第4章 1980年~遭遇・学校へ

 和也が走った。

 僕はそれを追った。

 入り口近くに座ってマンガを読む肇と直己、そして明子へ近付く洋も見える。

 明子は窓から外へ身体を向けて声を放っていた。

 和也が窓まで直行する。

 僕も目を泳がせる肇たちを通り過ぎ、和也の横へ立った。

「洋くん、明ちゃんを向こうへ!」

 和也が怒鳴った。

 まだ悲鳴が尾を引く明子を抱えるように、洋が僕の視界から消えた。

 僕の注意は初めから一点に集中していた。

 窓の外――景色は庭だ。沈むような闇が雨に反射している。街灯も他の家屋の光も届いているのに、ただ闇を強調しているようにしか見えなかった。

 庭を囲むコンクリート塀。その上に闇よりも濃い黒が、まるでそこだけ抜けたように立っていた。

 黒いコートに大きな帽子、そして細身のスタイル――見覚えがあった。

「〈口裂け女〉――?」

 僕は小さくつぶやいた。

 逃げるよ――和也が踵を返した。

 僕はギリギリまで目を離さずに、窓から離れた。

 最後の一瞬で、黒影がゆらりと動いたのが見えた。

「立って! 逃げるんだ!」

 和也が肇と直己に声をかけて廊下へ飛び出していった。

 マンガを持ったまま、意味を解せない二人は僕が通り過ぎるのを見過ごした。

 明子の口を抑えながら下りていく洋が先の方に見えた。

「肇くん、直己くん、急いで!」

 階段口で呼ぶ和也に誰かがやっと反応した。

 廊下をついてくる音がする。

 が、一人分の足音であった。

 振り向くと、肇だけであった。

 直己は部屋にまだいた。ドアではなく、窓へと向かって行った。

 僕は肇を先に通した。

「洋くんについていって」

 何か訊きたげな肇を和也は追いやった。

 直己――と僕は叫んだ。

 窓の前に立った直己の向こうに黒い影が飛び出した。

 ぐい――と腕が引っ張られた。

 和也だ。

 階段へ足が乗った時、ガラスの割れる音と悲鳴が響いた。

 転げるように階下へ達する。

 先行していた三人は玄関で靴を履き終えている。

「早く外へ!」

 和也の声に、洋がドアを開けて外へ飛び出した。

 雨音が急激に家屋内に侵入する。

 それでも二階の音は掻き消えず、僕の耳に届いた。

 何かが飛ばされて、壁に直撃した。

 肉を打つ嫌な音であった。

 遅れて、重いものが廊下を出て走り出したのも分かった。

 人の足の裏ではない奇妙な音が複数――頭上を渡っている。

 背中に照準をつけられたような寒気を抱えたまま、僕は玄関へ飛び込んだ。

 早く――と和也に身体を引っ張られた。

 靴を手に取って、道路へと出る。

 靴を履きながら振り返ると、和也はまだドアを開けたままであった。

「和也――」

 家を揺らすような軋み音が、開け放たれたドアから漏れてくる。

 和也は家の中を覗きながら、まだ動かない。

 近付いてくる。

 腕の産毛が逆立つ音であった。

 もう一度、名前を呼ぼうとした時、和也がドアを叩きつけるように閉め、僕の隣に来た。

「あいつらは?」

 飛び跳ねるように靴を履きながら、見回す。

 三つの影が学校の方へ弱々しく走っていく。

 行くよ――と和也が肩を叩いた。

 走り出した後、何かがドアにぶつかった。

 数度、その音は耳をついた。

 だが、ドアを破壊することはできなかったようだ。

 後ろを振り向いたが、その姿が路上に出てくることはなかった。

「安心しないで。目に見えるところにいない以上、次にどこから来るか分からなくなったってことだから――」

「そっか――和也はさっきドアを閉めるまであいつが降りてくるのを待ってたんだ」

「意外と巨体で、階段で四苦八苦してたから、ぎりぎりいけるかな――って思ってね」

 こいつ凄い――と僕は思っていた。

「姿は――」

「全部は見えてない」

「そんなにでかいの?」

 和也は返事をしなかった。

 雨は小降りになっていたが、足下の水が走りづらかった。

 通りへ抜けたが、自動車の往来は一台もなかった。

「まだそんな時間じゃないのに――」

「結界らしいね」

 道沿いに走り出す。

 もう一本道と交差する所に歩道橋が見える。その向こうに学校がある。

 先を行く三人が校庭へ入ったようだ。

 三つの小さい影が金網の向こう、雨に濡れた校庭を遠ざかっていく。

「どこへ行く気だろ?」

「逃げ切るしかないんだ。戦って勝てるわけじゃないし、正義の味方が助けに来てくれるわけでもない」

「現実だよな」

「とりあえず、見通しが利いて、でも距離が短く、勝手が分かっている場所――そこがベストだ」

「学校でいいんだ」

 そういうこと――と和也が校門に入っていった。

 僕たちは洋たちに正面玄関で追いついた。

 当たり前だが、カギがかかって中へ入られずにいたのだ。

 こっち――と和也が校舎に沿って右へ歩き始めた。

 一つの窓の下に立つとそこをぐ――と押し上げた。

 窓は中へ開いた。

「ここのカギ、壊れてるんだ」

 と、よじ登った。足を持ったり、尻を押したりして、和也を押し上げた。

 協力することで全員が中へと入ることが出来た。

「トイレか――」

 僕はつぶやいてしまった。

 そこは一階の男子トイレであった。

 よく怪談の場所になるのが学校のトイレであるが、全く怖くなかった。

 そ――とトイレを抜け出る。

 昼間の喧騒が消えた空間――そこが作り出す静寂は耳に痛かった。

 だが逆を返すと、それは結界とは違う静けさであった。

 遠く自動車のエンジン音が聞こえる。

 自重で閉まるドアをゆっくりと調整する和也を最後に皆が廊下へ出てきた。

 和也はそのまま移動を始めた。

 腰を屈め、窓枠より低い姿勢に僕たちは倣った。一列で和也の後についていく。

 靴は手に持っていたが、水を吸った靴下が気持ち悪い音を響かせた。

 和也は二階へ進み、体育館の前でやっと腰を下ろした。

 洋は体育館のドアを開けた。

 鯨の口の中のように奥深い空間が見えた。

「中には入らないよ」

 和也が洋に閉めさせた。

「ここの方が僕らには動きやすいんだ。逆に向こうは動きづらい。だからどこから来ても逃げ道が確保しやすい」

 そう説明した。

 なるほど――と僕は納得した。

 体育館前の廊下は全校集会時に混雑するほど狭い。児童二人がすれ違うのがやっとの廊下――薄暗くEの字の縦棒にあたる。

 背面に窓はない。侵入してくるとしたら両端しかない。

 だから、右から来たなら左に――、左から来たら左に――進めばいい。向こうはあの大きさなのだ。素早くは移動できないのは、洋の家で証明されている。

「直己は――一体、直己はどうしたんだ?」

 肇がやっと声を上げた。

 彼だけが事情を知らないのだ。

 和也が立った。

 洋に明子の傍にいるよう言い置き、肇を連れて階段前へ行った。

 僕もついていった。

 脅える明子を見ているのが辛く、掛ける言葉が見つからなかったからだ。

 和也の説明に、肇の顔が見る見る赤くなっていく。

「そんな――聞いてないぞ、俺たちは!」

 声が響く。

 僕は声を下げろとジェスチャーした。

「そんな化物が出ると知っていたら――」

「来なかったか?」

 和也が低く言った。温和な彼にしては珍しい口調であった。

 メガネの鼻の部分を指で押し上げると、和也は続けた。

「知ってても君たちは来たよ。幽霊を見つけるんだと、寺や墓場に忍び込んだりする君たちが、今の話を聞いたからって、止めると思う? ――喜んで来ただろうね」

 なんて罰当たりな――と棚上げではあるが、僕は彼らをバカなやつらと評価していた。

「テストの答えを聞いてからその問題は分かってた――って言ってるもんじゃないか。卑怯な言い方するなよ」

 肇がヒステリックに首を横に振った。

「直己に同じことが言えるか? 黙っていたお前らの方こそ卑怯じゃないか」

「僕らだってさっき聞いたんだ。洋と下に行っている時に――。君たちに説明しようと戻った時に襲われたんだから――」

 しょうがないじゃないか――と僕の声は語尾に行くに従ってすぼまった。

 肇が強く睨んでいた。

 仲良くなったと言っても、僕は今日初めて会ったばかりの部外者なのだ。僕が一番敵視しやすい存在だったかもしれない。

「俺は巻き込まれるのはごめんだ」

 肇が階段へ向かった。

 肇――と和也が追った。

 僕はちらりと兄妹に目をやった。光の届かない所で影が二つ、寄り添いあいながら、恐らくこちらを見ている。

「ちょっと行ってくる」

 一声だけ掛けた。

 一階と二階の踊り場で僕は足を止めた――というより止まらざるを得なかった。

 階段中ほどに和也が――下りきった所に肇が――そして肇の肩越しに人影が見えた。

 下足箱が林立する中で、光の届かない陰よりも深い影がこちらを向いている。

 靴箱より頭がはるか上にある。天井に届きそうなほど背が高い――というより長い。

 ゆらり――ゆらり――と妙な動きで近付いてきている。

 和也が踵を返した。

「肇くんも来い!」

 肇は和也の声に反応しない。

 頭が影の上端に向いている。

 彼の位置からなら姿が見えているのかもしれない。

「肇――!」

 僕は叫んだ。

 和也が通り過ぎざまに僕の腕を掴んだ。

 身体が自然と上階へ向かう。

 視界が階段に消えるその一瞬に、黒い影が肇に向かったのが見えた。

 昇りきる前に肉を打つ音が階下で響いた。

「洋くん、走って!」

 和也の声が廊下で反響する。

 その余韻の中で、僕は重みのあるものが落ちた音を聞いた。

 水気を撒き散らせるような音がそれに続いた。

 もつれるように走る洋と明子の背が見える。

 和也が体育館の扉の前――さっき休んでいた所で足を止めた。

 靴を履きながら、後ろを振り返る。

「和也?」

「君も履いておいた方が良い。走るよ」

 硬い声で言いながら、和也は視線を階段から外さない。

 たぶん、化物が上がってくるのを確認してから逃げる気だ――僕はそう思った。

 だが、何かが違う――僕の頭の警鐘が鳴っている。

 僕はそれを形にする前に叫んでいた。走っていた。

「洋! 下りるな!」

 先の方で洋が足を止めた。明子の姿は見えない。先行しているようだ。

 後ろに和也が続く気配がする。

 明子の悲鳴が窓を震わせた。

「戻るんだ!」

 和也の言葉より先に戻ってくる二人が見える。

 その向こう――階段を上ってくる影がゆらりと見えた。

「洋くんと先に行って!」

 和也が追い抜いた。

 手に抱えているのは――。

 消火器であった。

「体育館から外へ!」

 僕は泣きじゃくる明子の手を取ると、身を翻した。

 体育館の扉に達する前に背中で大きな音を聞いた。

 和也の指示通り、二人を体育館へ押しやって、振り向くと廊下はグレーのわた飴に包まれているようであった。

 わた飴の中心から和也が慌てるように走って出てきた。

 むせかえるような消火器の匂いを巻きつけた和也を迎えてから、体育館へ入る。

 木の床を踏む硬い音が木霊する。

 先行する二人が壇上横のドアにたどり着いている。

 そこから職員通用口に下りられるはずだが、そのドアが開かなかったら逃げ道を失うことになる。

 後ろで凶暴な音が僕らを襲った。

 振り向いた僕は、ドアをこじ開けるように中へ入ってくる巨大な影を見た。

「晃一くん、急いで!」

 和也が僕を追い越す。

 どうやら通用口へのドアは開いたらしい。

 ぬ――と体育館の入り口で化物が全身を晒した。

 シルエットは確かに蜘蛛であった。だが、大きな腹部からすらりと伸びているのは女性の上半身であった。

 その先にある頭は、離れていても見上げる位置にあった。

 和也がぶちまけた消火器の粉にまみれているくせに、その姿は体育館の暗部と変わらない深さがあった。闇そのもののように感じた。

 ただ、目だけが紅く僕を見下ろしている。

 晃一くん――和也の呼び声がなかったら、次の犠牲者は僕だったかもしれない。

 呪縛から解き放たれたように足が動いた。

 同時に闇も動いた。

 ドアを潜り抜け、転げ落ちるように階段を走り下りた。

 職員口のガラス戸を開けるのに手間取っていた三人に合流すると同時に、上階で通用口のドアに何かがぶつかる重い音が響いた。

 明子が悲鳴を漏らす。

「開いた」

 和也が嬉しそうに小さく言った。

 外の空気が久しく、安堵感を与えた。

「どこへ?」

 和也は大通りへ走り出した。

「とりあえず、行けるところへ――」

「それしかないよな――」

 と僕は洋を見た。

 洋は頷いた。

 明子は目がうつろで、倒れこみそうな状態であった。

「走るんだ、明子」

 洋が静かに言った。

 頷きながら明子は和也の後を走り出した。

 僕と洋が並んで続いた。

 振り向いた僕には、体育館そのものがまだ邪悪な目で見ているような、そんな気がしてならなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る