第3章 1980年~懇願・妹を守って
① 洋の家へ
「来週の土曜日、うちに泊まりに来てくれないか?」
洋は思いつめた顔をそのまま言葉にした。
両親が親戚の結婚式に行くから、土曜日は戻れない。友達に泊まりに来てもらっても良いと言われた――と洋は説明した。
僕は上の空な洋が気になりつつも、友達の家に泊まるという行為自体に揺らいだ。
OKと即答し、親を説得して承諾も得た。
待ち遠しかった土曜日はすぐ来た。
土曜日だったから授業は昼までであった。
下校し、昼ご飯を済ませると、泊まりの準備をして家を飛び出した。約束の三時を大幅に早めた到着となるが、僕は構わず小走りで洋の家を目指した。
洋の家は、僕の家と学校の間――どちらかというと学校寄りにあった。国道を大きく外れ、車通りの少ない一方通行に接した庭付きの二階建て住宅であった。
一階はリビングで、上に両親の部屋と洋の部屋、それと洋の妹の明子の部屋があった。さらにもう一部屋、物置に使っているスペースがあり、そこは隠れた遊び場になっていた。
その四部屋分が下にあるのだから、お風呂や台所を差し引いても、リビングの広さは推して知るべしだ。
テレビの前に置かれた黒革のソファーは、僕のお気に入りの場所であった。
そこが一日中僕のものだ――と考えただけで胸が躍り、知らぬ間に小走りは全速力に変わっていた。
その足が一方通行に入って止まった。
通りから洋の家は見えている。玄関のドア、その横の窓はトイレだ。二階の窓にレースのカーテンも見える。
いつもの洋の家だ。
だが――何かが違っていた。
息をすることさえ憚れる。空間そのものが、他の存在を拒んでいるように見えた。
別の家にも、路上にも人影はなく、一方通行を抜ける向こう側の道にも気配がなくなっていた。
「この雰囲気――」
僕は小さくつぶやいた。
あの時の状況に酷似していた。
終業式の日――つまり、〈口裂け女〉に遭った日に――。
やあ――と突然声が上がった。
僕は悲鳴にならない声を上げて振り向いた。
そこには背の低い少年がいた。柔らかい長髪で、メガネをかけている。見覚えがあった。
僕の驚きに驚かされた表情で止まっている。
「どうかした?」
いや――と僕は返答に困っていると、その子が言葉を継いできた。
「君、高畠晃一くんだよね」
「僕を知ってるの?」
「夏休みに一緒に〈口裂け女〉を追ったよ」
ああ――と僕は情けない言い方をした。
あの時、いろんな人に声を掛け、時には友達の友達の友達が参加したこともあった。一回きりのメンバーもいた。僕は全ての人員を把握出来ていなかったのである。
「芦元和也――洋くんと同じクラスだよ」
洋を訪ねていった時に、確かに同じ教室で見かけたことがある。
僕にはそっちの印象の方が強かったようだ。
「君も洋くんに誘われたの?」
「芦元くんも?」
「和也でいいよ」
和也は笑いながら、歩を進めるように促した。
いつの間にか、通りには人がいた。向こうの道路にも行き過ぎる自動車が見える。
「他にも二人、同じクラスの子が泊まりに来るはずだよ」
和也が斜め前で言う。
僕は生返事を返した。
洋の家の前で和也は立ち止まると、振り向いた。
「どうかした?」
和也がさっきと同じことを訊いてきた。
「何が――?」
洋くんがね――と和也は言いながら二階の窓を見上げた。そこには影はなかった。
和也は別に家を見たわけではなかったようだ。
「最近、おかしいんだ」
え――という形だけで、声に出さずに口を開いた。
「まだ帰ってないみたいだな」
和也はチャイムを鳴らして、反応が無いのを確かめると言った。
「どういうこと?」
「お父さんとお母さんを駅まで見送りに行ってるんだ。帰ってくるのが二時半って言ってたから、約束は三時なんだよね」
「そうじゃなくて――」
和也はドアに寄りかかって僕を見た。
メガネの向こうの目が続きを促す。
「洋がおかしい――って?」
「時々ね、すごく脅えるんだ。何も無いところをじ――っと見たり、声を掛けただけでひどく驚いたり――。そうさっきの君みたいに」
和也の話によると、洋は暗い所や一人になることを恐がり始めていたという。二学年下の妹――明子の様子を見に行っているのを度々見かけていたというのだ。
「思い切って、何があったかを訊いたんだけど、逆に今日泊まりに来てくれ――と誘われただけだった」
「そうなんだ――僕は気がつかなかったな」
確かに誘われた日、洋は思いつめたような感じではあった。だが、誘われる前後二週間、タイミングのズレのせいで洋とは顔を合わせることはなかった。だから和也の言う変化には気付くことはなかった。
そう言うと、和也は首を横に振った。
「洋くんの反応が君に似ていたんだ。だから君には何が起きていたんだい――と尋ねてみたんだ」
「僕が見ていたのは――勘違いかもしれないけど――」
と前置きをしてから、自分が感じたことを主観を交えて和也に話した。
「〈口裂け女〉がこの近くにいる――と?」
「だから勘違いかもしれないって――」
和也は考え込むように腕を組んだ。
「結界――って知ってる?」
しばらくしてから和也がこう訊いてきた。
僕は首を横に振った。
「調べたことがあるんだけど、言葉を変えるとバリヤーかな」
「攻撃を防いだりする?」
「うん――でも、防ぐのは人の意識」
空間を支配する能力――と和也は付け加えた。
いるのにいないように見える。入ってはいけない気にさせる。視覚と聴覚を塞ぎ、内と外に分ける。その能力を『結界』と和也は呼んだ。
確かにそれならば、僕が遭遇した状況の説明はつく。
「それが〈口裂け女〉のとは限らないが、人外のものという可能性は大きいよね」
「例えば幽霊――?」
和也は首をかしげた。
「何にせよ、洋くんが遭遇している件と、君の件は、全く無関係というわけじゃない気がする」
「訊くしかないってこと?」
「その時は、君も同席してほしいな」
僕は和也に頷いた。
正直、その時に僕はわくわくしていた。
胸を躍らせていた自分が恥ずかしい。そのまま帰っていれば良かった――と今なら思っている。
② 襲撃
しばらくすると、和也と明子が並んで帰ってきた。
脅える表情が、僕と和也を見て緩んだのは、今の話があったからだけはなく、彼らの安堵を示していたのだと、すぐ後で知ることとなる。
赤上肇、星野直己――泊まりの他のメンバーだ。二人とも和也と洋のクラスメイトで、僕らに遅れること一時間後に到着した。
もっとも、僕らが早すぎただけで、実際は肇が5分ほど遅れたに過ぎない。
ご飯はカレーが用意されていた。明日の朝のパンも準備されており、洋の両親が帰ってくる次の日の昼に店屋物をご馳走になる予定まで決まっていた。
そこでお開きになるまでの、ほぼ丸一日が子どもたちだけの自由時間であった。
当初、僕だけが部外者でぎこちなかった。妹の明子でさえ、三人とは面識が深かったようで、バカ話に盛り上がれていた。
僕は、さっき和也と話したとはいえ、皆と打ち解けるのに多少時間が必要であった。
といってもご飯を食べるまでの数時間である。
一緒に準備し、食べ、片づけをした頃には『くん』を外した仲になっていた。
土曜の夜のお楽しみであるテレビ番組を見ながら、ボードゲームを堪能した。
いつもなら、この番組が終わると就寝の準備に入るのだが、もったいないよね――という直己の言葉で、ボードゲーム続行となった。
ここで和也が切り出した。
「悪い、肇くん、直己くん。君たち、明ちゃんと遊んでてくれないか?」
「なんで?」
「お勉強会――参加する?」
肇と直己は大きく首を横に振った。
二人を敬遠するための和也のでまかせであった。
大丈夫だから――と脅える妹をなだめる洋を、僕は目の端で見ていた。
戻る時には、お菓子とホットミルクを持っていくと約束し、僕らは洋とリビングへ下りた。
台所すぐ横の四人掛けのテーブルに座った。
洋の向かい側に和也が、僕は彼らを左に見る位置に腰を下ろした。
「単刀直入に訊くよ。――何があった?」
和也が優しげに、でも誤魔化さないでという言外の厳しさを込めて訊いた。
洋が言い澱む。
僕は今日ずっと洋を――いや、明子と二人を観察してきた。
二人の様子は明らかにおかしかった。
直己、肇と徐々に人数が増えるごとに表情は明るくなっていった。
だが、バカ話や会話はしてても、上の空で、ミスも多かった。ゲームの敗者は、ほぼこの二人であった。
夜が闇へと変貌していくに従い、脅えは尋常ではないものになっていく。
小さな家鳴りに驚き、降り出した雨に窓が揺れる度、小さく悲鳴を漏らしていた。
「何があったのか、分からないと協力のしようがない」
僕は和也の説得に援護射撃が出せずにいた。洋を追い込むわけにはいかないし、かばっていては真実を引き出せないからだ。
「もし言ってもらえないなら、僕は帰るよ」
「和也――」
厳しい言い方をした和也をたしなめようとした時、洋が顔を上げた。
涙が頬を伝っていた。
ごめん――洋が謝罪を口にし、そして話し始めた。
その始まりは、神社裏の竹林からであった。
「何で、そんな所に――?」
「〈口裂け女〉を捜しに行ったんだ」
洋は僕を見ながら言った。
え――と僕の口から漏れた。
「ついてくるな――と言ったんだが、明子も一緒に――」
その神社は僕の家の近くにある。
敷地内には児童館も有り、竹林の向こうには幼稚園もある。表通りへの抜け道のように利用する人もいるから、神社といいながら人通りが絶えたことがない。
その竹林の中ほどで、洋は明子の手を取った。普段はそんなことはしない。急に心細くなったそうだ。
明子だって嫌がる――はずが、強く握り返してきたという。
急に音が無くなった――と洋は言った。
僕は横目で和也を見た。
蛍光灯に光るメガネの奥で、和也の目が僕に頷いた。
「竹林って周りが見えるだろ。どんなに奥まで行っても――。すぐ近くのブランコも、奥の幼稚園も――。でも人の気配が消えたんだ。誰もいないんだ」
「逃げれば良かったのに――」
「足が動かなかったんだ。前にも、後ろにも――」
それを笑える者はここにはいなかった。
「その時だよ。急に視界に入ってきたものがあった」
「何――?」
洋は目を上げた。恐らく、今彼は頭の中で同じものを見ている。恐怖の眼だ。
「蜘蛛だ――」
「蜘蛛?」
僕と和也が同時に声を上げた。
「それも人ぐらいあった。いや――形は蜘蛛なんだけど、身体は女の人だった」
突拍子も無い話であった。まだ〈口裂け女〉の方が真実味を感じる。そのはずなのに、僕はそれを一笑できずにいた。
それで――と和也も茶化すことなく、続きを促した。
「蜘蛛は、こう倒れてるようで、身動きをしてなかった」
洋は手と腕でその様子をジェスチャーした。力尽きたような姿勢でうつぶせていたようだ。
「ここからそこまでの距離で、間には竹が数本立っているだけだった」
洋がリビングの端を指差し、僕はそれにつられて目を流した。
かなり近い。竹が数本では遮るものがないも同じだ。
「ぱっと見は黒い塊があるみたいで、蜘蛛だとはやっと分かるぐらいだった」
「じゃあ、なんで身体は女の人だってわかったの?」
洋が一瞬ためらった。言いづらいというより、言葉にしようと思い描いた記憶に声を奪われた――という感じであった。
「明子が逃げようと僕の手を引っ張った時、足下の何かを踏んだ。パキ――っと音が響いて、それで――それで、そいつが身体を起こしたんだ」
「それが女の人だったんだ」
「僕は明子の手を引っ張って竹林を抜けた。そのまま家に帰って二人で震えていた」
「親には?」
「言った――。何とか説得して、パパに見てきてもらった。だけど、竹林には何も無かったって――何かがいた形跡も無かったって言ってた」
結界だ――と僕はつぶやいた。
和也も頷いた。
不思議がる洋に和也は言った。
「それが一ヶ月前ほどだね」
「なんで分かるの?」
「洋くんが変だなって思ったのがその辺りだから」
和也は軽く言うと、洋を見て続けた。
「でもまだ奇怪な出来事があったんでしょ」
洋は頷いた。
竹林に何も無かったという父親の言葉を受け、洋と明子はそれを信じていた。
だが、ある夜、明子が悲鳴を上げた。
窓の外に誰かいた――と泣いていた。
やはり父親の調査に引っ掛かるものは何も無かった。二階の窓を覗ける位置に、立てるような所は無いから――と言い張った。
窓に自分の顔が映ったのだと父親は明子を慰めたという。
僕はある可能性を考えていた。
「そんな狭い常識で見ているから証拠を見逃すんだよね」
和也も同じことを思っていたようだ。
洋が頷いた。
「妹に聞いたら、目だけが逆さまに部屋を見回していた――って。屋根の近くに何かが掴まっていた跡が――」
その存在は疑いようがなかった。
「だから僕は明子を一人にしないようにした。そろばん塾の送り迎えをするようにした。でも三週間前だ。帰りに公園の近くを通った時――」
やはり、あの感覚に囲まれたという。
そして公園の反対側の入り口から、黒い影が土埃を上げながら迫ってきた。
洋は人が上げる悲鳴が心を震わせるということを初めて知ったそうだ。それが妹の上げるものなら尚更だ――と。
洋は明子の手を引いて走った。
影が公園を抜けてくる前に大通りに出れば助かる――洋はそう思ったそうだ。
だが、悲鳴を上げている明子が足を絡ませ、大きく転んだ。悲鳴は止まらない。
影の気配は迫る。
「僕は――その時、妹を見捨てて逃げよう。狙われているのは妹なんだから――そう思った」
洋は小さくそう言った。
突然、街の音が溢れた。
止まらない明子の悲鳴が近所の人を呼んだ。
僕らは助かったんだ――そう思った時、僕も泣いていた。
「明子を見捨てようとしたことが悔しかった。僕は自分が許せなかった――。二度と妹を見捨てるもんか――僕は誓ったんだ」
決定的である。
なんかしらの化物が明子を狙っているのだ。
ならば大人のいない今が絶好のチャンス――いや、洋たちには危機なんだ。
そう、僕はここで思い至った。
洋は妹を守るために僕らを呼んだんだ――と。
「乱暴に妹を引っ張ったからだと僕は両親に怒られた」
洋は両肩を抱くような姿勢で、震えながらそう言った。
恐いからだ――。
当たり前である。化物が来るかも知れないのだ。
僕は帰ろう――そう思っていた。
顔見知りではあるし、何より親友の妹だが、明子のために恐い思いをする義務はない。
「お化けが出たんだ――と必死に言ったんだけど誰も信じてくれなかった。大人は誰一人として――」
洋はその心細さを語った。
「恐いと思うから見えるんだ――そう言って何も聞いてくれなくなっていた。パパとママは僕が止めたのに、今日泊まりに行ってしまった」
帰るよ――僕はその一言が言えなくなっていた。
信じてもらえない悲しさと苦しさは僕にも経験があった。
あの〈口裂け女〉目撃騒動――あれを信じてくれる大人が誰一人いなかったから、僕は夏休みをその捜索に費やしたのだ。
「君たちが来てくれた時の僕の嬉しさ――僕は一生忘れない」
洋が笑顔を見せた。
僕は困って、和也を見ると、彼も苦笑していた。
「明子を一緒に守ってくれないか――」
洋が目を見開いて頼んできた。
「僕は構わないけど――」
和也は僕を見た。
「上の二人にも説明した方がいいんじゃない」
僕は承諾する気恥ずかしさをその言葉で誤魔化した。
ごめんね、ごめんね――と洋は繰り返し謝っていた。
そんな洋を伴って、二階へ戻ることにした。
「晃一くん、君は帰ると思ってたな」
「正直、ものすごく恐いよ」
「たぶん、洋くんの話は本当。もし何かあるとしたら今日。それは昼間の結界が存在を証明しているよ」
階段の前を行く和也が普通にそう言った。
「和也は恐くないの?」
「話を聞いている限り、逃げられない怨霊というわけじゃなさそうだから、うまく立ち回ればなんとかなるんじゃないかな――って気がしてね」
和也はそう言って、に――と笑った。
リビングから二階への階段に登れる。バスとトイレの上を通るのだ。昇りきると正面が洋の両親の部屋である。玄関の真上で、僕が見上げたレースのカーテンがある窓の部屋だ。
廊下をUターンをすると、物置、洋の部屋、突き当りが明子の部屋だ。
「あれ?」
洋の驚いた声が廊下を渡った。
部屋に誰もいなかったようだ。
下からでも顔が青ざめて見えた。
「こっち、こっち」
奥の明子の部屋から肇が顔を出した。
「何してんだよ」
「こっちでマンガ読んでんだ」
洋が明子の部屋へ向かった。
和也はその後を追わず、洋の部屋に入った。
僕も和也に続いた。
和也は窓際に進んだ。
窓を開け、身体を乗り出すように屋根を見上げた。
そのままの姿勢で和也が手招きをした。
僕も近付き、和也の横から同じようにしてみた。
屋根で弾かれ砕かれた雨粒が、水の匂いを振り撒きながら落ちていく。
和也が指差した所に目をやった。何かを引っ掛けた跡があった。まだ新しい穴はこの二、三日のもののようだ。よく見ると一つや二つではない。
「これは例の化物の――?」
「明ちゃんの部屋を一発で見つけたはずがないと思ったんだ。どこの部屋かと、絶対探していたはずだからね」
「なるほど――」
僕は納得しながらも、微かにその推理に違和感を感じていた。
僕はその違和感を打破すべく、頭をめぐらせていた――だが、それは甲高い悲鳴で打ち切られる。
奥の部屋――悲鳴は明子のものであった。
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