【35】ネコちゃんだったんですね…。

「あの……ジェド様。ここって」

 

 転移魔法で到着した場所は、明るい森の中だった――ここって、子供の頃に何度か来たことがあるような。


「ここはまだ、マグラス伯爵領内だと思う。転移魔法は一度に五キロくらいしか転移できないという、案外しょっぱい魔法でな……。マーキングしてある王都のレナス邸までは、とてもじゃないが一発じゃムリだ」


 人間の姿に戻ったジェド様が、息を切らせて木の幹に寄りかかった。

「……すまない、クララ。魔力切れだ。ちょっと休ませてくれ」


 ふぅ、と疲れ切った顔をして、ジェド様が汗をかいている。私は持っていたハンカチで彼の額の汗を拭き取りながら、尋ねた。


「あの。お体がつらいようなら、今から実家に戻りませんか? 少し休んだ方が……」

「いや。あの空気の中で長居していたら、むしろ気疲れで胃が焼けちまう」


 彼は私を抱き寄せて、ずるずるとしゃがみ込んだ。

「君と二人でいるほうが、劇的に回復できる」

「そ、そうですか」


 私の肩に、軽くもたれて彼は続けた。


「少し休めば大丈夫だ。転移魔法を乱発すると君の体にも負担になるから、人目に付かない場所では霊獣化を使いつつ、ここぞというとき転移魔法を使おう」

「はい」


 ジェド様は長いまつげを伏せて、私の肩に頭を乗せて穏やかな顔をしている。一方の私は、どぎまぎしていて全然くつろげる状況ではなかった。そもそも、私の頭の中はいまだに疑問だらけなのだから。


「あの……」

「ん?」

「ジェド様が猫ちゃんだったんですか?」

 くつろいでいたジェド様は、いきなりビクッと身を強張らせた。顔を真っ赤にして私からちょっぴり離れ、気まずそうに眼を泳がせている。


「…………………………そうだ」

「そうでしたか」

「軽蔑しただろう」

「軽蔑? なんでです?」


「いろいろと、君に迷惑をかけただろう? みっともなく甘えたり、ネコ草を食ったり、部屋に押し掛けたりしたじゃないか。……言い訳がましいが、いま言った行動はすべて無意識だった」


 ジェド様は教えてくれた――レナス家の男性は、建国神話に登場する霊獣『黒豹』に変身する能力を持っているということを。でも、ジェド様は自分の霊獣化をコントロールできなくて、暴走して仔猫みたいになっていたそうだ。


「猫ちゃんじゃなくて豹ちゃんだったんですね……。失礼しました」


「豹ちゃ……? い、いや、気にしないでくれ。今は魔力回路が正常化してきちんと制御できるようになったが、少し前まではケダモノになって好き放題に振る舞っていた……とんでもない恥さらしだったと思う」


「ケダモノ……ですか?」

 ふふふ。と、思わず笑ってしまった。


「恥なんかじゃありませんよ、ジェド様。とっても可愛い素敵な子でした。もちろん、大きくなった今もすごく可愛くて大好きです」


 褒めたつもりだったのに、ジェド様は「まだ可愛いのか……」とうなだれていた。


「ジェド様、もう一つ質問してもいいですか?」

「なんでも聞いてくれ」


「マグラス領にはマーキングしてないから、転移魔法は使えないと言っていましたよね? なのに、どうやって私のもとに駆けつけてくださったんですか?」


 ジェド様は、また気まずそうな顔をした。


「……急遽、しておいたんだ。マーキングを」

「どこにです?」

 

 美しい顔立ちを強張らせながら、彼は私の額を指でつついた。

「ここに」


 私のおでこ? …………はっ。


「そ、そういえば、『おまじない』とか言っていましたね。転移魔法のマーキングって、そういうやり方なんですか……いろんな人や場所に、常日頃からキスを落としていらっしゃる?」


「ち、違う! そういうやり方もあるが、色々だ」

 慌てた顔をして、まくしたてるように彼は言った。


「付け加えるが、俺は決して、君の行動のすべてを監視していた訳じゃない!! 君が俺のことを強く念じたときだけ、回路がつながるようにしておいた。だから盗聴も盗視もしてない、絶対にしてない」


「そ、そこまで熱く語らなくても……」


 私が、強くジェド様のことを念じたとき――それはつまり、屋根裏部屋で恐ろしい目に遭いかけたときのことだ。思い出したら、血の気が引いてしまった。


 きゅっと、ジェド様の衣服の裾を握って、私は彼にくっついた。

「……あのときは、本当に怖かったです。助けに来てくれて、ありがとうございました」


 体の震えが止まらない。


 怖い。ジェド様と、もう二度と離れたくない。でも、契約期間が終わったら、離れなければならないのだろう。その日を思うと、怖くて怖くてたまらな――


「クララ」


 彼は、私のあごを持ち上げた。次の瞬間、やわらかい感触が唇に乗って――。


 私は、彼と唇を重ねていた。


 どれほどの時間、重なり合っていただろう。淡く触れ合っていた唇がそっと離れて、彼の真剣な美貌に出会う。私は頬を熱くして、彼を見つめた。


「今のは、新しいマーキングですか」

「違う!」


 なぜこの流れでそういうことを言うんだ君は! と、ジェド様は眉をひくつかせている。


「聞いてくれ、クララ」


 彼の両腕が、私の顔のすぐそばにある。木の幹に両手をついて、ジェド様は私を真正面から見つめていた。


「俺はもう、君との契約結婚をやめにしたいんだ」


 やめたい……!?

 この関係を、今すぐ解消したいということ……?


「本当は、俺が辺境伯の地位を継承してから言うつもりだった。一人前の男になってから告げるのが、俺なりのケジメだと思ったからだ。だが、もう我慢できない。まだまだ未熟な俺だが、聞いてほしい」


 ケジメ。ジェド様はやっぱり、この関係に終止符を打とうとしているのね……。

 泣きそうになったが、私は必死で涙をこらえた。泣く権利なんて、ない。むしろ、これまでの日々に感謝しなければならないのだから。レナス家で過ごした四か月余りの日々が、走馬灯のようによみがえってきた。


 今までありがとうございました、ジェド様……。私は、素直にお別れしま


「愛してる。どうか、一生俺のそばにいてくれ。俺の本当の妻になってくれ!」

「…………はい!?」


 私がぎょっとしていると、ジェド様はもっと、ぎょっとしていた。


「どういう流れで、その発言に!?」

「……俺の話、ちゃんと聞いてたか!?」


 こじれている。

 大きなズレが、どこかで生じてしまったらしい。


 ジェド様はたっぷり一時間くらいかけて、ものすごく事細かに私にお話ししてくれた。

 それは、まぎれもない『愛の告白』で。


 ――私の本心が、求め続けていた言葉たちだった。



 ずっと一緒に。

 愛している。

 君が大切でたまらない。


 涙がぽろぽろと、止まらなくなった。


「私で、良いんですか……? あなたよりも年上なのにこんなに頼りなくて、適齢期も過ぎていて、土いじりしかできない私ですよ?」


「謙遜しすぎだ。クララじゃなければ、愛しいなんて思わない。愛してる」


「……私もです。あなたを、愛しています」


 『愛してる』を何度も囁き合いながら、私達は抱きしめ合っていた。


   *


 たっぷり休息も取ることができ、それから半日くらいかけて、私達は王都のタウンハウスに戻った。


 待ち構えていたディクスターさんとビクターさんのリンデル兄弟が、ものすごい勢いでジェド様に怒ってきた――レナス辺境伯領に向かっていた途中の馬車で、いきなりジェド様が転移魔法を使って消えてしまったからだ。


「まったくもう!! 何考えてるんですか、若!」

「ラパード様に何とご説明したら良いか……!」

 

「仕方ないだろ、俺の妻の危機だったんだ。爺さんだって、数日待つくらいなんともないさ。別に『危篤』ってわけじゃないんだから」

 と、悪びれもせずジェド様は笑っていた。


「爺さんに伝えてくれ。今回の帰省には、妻のクララも連れて行くと。な、クララ?」

「ええ。よろしくお願いします」


 寄り添って笑い合う私たちのことを、リンデル兄弟が目を丸くして見つめていた。


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