第二話 避けて通れる道を涙のように

 午後六時、黄金弁財天美術館の閉館時刻ちょうどに、探偵あずまとしゆきは再び現れた。

 相変わらずのジャージ姿ではあったが、自転車の篭には探偵道具一式が詰め込まれているカバンが入っていた。

 玄関先で美術館長の息子、おおたけたかしが出迎えた。

 「東さん、よろしくお願いします」

 「大丈夫っすよ。1500万分の仕事はするっすから」

 東はウキウキ顔でスキップしながらそばを通り過ぎていく。しかも心なしか速足のように感じる。隆はどこへ行くのかと気になって追いかけてみると、思ったより東の足が速くて追いつけない。

 ようやく隆が息切れしながらも確認した東の姿は、それはもう、仕事中の探偵とは思えない様子だった……


 「うっひょー!! 『着衣のマハ』だー!! ボッティチェリの『春』もあるじゃん!! あー!! ゴッホの自画像! 俺一度生で見てみたかったんだよー!!! あ、この絵は……」

 ……はしゃいでいた。

 彼はものすごくはしゃいでいた。

 隆は呆然として開いた口がふさがらず、数秒後に我に返って

 「あの、東さん! 何やってるんですか! あ、美術館ではお静かに……」

 と東を注意しにかかった。しかし東は、人の話など一切聞かない。その上で隆の方を向きなおすと、満面の笑顔で言い放った。

 「いやー、ただで美術館に入れるなんて、探偵業は最高っすね!」

 読者の諸君、東敏行とはこのような言わなくてもよいことを美術館の従業員たちの前で言うような男である。

 これには隆も思わず

「さっさと始めてください!! 1500万分の仕事してくれるんでしょ!?」

と怒鳴ってしまった。

 「まあそう怒らずに、すぐ始めましょ。鑑識に当たった刑事さん呼んできてくださいっす。後、第一発見者の警備員さんも!」

 そういう東の視線はデューラーの「祈りの手」に向いていた。



 警視庁黄金署捜査三課課長・みずぬまゆう警視の指導のもと、現場検証が行われた。

 「……それから犯人はこっちの方へ走って……で、私がここの角を曲がったら、犯人の姿が消えていたんですよ」

と、第一発見者の警備員が説明した。

 「で、みっちゃん、足跡とか髪の毛は見つかったんすか?」

 東と水沼は旧知の仲である。と言っても、七年前に初めてとある殺人現場で鉢合わせて以降、東が水沼にウザがらみし続けているだけなのだが。

 「足跡は見つかっているが、それだけだ。証拠としては不十分すぎる」

 水沼はもはや慣れていた。「みっちゃん」呼ばわりも最初は癪に障ったが、もはや慣れていた。

 「監視カメラは見たっすか?」

 「もちろん確認したが、正門・裏口・その他の出入り口から出てきた人間はいなかった。館内のカメラには犯人と思わしき人物が移っていたが、顔が隠れていてわからなかったよ」

 東は

「そっすかー……じゃあやっぱり」

と、警備員のほうを向いた。

 「警備員さん、犯人の姿を見たんすよね?」

 「は、はい。確かに見ましたとも。懐中電灯でピカーって照らしてね」

 「犯人はカバン持ってたっすか? カバンに限らず、何か袋のようなものを持ってたっすか?」

 「え、持ってませんでしたけど……」

 「犯人は逃亡するとき、両手を振って走ってたっすか?」

 「え? 両手? 振ってましたけどなんでわざわざそんなこと聞くんですか」

 「おかしいっすね……カバン持ってなかったら両手で抱えてるはずっすよ、『貴婦人の涙』。画像でしか見たことないっすけど、片手で持てるような大きさじゃなかったっす」

 「……あ!!」

 その場にいた全員が何かを察した。

 それから東は隆のほうを見て

「あと隆さん、美術館ここはショーケース割れたら警報鳴るシステムとかあるっすよね?」

と尋ねた。

 「ええ、勿論です。ショーケースなんか割れたら直ぐに警報が美術館全体に……あれ?」

 「警備員さんにもう一つ質問……ショーケースが割れてたんすよね?」

 「はい、確かに割れた様子を確認しましたよ」

 「警報は鳴ってたっすか?」

 「え……あ! 鳴ってなかった!!」

 この事件、単なる窃盗として処理するにはあまりにも不可解過ぎていた。

 「やっぱり……一週間前のあの時刻に、『貴婦人の涙』なんか盗まれてなかったっす。盗まれたのは、だったんすよ!!」

 衝撃の事実が走る。とすれば、また一つ新たな疑問が浮かぶ。

 隆は何か考えながら東の話を聞いていたが、顔を上げて東に言った。

 「ちょっと待ってくださいよ。深夜に盗まれてないとしたら、『貴婦人の涙』が無くなったのは閉館時刻の午後六時、いや従業員が退館する午後八時から、深夜見回りが始まる午前零時までってことでしょ? 従業員は午後八時以降、常設展・特別展共に立ち入り禁止になってるんです。内部の人間には無理ですよ」

 「? それどういうことっすか?」

 東は怪訝そうな顔をした。

 「誰も犯行時刻に出入りしていないなら、盗まれた時間に美術館にいたのは外部の警備員だけのはずです。つまり犯人はそこにいる第一発見者の警備員じゃないんですか!?」

と、隆はまっすぐ警備員を指さした。

 警備員は

「と、とんでもない!! そもそも私個人の権限で警備システムの解除なんてできませんよぉ!!」

と、いきなり犯人呼ばわりされたことで大慌て。

 しかし隆は意見を変えない。

 「いいえ、うちの警備システムは、オタクの警備会社に一任してるんですよ。あなたが会社の中から何かしらの工作で警報が鳴らないようにして……」

 「隆さん、その辺でその辺で」

 隆の言葉を切って東が諭すように話した。

 「それはあくまで想像の域を出ないっしょ? ちゃんとした証拠が出るまで我慢してくださいっす。ね? みっちゃん?」

 急に東に話しかけられたみっちゃんは少し動揺したが、

「あ、ああ。それに監視カメラにはしっかりが写っていたし、そのうちの一人が警備員であることも確認済みだ」

と応対した。

 「あのですね、あのエメラルドは我が美術館の目玉なんですよ!? あれが盗まれてから客入りが悪くなって商売あがったりで………」

 「隆さん!!」

 今までケロッとしていた東が声を張り、その場にいた全員の呼吸が一瞬止まった。

 「焦る気持ちはわかるっすけど、いったん落ち着きましょ? 騒ぎすぎると信用を失っちゃうっすよ?」

 東は隆のそばに歩み寄ると、肩をポンと叩いて耳元でささやいた。


 「実はね、犯人の当たりはもうついてるんすよ、僕は」


 「……は!!?」

 その言葉に隆は思わず驚愕の声を漏らす。周りの人間も、一体何を吹き込まれたのかとざわついた。

 「東さん! 誰ですか!!? 犯人は誰なんですか!!?」

 隆は興奮して東に縋り着く。

 「オイ東、お前隆さんに何言った……?」

 水沼が慌てた表情で東に聞く。

 「別に? 僕が犯人の予想がついてるって言っただけっすよ」

 「本当か!? もうわかったのか!?」

 興奮が水沼にまで伝播した。

 それに対して東、

「まだ確定じゃないっすよ。決定的な証拠がないんでむやみに名前は出せないっす。まあ、僕の予想だと、明日には犯人はお縄になってるっしょ」

と返す。しかしその言葉、さらに隆を興奮させる。

 「ほ、本当ですね!!? 明日には、明日には犯人が捕まるんですね!!?」

 「落ち着けっつってるじゃないっすか、隆さん。まあ、任せてくださいっすよ。とりあえず今日はもう帰るっす」

と、いきなり荷物をまとめ始めた。

 そのまま東は

「明日の閉館時刻にまた来るんで、じゃ、お疲れーっす」

と、そそくさとその場を後にしてしまった。

 「オイ待て! お前がいなきゃ現場検証がまとまらんじゃないか!」

 追いかけてきた水沼が東を止めようとするが、

 「大丈夫っすよ。ていうか、もうあそこで得られる証拠はないはずっす。警察の皆さんも帰っていっすよ?」

と、聞く耳を持たない。そのまますたすたと歩き去るかと思われた。

 が、ふいに足を止め、振り返って水沼に尋ねる。

 「そういえば、館長さんはどうしたっすか?」

 急に館長の事を聞かれた水沼は戸惑ったが、しっかり返答する。

 「ああ、館長は確か、病院に行ってらっしゃるそうだ。なんでも不眠の薬をもらいに行ったって、隆さんが」

 「ふーん……そっすか」

 その時、東がにやりと笑った。そしてそのまま立ち去った。

 水沼は東のにやりが理解できず、しばらくその場所で立ちすくんだ。



 東は美術館を去った後、まっすぐに家に帰ったわけではなかった。

 午後八時を回った黄金区南東部は、鮮やかなネオンやLEDが黄金色に光り、まだまだ眠る様子を見せない。

 自転車を十分ほど走らせ、東がたどり着いたのは、南東部と北東部の境界線付近に位置するとある邸宅。

 東がその呼び鈴を鳴らすと、中から一人の熟女が現れた。

 「あら、どちら様ですか?」

 「大竹はなさんっすね?」

 「はい、そうですけど……」

 「自分、こういうものっす」

と、名刺をその婦人に差し出す。

 夫人はそれを一瞥すると、

「あら! あの有名な東さん! ささ、どうぞお入りください!」

と、東を中へ招き入れた。


 「紅茶はお好きですか?」

 「あ、お構いなくっす」

 大竹花子、彼女は黄金弁財天美術館館長、大竹ひろしの妻である。

 「それで、どういった要件でしょうか?」

 紅茶を差し出しながら花子が尋ねた。

 「一週間前に起きた、美術館の展示物盗難事件はご存じっすね?」

 「はい、勿論……この頃は主人も息子も大変そうで……主人なんて不眠の症状がさらにひどくなってしまって」

 「やっぱり……ご主人は不眠症なんすか?」

 「はい……もう三か月も悩まされております」

 博が不眠症であること、その情報こそが事件解決に導く値千金の情報であると、東は確信していた。

 「それで、ここからが一番聞きたいことなんすけど」

と、東が話を進める。

 「一週間前の事件が起こった日、ご主人はぐっすり眠れたっすか?」

 「あの日ですか……? 一週間前の事なんて……」

 花子は顎に手を置いて考えたが、数秒後、はっと顔を上げる。

 「そう……! あの日、主人はいつもより熟睡していたと思います。いつもは夜中に目が覚めることはざらですのに、あの日は警察から電話がかかったときも起きませんでしたし、私が主人を揺り動かしてやっと起きた……て感じでしたわ」

 花子の話を聞いた東は再確認した。犯人はやはりで間違いないと。


 「貴婦人の涙」がどこかへ消え去ってから九日。物語はいよいよ、収束の時を迎えんとしていた。



第三話 砕け散った涙 に続く

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