【31】…触らないでください!

 屋根裏部屋に閉じ込められていた私は、激しい雨音を聞いて目を覚ました。


 ざぁざぁという雨音が、屋敷の外から響いている。窓のない屋根裏部屋は、湿度が高くて狭苦しく、最悪の居心地だ。外が見えないから、今が夜なのか朝なのかさえ、はっきりしない。


 ベッドから身を起こしてぼんやりしていると、ドアをノックする音が聞こえた。


「やぁ、おはようクララ。君の朝食を持ってきてあげたよ」


 やたらと爽やかな笑顔をしたデリック様が、お盆を持って入室してきた。


「……私を帰してください」

「どこに帰ると言うんだ? ここが君の家だよ。おかえり、クララ」


 白い歯を覗かせて笑うデリック様を見て、とても気持ち悪いと思った。嫌悪感で震えあがりそうになったけれど、胸の中にジェド様を思い描いて心を静めた。


 ――ジェド様。


 ご自分も忙しい身なのに、私や実家のことを心配してくれた。……ジェド様を安心させるためにも、私は早くレナス家に戻らなければならない。


 ジェド様を思い描くと、堂々と振る舞える気がする。


「お父様もイザベラもあなたも勘違いをしているようですが、私は本当にヒールトーチの栽培法なんて知りません。だから私は、レナス家に戻ります」


「まだ白を切るの? ずっと屋根裏部屋に居たいのかな」


 話が平行線だ。この人たちは何を言っても聞き入れようとしない。いったい、どうすれば……。


「君がひとこと、『この家に戻って、ヒールトーチを栽培します』と言えばいいんだ。簡単だろ、ほら、言ってごらん。そうすれば、好きなだけ土いじりさせてあげるから」


 幼児に言い聞かせるように、猫なで声で彼は言った。


「……」

「怖い顔だね。そんな表情、どこで覚えてきたんだい? でも、今の君のほうが前よりずっと魅力的だ」


 僕にチャンスをくれないか? と言って、彼は優美ぶった所作で私の前にひざまずいてきた。


「……はい?」


「一瞬の気の迷いで、僕は大変な間違いをしてしまった……本当にごめん。イザベラの誘惑に乗って、君をないがしろにした僕は最低の愚か者さ。二度と浮気なんてしないから、僕とやり直してくれないか」


 この人の意図が分かって、私は全身の血が逆流したような感覚を覚えた。――デリック様は、今度はイザベラを捨てて私とよりを戻そうとしているのだ。


 お父様は、次期当主と言う肩書きを『ご褒美』にして私を釣るため、イザベラから次期当主の座を取り上げるつもりなのだ。そして、デリック様は『次期当主の婚約者』としてマグラス家に居座りたいから、イザベラを捨てて私に乗り換えようとしている。


 最低な人たちだ。


「今度こそ君を大切にするよ。君は『次期マグラス伯』という肩書を手に入れつつ、大好きな土いじりに専念する。そして僕が、君の夫として一切の仕事を引き受ける。どうだい、最高だろ? ……どうせ、ジェド・レナスとはうまく行ってなかったんだろう」


 バシィッ!!


 渾身の力で、私は彼の頬を打った。家庭菜園とはいえ畑仕事をしている私だから、並みの令嬢よりは腕力があるに違いない――私に張り倒されて、デリック様は勢いそのまま床に尻餅をついた。


「あなたは人間のクズです」

 侮蔑を込めて彼を見下ろすと、なぜか彼はうっとりとした表情になった。


「…………今の君、とても良いね」

 ゆらりと立ち上がり、歪に唇を吊り上げている。


「君は本当に素敵になった。その冷めた瞳、艶っぽくて魅力的だ。……本当に惚れてしまいそうだよ」


 ぐい、と私の頬を掴んで無理やり引き寄せてきた。

「触らないで! 汚らわしい」

「愛し合おうよ、クララ。本当に、大切にしてみせるからさ。ほら、意地を張らないで」


 離して。


「おいで、クララ」

 腕を取られて、ベッドに引きずり込まれそうになる。


「嫌!」


…………助けて……、





「助けて、…………ジェド様!!」




 私が叫んだその瞬間。屋根裏部屋に暴風が巻き起こった。ばりばりという轟音を立て、壁も床も暴風に飲まれて崩れていく。天井が吹き飛んで、穴の開いた屋根から大雨が降り込んできた。


「きゃあ!」

 足元の床が砕けて、私は下の階に落ちた――でも、やわらかい風にふわりと抱きとめられ、軽やかに着地できていた。


 私のすぐ隣に、激しい落下音とともにデリック様が落ちてきた。床に打たれた衝撃に、もんどりうっている。


 次の瞬間、暴風の中心から巨大な黒い獣が現れてデリック様に飛びかかった。金色の粒子を纏い、咆哮を上げて牙を剥くその獣の姿は、この国の建国神話に登場する霊獣――『黒豹』そのものだ。


「うわぁあああああ、ば、化け物――」

 黒豹はデリック様の衣服を噛んで捉えたまま、自身の頭を激しく揺さぶった。デリック様の身体が上下左右に振り回される。勢いそのまま、黒豹はデリック様を壁にたたきつける。


「がふぁっ…………!」


 壁にめり込み、壁を突き抜けて隣の部屋までデリック様は吹き飛んだ。黒豹は翡翠色の目を鋭く細めた――何故だか分からないけれど、私はその表情を見て、黒豹が攻撃魔法を発動しようとしているのだと分かった。


「だ、だめよ、ちょっと待って!」

 さすがに攻撃魔法までぶつけたら、デリック様が死んでしまう。見ず知らずの黒豹に抱きついて、私は必死に止めようとした。


 でも、怒り狂った黒豹は私の制止を聞こうとしない。


「だめ、待って! 落ち着いて! デリック様が死んじゃう」


 黒豹の顔の前に立ち、私は両手を広げて立ちふさがった。黒豹が不満そうに『しゃっ』と唸った。


 ……この反応。見覚えがある。



「…………………………猫ちゃん?」

 私がぽつりと呟くと、黒豹はぴたりと動きを止めて翡翠色の目を見開いた。


「あなた、猫ちゃんなのね!?」

『…………』

「こんなに大きくなって」


 あなた、どうしてここにいるの? 私を助けに来てくれたの?


「猫ちゃん……」


 これまでの緊張が一気に緩んだ。嬉しさのあまりぽろぽろと、涙がこぼれて止まらなくなる。猫ちゃんは、心配そうな顔で私を見つめた。



 やがてバタバタと、屋敷中の人々が駆けつけてきた。使用人だけでなく、父やイザベラの姿もある。


「これは一体なんの騒ぎだ――」

「何なんですの、一体!」


 父とイザベラは、猫ちゃんを見て「ひぎゃぁあ!」と悲鳴を上げていた。


「な、なんでこんな化け物が、うちにいるんですの!?」

「誰かこの化け物を殺せ、警備隊を呼べ……ひぃぃい!」


 こんなに可愛い子に、なんてヒドイことを言うの。私が眉をひそめていると、


「クララ姉さん!?」


 ウィリアムの声が聞こえた。知らない赤毛の少年を連れて、こちらに駆け寄ってくる。……でもこの少年、どこかで会ったことがあるような。


「ウィリアム! あなた、来ていたの!?」

「今朝到着したばかりだ。姉さん、危険だ! 早く化け物から離れて――」

 ウィリアムが私を引っ張り、猫ちゃんから遠ざけようとする。


 私は、ウィリアムの手をそっとほどいた。

「大丈夫よ、ウィリアム。この子は化け物じゃないわ。私の大事な猫ちゃんよ。……ね?」


 私は猫ちゃんに微笑みかけた。




『こんなに成長しても、俺はまだ『猫ちゃん』なのか?』

「え?」


 猫ちゃんから、思いもよらない返答が帰ってきた。人間の言葉だ……ジェド様と同じ声だった。


「ね、猫ちゃん……?」

『君に一人前の男と見なしてもらうには、まだ時間がかかりそうだな』


 金色の粒子が猫ちゃんからひときわ強く発せられた。次の瞬間、四足歩行の獣から、すらりと背の高い青年の姿へ変貌し――。


「ジェド様!?」

 猫ちゃんは、ジェド様になっていた。

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