【32】私の旦那様。
「ジェド様が……猫ちゃん?」
呆然とつぶやく私のことを、ジェド様はきつく抱きしめた。
「クララ! ――無事か」
私は彼の胸の中で、こくこくと頷くばかりだった。
彼は翡翠の瞳を優しく細めていたけれど、次の瞬間、美貌を憎悪に染めた。私の父を睨みつけ、獣の唸りのような低い声で問いただす。
「……マグラス伯爵は危篤ではなかったのか? だからこそ、クララを実家に帰らせたんだが」
「ひっ」
「なぜクララを監禁した! なぜ、あんな男と二人きりにさせた?」
「そ、それは…………」
「答えろ貴様!」
瞬間、私を抱いていたジェド様の姿が消えた――消えたように見えただけで、実際には瞬時の動きで父に掴みかかっていた。父の襟首を掴んで引きずり上げ、「おい、貴様」と凄味の利いた声を出している。
「伯爵たちは事業での不正を隠すため、クララ夫人を利用しようと考えたんじゃないかな」
という、涼やかな声が響いた。
ウィリアムのすぐ後ろに立つ、赤毛の少年がそう発言したのだ。
ジェド様が、驚いた顔で少年を見た。
「お前、来てたのか? ……どうしてお前がマグラス邸に」
「僕は学友に招かれて、彼の家を訪ねただけさ」
優雅に笑ったその少年は、ぱちりと指を鳴らしてみせた。
次の瞬間、赤かった少年の髪は変色し始め、月光のようなプラチナブロンドへと変わった。一四、五歳にしか見えなかったその少年は、今はジェド様と同じくらいの青年になっている。
父は、目を飛び出しそうなほど大きく見開いて、悲鳴のようにこう言った。
「ルシアン第二王子殿下!?」
私も驚愕していた。目の前にいるこの人は、ルシアン殿下なのだから。
殿下は、いたずらっぽく微笑んでいる。
「色相誤認と肉体遡行の魔法を使ってみたんだ。今日の変装はいかがかな、ジェド?」
「……悪くない出来栄えだった。だが、まさかこんな場所で会うとはな」
「僕も同意見だよ。ジェド、君はレナス辺境伯領に向かったはずだろう?」
ルシアン殿下に問われ、ジェド様は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「馬車で移動してた真っ最中だ。……だが、クララの危機に気づいて転移魔法で駆けつけた」
「転移魔法でここまで? 何回使ったの?」
「数えてねぇよ。取りあえず、一〇〇回以上だ」
「へぇ! よく魔力がもったね……」
「いや。魔力切れしたから、途中から霊獣化して補った」
「すごいなぁ、レナス家は」
愉快そうに、ルシアン殿下はくつくつと笑っている。
そんな殿下を見つめて、父は唇をわななかせている。
「ル、ルシアン殿下が……なぜ、ここに」
殿下はゆるりと振り返り、紫色の瞳を父に向けた。
「学友に招かれたから、と言っただろう? 君の息子ウィリアムは、僕の大切な学友だ」
「――殿下がウィリアムの友人!?」
初耳だったらしく、父は愕然としていた。
「マグラス伯爵。君の悪事はすべて、ウィリアムから聞いた。事実をこの目で確認したくて、屋敷に招いてもらったのさ」
殿下は肩にかけた鞄から、栓の付いたガラス試験管を取り出した。父が青ざめ、「うっ」と息を吞む。
「ウィリアムと一緒に、屋敷中を散歩してみたんだが……ワイン庫の奥に隠し部屋があるなんて、なかなか洒落た間取りだね。その隠し部屋で、こんなモノを見つけた」
その試験管には、金色に光る液体が入っている。瓶の底に沈んでいるのは、……昆虫だろうか。
「この金色の液体は、マグラス家が販売した『ヒールトーチ入りの美容液』にそっくりだね。貴重な
ひ、ひぃぃ……。と、声を引きつらせ、父はその場でへたり込んでしまった。
ジェド様は再び私のもとへ戻ると、私を抱きしめながらルシアン殿下に尋ねた。
「ルス。状況が見えない。何の話をしているんだ?」
「ウィリアムが先日、僕に打ち明けてきたんだよ――」
ルシアン殿下は、語り始めた。
いわく、マグラス家は『
「最初のうちは、きちんとヒールトーチを使用していたらしいね。だが、原材料のヒールトーチが枯れて入手不能になったのちには、偽装品を製造・販売し始めた」
偽装品はひどい品質で、使用者が何人も肌荒れを起こしたらしい。購入した貴族たちから、批判が殺到した。
「僕の伯母であるカレド公爵夫人も、被害者の一人だよ。伯母の肌が痛々しくただれているのは、見るに堪えなかった」
と、ルシアン殿下は眉をひそめた。
父が、青かった顔を一層青ざめさせた。
「っ! 公爵夫人にまで偽装品を……? くそ、デリック、」
そう呟いた父は、気絶したままのデリック様のほうを鋭く睨みつけた。どうやら、父とデリック様の間になにかしらの行き違いがあったらしい。
しかし父は、ハッとした顔で凍り付いた。ルシアン殿下が蔑むような眼差しで、父を見つめていたからだ。
「マグラス伯爵。原材料が入手不能となった時点で、すみやかに製造中止すべきだったね。偽装などもってのほかだ――悪事に手を染めたから、君は自滅することになった」
ジェド様が、顔をしかめて殿下に問うた。
「マグラス家の状況については理解したが。それがなぜ、クララの監禁につながる?」
「そうだね。まさか僕らも、クララ夫人がマグラス邸に監禁されてたなんて思わなかったよ。……だが、一連の流れから推測すると」
殿下は私を振り向いた。
「クララ夫人。マグラス伯爵から、ヒールトーチに関して何かしらの要求を受けたのでは?」
「はい。父は、私が栽培法を隠していると思い込んでいたようです。私にマグラス家に戻って、ヒールトーチを育てろと命じてきました。……聞き入れるまで、屋根裏部屋から出さないと」
ジェド様の目がぎらりと光り、射殺すように父を見据えた。ルシアン殿下が「やはりな」とうなずき、父はひたすら怯え上がっている。
「偽装品を流通させて、購入者に被害をもたらした件。そしてクララ夫人を監禁し、不当な労働を強要した件について。マグラス家には、法に照らした裁きを与えなければならないね」
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