出逢い 覚えてない貴方

「………………」


目の前で彼が眠っている。


彼。兄さんが。


魘されている様子は無い。そっとその髪に手を差し込んで緩く撫でる。今は深い眠りにつけているのか身じろぎする様子も無い。


「……兄さん……」


私はいつも通り振るまえていただろうか。

彼を困らせていないだろうか。戻した手は未だに微かに震えている。それを強く握りしめ、深く深く呼吸を吐き出す。


「…………」


昔の私はよく笑い、よく泣く子供だった。いつも一つ年上の従兄のお兄ちゃんにくっついてばっかりで。


それも彼が小学校も高学年に上がろうという頃に終わってしまったけれど。




かけがえのなかった想い出と共に。












甲高い音が耳を劈いた。振り向けば物凄い勢いで車が突っ込んでくる。


公園の入口にいたはずの私の眼の前に。


避けられな──




『葵っ!!!』




激しい轟音が辺りに響き渡る。周りがあっという間に騒がしくなる中、私は尻もちをついてただ眼の前の光景を見つめていた。






『過労で意識が朦朧としていた』という運転手が突っ込んできたその事故は、二人の小学生を巻き込んで怪我を負わせた。


庇われた片方は奇跡的に膝を擦りむいただけで済んだけれど、もう片方は──












手術中と書かれたランプが弱々しく灯っている。

急ぎ駆けつけたお父さんと一緒に私はそこにいた。すぐにまた慌ただしい足音が段々と近づいてくる。でも私は俯いたまま。膝を抱えて震えていることしか出来ない。


『っ総護!!』


お兄ちゃんのお母さん。私にとってももう一人のお母さんみたいに優しい人。


でも今はお父さんと何やら揉めていて。

酷く動揺するおばさんをお父さんが落ち着かせていた光景を今でも覚えている。


「……ぇ………」


そして、気づけばおばさんが私を睨みつけていた。


あの優しかったおばさんにそんな目を向けられたことが、何処までも恐ろしくて。自分が取り返しのつかないことをしたのだと思い知らされて。


『私から…総護まで奪わないでっ……!!』


お父さんがおばさんの名を強く呼ぶ。ハッとしたおばさんは口に手を当てて、言ってはいけないことを言ってしまったと、後悔した様子で崩れ落ちてしまって。


ごめんなさいと、おばさんはすぐ謝ってくれたけれど、多分その時の私にはもう、何も届いていなかったんだと思う。


頭がグルグルする。喉はカラカラ。足元の感覚も希薄だ。


その後は…どうなったんだろう。気がついたらベッドの上で膝を抱えて泣いていた。

スカートはビショビショで、既に涙は枯れていた。












…お兄ちゃんの手術は成功したらしい。今は安静にしているけれど、私は会うことを許してもらえなかった。


いや、許す許さないの話ではない。それはきっと、お父さんと、そしておばさんの優しさだったのだろう。











「303号室…」


その日、ついに我慢出来なかった私はお父さん達に黙って、気付かれない様に調べたお兄ちゃんの病室を訪れていた。キョロキョロと、一人で辺りを見回す小さな私を周りが不思議そうに見守っている。


「あった!」


漸くお兄ちゃんの名前の書かれた札を見つけて、音を立てないようにそっと中を窺う。


一言でもいい。お礼が言いたかった。

助けてくれてありがとうって。怪我をさせてごめんなさいって。


ベッドの上で、頭に包帯を巻いて外を眺めていたお兄ちゃんがこちらに気づいてくれた。元気そうだ。たまらず笑顔が込み上げてくるのが自分でも分かってしまう。


お兄ちゃん。お兄ちゃん!ああ、何から話そう。お礼を言って。ごめんなさいをして。あと、あれかな。最近、近所のお爺さんが実は自分は忍者の末裔なんだぞって言いだした話とか。


「お兄…」

「キミは誰?」











荒々しい騒音を立てて、病室を飛び出した。廊下は走ってはいけません、などという注意書きもものともせずに。途中、おばさんらしき人にぶつかって呼び止められたけど、何もかもどうでもよかった。


走って走って、家に帰ってベッドに飛込んで。耳を塞いで閉じこもった。何時間か。何日か。誰かが部屋の外から話しかけてきた気がしたけど、全て拒絶した。


でも生きている限り、お腹は空いてしまうもので。扉を開けたら、直ぐそこにはまだ温かいご飯が用意されていた。いつ出てきてもいいように何度も作ってくれていたのだろう。それを一口口にしたら、とうに枯れたと思っていた涙がまたポロポロとこぼれ落ちた。

涙や鼻水を垂らして啜り泣く私を、構わずお母さんは優しく背後から抱きしめてくれた。


また、私は迷惑をかけてしまったんだ。






その日、私は笑顔を失くした。












…この小さな町にはやけに世話焼きの男の子がいる。そんな噂を聞き始めたのはいつのことだっただろうか。

足腰の悪い老人の荷物を運んでいるその男の子の姿を見て、思わず身体が強張った。




その男の子は私がもう会ってはいけない大切な人だから。

前と変わらない元気な姿。前と変わらない明るい笑顔。




お兄ちゃん。




声をかけたい。でも許されない。開きかけた口を閉ざして、踵を返す。











返したはずだった。


「(…あの人はそこまで世話焼きだっただろうか)」


気づけばまた別の人の元に駆け寄って声をかけている彼の姿に、私は違和感を拭えなかった。


商店街では色んなお店の人と仲良さげに話して。


公園では子供達に囲まれて、一緒に遊んで。


困っている人を見れば一目散に走り出す。


どこか自分すら省みないように。




「(兄さん)」




あれから。結局、私は声もかけず、けれど去ることもできず、彼を遠くから見つめ続ける長い日々を過ごしていた。それは多分、傍からみればストーカーと言われたところで一切否定できない程に。


だけど、おかげで確信できた。

彼はやはりどこか歪んでいる。


あの世話の焼き方は異常だ。昔、と言ってももっと小さい頃だが、あの日まではあそこまで過剰ではなかったはずだ。


「(…何事も無ければいいのですが)」


私は願っていた。

その懸念がどうか間違いでありますように、と












晴れて高校生になったある日のこと。その日は教室の外が何やら騒がしかった。何事だろうか。お弁当を食べる手は緩めずにぼーっと教室の入口を眺める。


「あーちゃん」

「どうしました?」


人混みを抜けて、飲み物を買いに行っていた友達が帰ってきた。こんな無愛想な私に気兼ねなく近づいてくる数少ない友達。何やら事情も知ってそうなので、取り敢えず聞くだけ聞いてみる。


「それがね、2年生の方が倒れたそうなんです」

「ほう」


成る程そんなことが。


「ほら、よく噂にもなってる…」

「え」


噂?何故だろう。その言葉を聞いた時、背筋が粟立った。


「世話焼きの先輩!」


世話焼き。先輩。






──兄さん?












「…久しぶりね、葵ちゃん」

「はい」


その日、私は遂に覚悟を決めて、家でおばさんと対面する機会を設けていた。

私達が直接顔を合わせるのはあの事故の日以来だろう。


「…………」

「…………」


「…大きくなったわね。その上、こんなにキレイに…」

「ありがとう、ございます」


「…………」

「…………」


何を話せばいいんだろうか。こうなる前はあんなに仲良しだったのに。情けなくてまた泣いてしまいそうだ。そんな資格なんて無いのに。


「ね」

「っは、はい」


俯いた私を見かねたのかおばさんが声をかけてくる。緊張と恐怖で凝り固まった私の心を解すのは、あの日の病院とは程遠い、いつものおばさんの人懐こい声。


「…抱きしめてもいい?」

「は」


返事をする前に、私は既におばさんの腕の中にいた。お母さんと同じ温もり。柔らかい。大きい。


そして、震えていた。


「……ごめん」

「え」




「っゴメンねぇ〜〜っ……」

「――――」


啜り泣く音が耳元で聞こえてくる。

…逃げていたのは私だけではなかった。きっとこの人も、何度も何度も連絡しようとしてくれたのだろう。自分がしたことを何年も悔い続けて。そして今、それを漸く吐き出してくれた。


「………」


未だ若々しいその背中に、私も手を回す。力を込めて、お互い掻き抱くように強く、強く。会話は無い。おばさんの泣き声だけが静かな空間に響いている。




けれども、あぁ、終ぞ私は泣けなかった。







「はぁ〜〜〜…」

「おばさん」


「あぁ〜〜〜…」

「おばさん、息が。息が、おばさん。おばさん。息…が、かふっ」

「あらら、ゴメンね」


私の生命の危機を察してくれたおばさんがようやくその豊満なお胸から私を解放してくれる。


懐かしい光景。昔はよくこうしてもらった。

いつも元気なおばさんがこの時は何だかいつも遠くを見つめている様で。少し不思議だったことは覚えている。


「懐かしくてつい、ね」


先程よりも緩いけど、またふわりと抱きしめられた。頭を撫でる優しい手付きは今でもちっとも変わらない。


「…あの子のことよね」

「はい」


多くは語らない。あの日から兄さんの何かが変わったことは、当然おばさんも気づいている筈だから。


「んー…、いや、私もまさか倒れるまでとは思ってなかったんだけど…」

「………」


「でも、本当にいいの?……総護は葵ちゃんのことを…」

「覚悟はできています」


彼がこれ以上無理をしないようにお目付け役として傍に置いてはくれないか。

私がおばさんに連絡したのは、この勝手極まりないワガママを聞いてほしかったからだった。


彼を歪めてしまったのは私だから。彼の傍で彼を支える。お目付け役として。いつか彼が歪みから解放される日が来るまで。例え、彼にとってもう私が赤の他人でも。






「(…違う)」


そんなもの全部言い訳だ。


私が傍にいたいだけだ。あの日、自分を救ってくれた兄さんを、今度は私が救えたらと、そう思うから。


お目付け役だなんて。どの口が。むしろその役目は兄さんのほうだ。もうこれ以上離れることに耐えられない弱い私の面倒を彼がみることになるかもしれないのに。


ああ、だけどお願いします。貴方の傍にいさせてください。いれるだけでいいのです。いたいのです。うまく笑えなくなった私にとって、誰かを笑顔にできる貴方は光だから。


例え、それが歪みが生み出したものでも、その優しさは紛れもなく、元々貴方の中に有ったものだから。


きっと、私も歪んでいる。多分、兄さんよりも。






「……うん。じゃあ、お願い。あの子のことを見ていてあげて。あ、あの子には私の華麗な話術でうまいこと納得させるから」


身勝手な想いをひた隠し頭を下げた私のお願いを、暫しの逡巡の後、おばさんは受け入れてくれた。












「私は」


ポカンと口を開けた兄さんが私の目の前にいる。

声が震えそうだ。お腹に力を入れないと声が出てこない。思った以上に私は緊張している。心臓がバクバクしてどうにかなってしまいそうだ。


「葵…水無月、葵です」

「………かわいい…」

「(え)」


ボソリと。兄さんが何か言った気がした。

しまった。兄さんの言葉を聞き逃した。迂闊。






色々と事情を説明した後、現在兄さんはおばさんと話している様子だ。様子だというのは、私が絶賛ホールドされて何も分からないから。恐らくはおばさんの言う華麗な話術で上手いこと納得されているはずなのだが。何故だろう不安が拭えない。


「(…………ぅぐ)」


取り敢えず早く離してほしい。いい加減息が限界なのだ。おばさんの柔らかさといい匂いは大好きだけど本当に息が限界なのだ。


『………分かった…』


兄さんの何処か諦めた様な声が耳に届いたその瞬間、私もまた諦めた。

己の冷静沈着キャラ的な大切な何かを。


おばさん。第一印象が台無しです。











「ったく。私は大丈夫だって言ってんだよ。それをあいつはいつもいつも……」

「はぁ」


グチグチと。眼の前のお婆さんが延々と文句を垂れている。止まらない。

助けを求めようにも、兄さんは荷物を持ってくるため遥か下に行ってしまっている。


「あんたもそう思わないかい?」

「ですか」


本当に頑固な方だ。素直にお礼くらい言えばいいのに。


「お待たせ」


漸く兄さんが帰ってきた。…また無理をしていないか、それとなく兄さんの様子を観察してみる。けれどお婆さんの憎まれ口を笑顔で聞いている兄さんに変わった様子は無い。


「…兄さん。そろそろ」


時計を確認する。残念ながら遅刻は避けられないだろう。


「待ちな」


立ち去ろうとする私達をお婆さんが呼び止めた。

すわ、また文句かと思いかけたがどうやら違うらしい。


口を開いては閉じる妙な動きを繰り返すお婆さん。


「………ほら!」


バシィっと勢いよく掌を叩かれる。これまた何をするのかと、掌を見ればそこには小さな飴一つ。


…これは。


「「…………」」

「ほれ、何やってんだい早く行きなっ遅刻するよ」


………………。


「ふっ」

「あんた今鼻で笑ったかい」

「まさか」


鋭い眼光から逃れる様に二人して背を向け脱兎の如く走り出す。

後ろからありがとね、という言葉が微かに聞こえた気がした。


「………面白い人だろ?」

「ですね」


嬉しそうに兄さんが微笑みかけてくる。カッコいい。

人助けも悪くない。柄にもなくそう思える瞬間だった。












公園の真ん中で仁王立ちする兄さん。その周りでは多くの子供達が兄さんの隙を突こうと様子を窺っている。


「…どうしてこうなったんでしょう…」


ベンチで寂しく独りごちる。一緒に帰ろうと、これでも内心ビクビクしながら誘って、これはもしや放課後デートでは!?とか浮かれていたあの純粋な気持ちを返してほしい。

まさか可愛い従妹より子供を選ぶとは。公園の前を通りがかるなり子供達に群がられて、そのまま流れる様に輪に入っていった兄さんを止める事など陰の者の私には到底無理な芸当である。


「嬉しそうでしたね…」


お婆さんを助けて、子供達に頼られて。その時、いつも兄さんは嬉しそうに笑っていた。


私は兄さんは何か無理をして誰かを助けているのではないかと思っていた。

けれど、それは違う気がした。

少なくとも、今の兄さんは本当に楽しそうだからだ。


例え、本心ではない憎まれ口を叩かれても。


例え、子供達に叩かれても。


例え、子供達に蹴られても。


例え、子供達に袋叩きにされても。


例え………………




「………はぁ……」


私は溜息をつくと、ベンチの横にあった新聞紙に手を伸ばした。












公園で兄さんと話してから、私はずっと悩み続けていた。

彼の歪みの根源。それはあの日の私だった。


その子は私です。そう言えば全ては解決するのだろうか。

それとも、お前のせいで、と嫌われてしまうのだろうか。


そもそも兄さんは私の事を覚えていないのに、そんな都合よく思い出すものか。

勇気が出ない。出てくるのはただただ言い訳だけ。


あの日から私だけ何も変われていない。




お風呂を済ませて部屋をでると、線香の独特な匂いが鼻をついた。

私はそっとそこに足を踏み入れた。


「(…これは)」


静かに手を合わせる兄さん。その先の仏壇には何も飾られていない。

けれど、兄さんの様子からして決して無意味なものではないことは分かる。

理由はよく分からない。分からないけれど、私も祈らずにはいられなかった。












「(写真が、無い?)」


産まれてこれなかった。そうか。そうだったのか。

おばさんは私を抱きしめる時、いつもどこか遠くをみつめていた。

その理由が漸く分かった。


ああ、私は何て愚かだったのだろう───


あの日のおばさんの慟哭。もう一度喪うことの恐怖。自分は何も知らずにあの人にそれを味わわせようとしたのだ。睨まれて当たり前だ。


「(おばさん)」


なのに、あの人は再び私を抱きしめてくれた。時を経て、もう一度歩み寄ろうとしてくれた。家族として。何て強い人だ。…私はずっと逃げてばかりだったのに。


過去の想い出が走馬灯の様に駆け巡る。


「(兄さん)」


私も、もう一度戻れるだろうか。

いつか、他人ではなく。もう一度、家族として。


あの日の笑顔を取り戻せるだろうか。



取り戻して、いいのだろうか。


「葵」

「────」


一瞬、それが自分の名前だと気づけなかった。

横を見れば兄さんが私を見て微笑んでいる。

あの頃と何も変わらない、それは私の心を照らす、太陽。


「これから、よろしくな」

「……ぉに…」


お兄ちゃん。お兄ちゃんっ。お兄ちゃん!


何もかもかなぐり捨てて兄さんに抱き着いてしまいたかった。縋り付いて泣きたかった。

けれどそんなことできる訳がない。今の兄さんにとって、私はただの水無月葵で、私は彼を支えるためにここにいるのだから。


「…………なまえ……」


なのに


「うん?」


あの日の兄さんと何も変わらなくて、甘えてしまいそうになる。

頭がぐちゃぐちゃで何も考えられなくて。どうして兄さんは


「ずるいっ……」


そんな子供みたいな文句を言うことが精一杯で。

声を上げて笑う兄さんを、せめてもの意趣返しとして睨むことしか出来ない。


「これからよろしくお願いします。……兄さん」


嗚呼、やはり貴方は。

涙の滲む瞳を隠すように、深く、深く頭を下げる。







あの頃から、色んなものが変わってしまった。


けれど、これから確かに、あの頃と違う何かが始められるのだと。


胸の奥に不思議とそんな確信が有った。

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