま召喚場の天井に張り付いた。
『縺ゅ�窶ヲ窶ヲ縺倥c縺ゅ∵判謦�@縺セ縺吶�窶ヲ窶ヲ��』
見上げる程に高い召喚場の天井から害意が込められた叫び声が降り注ぐ。聞く者の正気を大きく削る音の波が地上に届いたのと同時に異形の怪物は体を膨れ上がらせ、血肉を撒き散らしながら破裂して──空間ごと呑み込んで召喚場とひとつになった。
「な、に……ひぃっ……!」
瞬間、目の前に無数の溶けた顔が現れる。
耳元で発せられる怨嗟の声。今私が座り込んでいる柔らかな床は、女性の胸と肩が同化した部位。ここは怪物の体内だ。
悪質な夢から目覚めようと強く目を閉じ、恐怖で歯を鳴らしながら理解した。今私は巨大な肉塊の中に取り込まれ、心を、自我を、魂を消化されようとしている。
母親と父親の事を思う。このまま私は人格を失い、別の何かになるのだろうか。あの肉塊とひとつになるのだろうか。
「レティーシア」
「レティーシア」
そう思うと、いつの間にか両親が目の前に立っていた。優しく微笑んでいた母親と父親の体がブクブクと泡立ち、融解していく。
「あぁ、レティーシア。苦しい。痛い。イタイ」
「辛い。息苦しい。助けておくれ、レティーシア」
苦しんでいる。両親が、私の目の前で。
「レティーシア。痛い。痛い。こっちに来て」
「レティーシア。苦しい。苦しい。こっちに来なさい」
「ママ、パパ……!」
いかなくては。
腕を使い、肉塊の上を這いずるようにして前に進む。二人を助けたい。離れ離れになりたくない。
こちらに向けて伸ばされた両親の手を握り返そうとしたところで──
「え……何やってんの。そっちは危ないから行っちゃ駄目だよ」
──伸ばした手を取られ、後ろに振り向かされた。
召喚場の白い壁。平然とした少年の表情。
「……あ……れ……? ……ひッ!」
がきん、と。すぐ後ろで巨大な何かが口を閉じる音が響く。あと少しでも這い進んでいれば間違いなく巻き込まれていたであろう薄皮一枚の距離。少年に手を引かれ、私は恐怖と絶望の中で失う筈だった命を救われた。
続くゴリゴリという咀嚼音から逃げるように這って進み、迷わず少年の脚に抱き着いた。薄い服越しでも分かる温かい人間の体。魂から底冷えしていた私の身体に、人の熱が伝わってくる。
「ヘレシー、ごめんなさい。助けて。ママとパパが、このままじゃ」
「へ、君のご両親? ……いないけど、そんな人達。ここには君と僕と彼しかいないよ。幻覚じゃないかな」
「で、でも、沢山の顔が、床に! 天井に!」
「それは本当の事だけど……あれだよね、少し個性的だよね、彼女」
少年の腰に縋りつきながら振り返ると、そこに助けを呼ぶ両親の姿は無かった。
「あ、もしかして君って怖いのとか苦手だったりする? 故郷でもさ、そういう人が彼女に会うと幻覚が見えたりしたんだよね。擬態すると多少はマシになるんだけど、あれは擬態していない姿だよ。ここには当事者しかいないし、君も彼もいい性格してるから平気だと思ったんだけど……もう少し気をつけるべきだったかな」
彼の間の抜けた声を聞いていると、体の感覚が戻ってくる。安心する。
耐え難い恐怖と狂気から、私を救ってくれた声。
「わざと相手を怖がらせる技とかもあるんだけど、あれを使うと母さんがビックリして怒るからあんまり使わないようにしてるんだよね。昔ハッピーと一緒にゲンコツもらって叱られたっけ。懐かしいなぁ」
耳を撫でる音。抱き締めた脚から伝わってくる温もり。心が優しく柔らかなもので包まれ、失いかけた人間性が戻ってくる。
もう二度と手放したくない。あの恐怖を感じたくない。このまま彼に救われていたい。
ぎゅっと腕に力を込めると、今最も聞きたい彼の声が更に頭上から降ってきた。
「えっと……ごめん、動けないから離してほしいんだけど……」
あぁ、嬉しい。嬉しい。この声を聞く度に私は救われる。悪夢から遠ざかる。
この少年は……ヘレシーは私を守ってくれる。
「えっ、なんか目、怖っ。ごめんごめん。驚かせちゃったのは謝るけどさ、決闘するよう仕向けてきたのは君だし、守護獣同士の戦いに拘ったのはあっちの彼じゃない? 僕は何も悪くないと思うんだよね。それにハッピーだって年頃の女の子なんだから、そういう反応をするのは失礼だよ、うん」
彼がたくさん喋っている。彼が喋れば喋るほど、私は彼の声を聞く事ができる。狂気を感じずにいられる。
うっとりと彼の話を聞きながらジェイドの悲鳴やシルバーの雄叫びを意識の外に追いやっていると、さほど時間の経たない内に召喚場は静かになった。
もう怖い事は終わったのだろうか。私は助かったのだろうか。
ああ、よかった──。
「あ、ハッピーおつかれ! いっぱい増えて疲れたでしょ。ご飯食べに行こっか」
「……?」
無数の濡れた肉が這いずる音が全方位から迫る。この場所を──少年を中心にして近付いてくる。
この瞬間まで意図的に認識しないようにしていた水音。それは私にとっての恐怖そのもの。
嘘。嘘。どうして。
やがて粘性のある水音が止み、あの巨大な肉塊に取り囲まれた事を悟る。触れずとも、空気越しに熱が伝わってくる距離。
私にできるのは震え、祈りながら彼に抱き着く事だけだった。
『縺ゅ�窶ヲ窶ヲ谺。縲√◎縺謎コ、莉」縺励※繧ゅi縺縺ヲ縺�>縺ァ縺吶°窶ヲ窶ヲ��』
「ひ……ッ!?」
いくつもの手が肩に置かれる。耳元で呪詛のようなものが囁かれる。
──居場所を明け渡せ。そこからいなくなれ。
私を排除しようという明確な意思が込められた声。
少年から得られる安心感と怪物の手から流れ込んでくる狂気の間で板挟みになった私は、その場で崩れ落ちながら意識を失った。
◇ ◇ ◇
【王都内某所:地下祭壇】
「……この狂気……っ! ……ッ、あぁ……あぁ! ついに私達の目的が果たされるのですね……! この狂気の濃さと強さ、場所は……きっと、王都内のどこか……! 今しばらくお待ち下さい。すぐにお迎え致します……!」
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