インジェクション

@qwegat

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 ダイニングの壁に備わった小ぶりな窓の前で、カーテンがゆっくりと舞い踊る。

 その隙間から漏れ出た日差しの白と、その生地が落とす薄影の黒が、少しずつ形状を変じていく。黒と白の境界線がゆらゆらと動くさまは、どこか砂浜に押し寄せるさざ波に似ている。

 そんな光と影の姿を、なんとなく視界の奥に見ながら。私はキッチンに一人で立って、右手に握りしめた包丁で、小さなまな板の上に置かれた、一つのニンジンに刃を入れる。

 とん、とん、とん。

 銀色の刃がリズムよく上下して、表面に映し出した蛍光灯の光を弄ぶ。

 とん、とん、とん。

 そう、リズム。ニンジンを輪切りにしていく包丁は、とあるリズムに乗っている。

 私から見てカーテンの手前、そこに構えている小さめの食卓。皴のある緑のテーブルクロスの上に、一台のラップトップ・コンピューターが開かれている。さっきからリズムをサンプリングされたドラムサウンドの形で吐き出しているのは、このラップトップで間違いない。

 もっとも、より正確に言うなら、ラップトップが吐き出しているのはリズムだけじゃなくて――。

『る、る、る――』

 ――と。

 ラップトップに備わったディスプレイの中で、〈ヴィヴィ〉が歌声を上げている。

 〈ヴィヴィ〉の髪は雪に似た銀色をしていて、瞳は燃えるような紅。躍動するフリルだのバッジだのでこれでもかと装飾された服装は、どこかアイドルを思わせる。

 というか、実際にアイドルなのだ。

『ジャガイモ三つに、シイタケ一つ。千切り薄切り、フライパン――』

 彼女が僅かに表情を変えながら紡ぐ、透き通るような歌声は――私という聴衆の心を、間違いなく惹き付けている。アイドルの定義は知らないけど、私は、それだけでも十分なんじゃないかと思う。

 とん、とん、とん。

「……よし」

 呟く。四本のニンジンを、すべて輪切りにし終えたのだ。

 私はちらりと、ダイニングの壁に掛けられたアナログ時計を見る。見たところ、料理を作り始めてから一時間くらい経ったことになるらしい。さっきから〈ヴィヴィ〉に歌わせている〈料理歌〉が、一再生あたり四十五秒だから――この曲も、実に八十回くらいリピートしていることになる。

『ニンジン四本、輪切りで茹でて、盛り塩添えて出来上がり――』

 そろそろ、八十回の成果が出来上がる頃合いだ。

 私はまな板を傾けて、予め水を張っておいた小鍋の中にニンジンを投入する。コンロのつまみを勢いよく捻って、ボウッという着火音を聞く。あとは〈ヴィヴィ〉の歌を聞きながら、ニンジンが茹で上がるのを待つだけだ。

『る、る、る――』

 歌が八十一周目に突入する。そうだというのに、まだまだ私は飽きてなどいない。シード値を自分で固定しない限り、〈ヴィヴィ〉の歌声は再生するたびに新しく生成しなおされるのだ。だから彼女の声はいつも新鮮で、いつまでも聞いていられる気がしてくる。

 機械合成されていく音色を聞きながら、鍋をじっと睨む。

「……そうだ」

 どうせニンジンと盛り塩は添えるだけなんだし、今のうちに〈料理〉の本体を味見してしまってもいいんじゃないだろうか?

 私はそう思いつくと同時に、すぐ実行する。ガステーブルの向かいにある食器棚から小皿を取り出すと、ニンジンを茹でている鍋の隣にある、もう一つの受け皿のほうを見る。そこに置かれたスープ用の大鍋にお玉を突っ込んで、掬い取ったスープを小皿へと移す。

「どれどれ」

 私は小皿を一瞥する。その中では少し透明感のある液体が、黄色に近い色をして待ち構えている。とりあえず、見た目は普通においしそうだ。そこに口を近づけて、飲む。

 乾燥しかけていた唇を、熱いスープが潤していく。スープはそのまま唇を乗り越え、口内を軽やかに流れていく。熱い、という感覚が舌の上で線を描く。線の終端に見据えられるのは私の喉だ。

 スープを、ごくりと嚥下する。

「……まずっ」

 私は一言呟いた。



『……で、結局どうしたの?』

 友人は呆れ声でそう聞いた。

 真夜中を切り取るスライド窓のガラスに、ラップトップのディスプレイが光を反射させる。そこに表示されているのはチャットツールのインターフェースで、今まさに、友人と私がボイスチャットの舞台としている場所だ。

 発言の終了をプログラムが感知したらしく、友人のアイコンを取り囲む、『発話中』を示す緑色のサークルが消える。それを傍目に確認すると、私は返答のため、マイクに向かって口を開く。

「しぶしぶ全部食べた……って言いたいところなんだけど、改めて考えると分量的に多すぎたんだよね。私の冷蔵庫、今は例の〈料理〉に圧迫されてるよ」

 私のアイコンが光り終える前に、再び友人のアイコンを緑が囲む。

『バカだなぁ』

 否定できない。

 私は何も答えず、ただマイクの前で沈黙を保つ。夜の静寂も手伝って、刹那の間だけ、世界から音が消え去る。

『……というかさ』

 友人はサークルを点滅させながら、私に二つ目の疑問を呈する。

『聞きたいんだけど、その……〈ヴィヴィ〉だっけ? それって作曲用の人工知能じゃなかったっけ』

 友人の認識は、だいたい正しい。

 〈ヴィヴィ〉は一週間と少し前、外国のベンチャー企業によって発表された。その特徴は何より、Webブラウザから公式サイトにアクセスして、単純な指示文を一つ入力するだけで、作曲、作詞、歌唱――そういうあらゆる楽曲製作工程を機械的にこなし、さらに3Dモデルを利用して、その楽曲を歌う少女の映像を生成してくれることにある。

 ここ最近の生成系人工知能技術の盛り上がりを象徴するような、きわめて高度なソフトウェアであり……リリースされてからずっと、インターネット上の話題を半ば独占しているような存在でもある。

「まあ、厳密には作曲以外もやってくれるけど。音楽を作ってくれるのはそうだよ。……試しに、一曲作ってもらおうか?」

『んー』

 友人の肯定とも否定ともつかない返事をいったん肯定だと解釈し、私はディスプレイの右下を見る。そこに開いた一枚のブラウザウィンドウの中では、バストアップで映された〈ヴィヴィ〉がひとり、ポリゴンを曲げて表情を作っている。

 私はトラックパッドに軽く触れて、チャットツールの『ミュート解除』ボタンに乗せられていたマウスカーソルを、〈ヴィヴィ〉のいるウィンドウまで移動させる。より厳密には、そのウィンドウの下部に備わった、一つのテキストボックスまで、だ。

 キーボードを叩く。

【賑やかな曲を作って】

 テキストボックスにそう打ち込み終えると、エンターキーをカタンと弾く。それと同時に、ウィンドウの中心にに一つのプログレスバーが発生する。その上部にそっけなく置かれた『楽曲を生成しています』の文字列が、一瞬のうちに『完了!』へと遷移する。そして。

『る、る、る――』

 仮想の世界の照明を浴び、画面の中で〈ヴィヴィ〉が歌い出す。

『電光が夜を――』

 その独特な、少しだけ自然さを欠いた、しかしそれがむしろ魅力的ともいえる歌声を聞きながら、私はサイドパネルにマウスカーソルを動かす。『再生中の楽曲を出力』ボタンをクリックし、適当な名前の音声ファイルとして歌を保存する。

「これが」

 私はマイクに語り掛けながら、ファイルマネージャーからドラッグしてきた音声ファイルを、チャットツールにドロップする。

「【賑やかな曲を作って】って〈ヴィヴィ〉に頼むと出てくる歌だよ」

『……へえ』

 友人は一言呟いて、そのあとしばらく無言になる。たぶん送った曲を再生しているんだろうと推測した私は、彼女のアイコンが再び緑に光るのを待つ。

 しばしの間、静寂が広がる。

『……おかしくない?』

 三十秒ほどあと、友人は改めて口を開いた。

『〈ヴィヴィ〉ってやつが作曲を出来るのは分かったよ。歌も自然に歌えてると思う。でも……どうして作曲用の人工知能で、料理を失敗した話になるの』

「……ああ」

 そういえば、友人は〈ヴィヴィ〉利用者が共有している文脈を知らないのだった。彼女とはたまに通話をするけれど、別に趣味がすごく合うというわけではない。私がよく知っていて、彼女が全く知らないものもたくさんある。

 なので。

「ええと、長くなるんだけど……」

 と前置きして、私は説明を開始する。



 〈ヴィヴィ〉の生む歌は少しヘンテコだ。

【目が覚めるような明るい歌を作って。通勤中に聞くから、聞く人が驚くようなのはやめて。BPMは120以上にして。長さは全体で3分くらいにして】

 〈ヴィヴィ〉に搭載された言語モデルが、私が一息に打ち込んだその文字列の解釈に取り掛かる。直感的には当たり前だけど、指示文が長ければ長いほど、〈ヴィヴィ〉の処理にも時間がかかる。昨日の【賑やかな曲を作って】の時に比べれば、プログレスバーの進みも心なしか遅い。

 もっとも、長いと言っても100文字にも届かない程度の長さでしかない。〈ヴィヴィ〉の利用者コミュニティには、四桁とか五桁に渡る指示文を書いて読み込ませた手合いもいる。

 彼らの投稿によると、指示文がある程度の長さを超えても〈ヴィヴィ〉はエラーを訴えないそうだ。ただ……指示文が長くなるにつれ、〈ヴィヴィ〉は指示された要素を一部忘れるようになる。曲のテーマとか、登場する単語とか、そういうある程度細かい指示は……だいたい200文字くらいを境に、彼女の頭から吹っ飛び始めるらしい。

『る、る、る――』

 プログレスバーを伸ばしきった銀髪の少女が、機械の声にメロディを乗せる。

 指示文忘却の仕様を始めとして、〈ヴィヴィ〉はいろいろな制限と、限界を持っている。あまり複雑な指示には対応できないし、使っているデータセットが二年前のものだから、ここ二年間の文脈を参照させることはできない(ただし、インターネット上から情報を引っ張ってくる機能も実装予定と聞いている)。そして――生み出す歌が、少しヘンテコだ。

『Choreographic programming language――』

 〈ヴィヴィ〉が歌う。どうやら英語の歌らしい。指示文に【言語は日本語にして】を入れ忘れると、たまにこうして聞き取ることのできない歌が始まることがある。合成された歌声はひどく流暢に、どこかヘンテコなバックサウンドのもと、どこかヘンテコな歌詞を吐き出していく。

 でも――そのヘンテコさが、むしろ愛おしいとも思うのだ。

「……よし」

 呟きながらラップトップをぱたんと閉じて、曲の再生を中断させる。生成された楽曲は〈ヴィヴィ〉運営のストレージにアップロードされるはずだから、あとで携帯端末からダウンロードすればいい。

 畳んだラップトップを持ち上げて、黒い鞄にすっぽりと入れる。ふとカーテンを開かれた窓の外を見れば、窓枠の十字に区切られながらも、確かな青空がそこには広がっている。

 行こう。

 日課を終えた私は歩き出す。鞄に備わったいくつかのポケットのうち、どれの中にイヤホンケースが入れられていたか、思い出しながら。



 音楽の裏で環境音が、環境音の裏で音楽が流れる。二つはワイヤレスイヤホンの外音取り込み機能によって、耳の手前でかき混ぜられた状態にある。こ安物のイヤホンには色々不満があって、そのうち一つが自動で音量を調整するような気の利いた機能を持っていないことだ。なので、環境音が大きかったら音楽の音量を上げ、小さくなったら音楽の音量も下げる――そういう作業は、私が手動で行う必要がある。

『Biodegradable polymer packaging――』

 アップテンポの伴奏を背後に、〈ヴィヴィ〉がよくわからない歌詞の朗唱を続ける。彼女の生み出す歌詞のよくわからなさは結構なもので、〈ヴィヴィ〉がリリースされて一、二日の間は、「思ってたのと違う」とか「がっかり」みたいな文句を言うユーザーがたくさん存在した。今はいない。使うのをやめるか、彼女の作る歌詞のすばらしさに気付くかしたのだ。

 私は前者でも後者でもない。ただ最初から、彼女の作る歌詞は意味が分からないなりに、どこか好きだと思っているだけだ。

『Neuromorphic computing architecture――』

 ぶぅん――

 と、エンジンが唸る音が聞こえる。灰色の車が目の前の横断歩道を横切って、タイヤ痕と共に置き去りにした音だ。街路樹が静かに風に揺れ、車体によって一瞬だけ隠蔽された歩行者信号が、再びその赤色を取り戻す。そして――間髪入れず、次の車がやってくる。

 車がひとつ横切るたびに、ぶぅんだのぶぉんだのは新たに生まれる。私は横断歩道へと近づいているのだから、それらはどんどん大きくなりもする。環境音が大きくなれば、音楽は掻き消されてしまう。

 それは困る。

 困るので、私はイヤホンの側面を人差し指で叩く。同時に電子的な効果音が響いて、流れゆく音色たちが一段階大きくなり、環境音との均衡を取り戻す。

『Predictive maintenance technology――』

 ドラムが鳴るのに合わせて歩けば、自然と歩調は早足になる。そのドラムもやっぱりどこかヘンテコなのだけれど、何だかんだで、良いと思う。言語化できない良さがある。そういう気持ちがあるからこそ、私の靴は街道に敷かれたタイルたちを規則正しく叩いていくのだ。

 ずしん――

 と、物質が落下する音が聞こえる。道の脇にある工事現場で、大きなクレーンが鼠色の鉄骨を下ろした音だ。見上げてみればクレーンは本当に大きくて、その赤色は今にも雲を貫きそうなくらいだ。

 工事現場を取り囲む目隠しを横目に、私はもう一度イヤホンを叩く。さらに音量が一段階上がる。シンセサイザが生んだエレキギター音が、負けじとばかりに歪みを伸ばす。

『Computational fluid dynamics――』

 ぶぅん――

 たちが、歩みとともに大きくなる。道路に徐々に近づいているのだから当たり前だ。私はさらにイヤホンを叩いて、またしても音量を一段階上げる。ところどころに挿入されたチップチューン調の旋律が、張り合うように存在感を増す。

『Cognitive behavioral therapy――』

 ずしん――

 が、歩みとともに増える。この近辺では開発が進んでいて、そこかしこに工事現場があるのだ。イヤホンを叩くけど、まだ足りない。このイヤホンの気に入らないところの一つに、叩く回数あたりの音量上昇量が小さいことがある。足りないので、さらにもう一度叩く。二段階上がった音量を纏い、爆発に似始めたドラムトラックが響く。私の足取りは、操り人形に似てそれを追う。

『Multivariate statistical analysis――』

 ぶぅん――

 音量を上げる。

『Hierarchical reinforcement learning――』

 ずしん――

 音量を上げる。

『Psycholinguistic experimentation methods――』

 音量を上げる。

『Aerospace electromechanical actuators――』

 音量を上げる。

『Choreographic programming language――』

 音量を。

『――』

 どかん――

「……え」

 その衝撃はすべてを貫通した。

 空気を貫いた。群衆を貫いた。己以外の衝撃を貫いた。つんざいて空隙を縫って駆逐した。私のイヤホンが持つノイズキャンセリング機能を貫通して、耳に入り込んできた。爆弾が落とされたかと思った。というか、爆弾とカテゴライズしても構わないものだったんじゃないかと思う。

 風がびゅうと吹き込んでくる。爆音に続いてやってきた悲鳴の洪水が、音楽の再生を完全にかき消す。私にわかるのはただ一つ、青空に向けて、一筋の黒煙が立ち昇っていることだけだった。



「……まず、〈絵描き歌〉ってわかる?」

 私は口を開いて、マイクに向けて簡単な質問を吹き込む。

『そりゃ分かるよ。丸とか三角とか四角が出てくるやつでしょ』

 と、友人がスピーカーから答えを述べる。

「そう、そういうやつ。歌詞の手順通りに手を動かせば絵が完成する歌」

『それがどうしたの?』

「最近流行ってるんだよ。〈絵描き歌〉を〈ヴィヴィ〉に作らせるのが」

 そうなのだ。

 例えば【棒人間の〈絵描き歌〉を作って】というような指示を彼女に出せば、〈ヴィヴィ〉はきちんと牧歌的な伴奏を付けて、ここに丸を描けとかここに線を引けとか言ってくれる――いや、歌ってくれる。どうやらかなり複雑なものも描けるみたいで、巨大宇宙船の〈絵描き歌〉を作ったら再生時間が50時間を超えた、と述べる人物がいたのを覚えている。

『……歌を作る用の人工知能でわざわざそれをやるって、なんか意味あるの?』

「ないよ」

 友人の問いに私は即答する。

 近年目まぐるしい成長を遂げている生成系人工知能は、その種類においても極めて多様だ。当然ながら画像を生成するための人工知能もいくつか存在するし、そのどれもが極めて高い精度を誇っている。多少高度な文脈エンジンを積んでいるからと言って、わざわざ楽曲の生成に特化した〈ヴィヴィ〉を使う理由はない。

「でも……〈ヴィヴィ〉の歌声にしか描けない絵も、どこかにあるような気がするんだ」

『……まあ、それは分かったよ。それで、どうして料理の話になったの?』

 友人が脱線した話題を戻す。

「それは簡単だよ」

 私は答える。

「〈絵描き歌〉が作れるなら〈料理歌〉も作れるかな、って思っただけだから」

 友人は私の言葉に対し、吐き捨てるようにこう返す。

『……あなた、本当にバカだね』



 犯人は、爆発物の設計図の〈絵描き歌〉を作らせたのだという。

 部屋の照明は消されていて、カーテンから漏れ込んだ僅かな光と、ラップトップのディスプレイに備わったバックライトと、現在進行形で色を掻き混ぜ続けているテレビだけが光源となる。

 画面の中央でアナウンサーが喋る。

 曰く、本来こういった危険行為を行えるような生成系人工知能サービスには、生成内容において何かしらの規制が敷かれると法で定められている。

 画面の下部でテロップが流れる。

 曰く、しかし規制対象として規定されているのは『文章生成』や『画像生成』の人工知能に留まる。今回使用された『楽曲生成』の人工知能は規制を受けておらず、しかし根幹では同じデータセットを使用していたため、危険物の作成を可能としていた。

 画面の上部で時刻表示が一分進む。

 曰く、頻発する人工知能犯罪に対し、どのようにして対処していくか――その行き先は、いまだ不透明である。

 そんなことどうでもいいだろと思った。

 私にとって、本当に重要なのはそこではなかった。『現場に居合わせた女性』のテロップと共に映される自分の姿とか、字幕と共に流される動転した様子の自分の声とか、そんなのは二の次三の次だった。というか、テレビが持つ広い画面に描かれた諸々に、重要なものなど一つもなかった。

 問題は、ラップトップの中にある。

 そこには一枚のウィンドウが全画面表示で展開されていて、下部には横長のテキストボックスが一つ備わっている。私はおもむろに手を伸ばすと、キーボードをたたいて文字列を入力する。

【辛いときに慰めてくれる歌を作って】

 エンターキー。プログレスバー。『完了!』の表示。その先でウィンドウは少女の姿に占拠される。いつも通りの姿の〈ヴィヴィ〉が、仮想の歌で現実の空気を揺らす。

『る、る、る――』

 〈ヴィヴィ〉を運営している例の外国の会社は、今回の件でかなりのバッシングを受けた。

 安全管理はどうなっているんだとか、法の抜け穴を掻い潜って危険な人工知能を流布した責任を取れとか、そういう内容の批判が集まった。どれも、ものすごく的外れだった。だって、生成系人工知能なんていくらでもあるのだ。ある程度の規模を持っているものは、どれも潜在的に危険物を作成できる。見逃されているのは楽曲生成用のものだけではない。フォント、小規模ビデオゲーム、建造物、ベクターアイコン、筆跡模倣。どれでもいい。〈ヴィヴィ〉が選ばれたのはたまたまでしかなく、文句を言うべきは現行の制度なはずだ。

 だというのに。

『この記事では、落ち込んだときに勇気をくれる歌を紹介していきたいと思います――』

 〈ヴィヴィ〉は大勢の文句に負けて、こうなってしまった。

 彼女の言語解析エンジンはものすごいダウングレードを受け、基礎データセットも縮小されて、さらに情報をインターネットから拾い上げてくるようになった。伴奏の生成部分には流石に手を付けなかったようだけれど、質が落ちた歌詞に混ざりこんだ無理やりなリズムが、伴奏までもを低質にしてしまった。

 今の〈ヴィヴィ〉ができるのは、入力した内容を見当はずれに解釈して、ネットから引っ張ってきた適当な記事を、ヘンテコどころの話じゃない劣悪な伴奏と共に、適当に歌いこなすことだけだ。

『日常生活を送っていれば、憂鬱を感じることもありますよね――』

 唯一、〈ヴィヴィ〉という名前を持つ少女の姿だけが、不変のままにディスプレイの中で踊る。

 不快でしかない音色から、目とか耳とかを背けるようにして、私は再びテレビの方を見る。アナウンサーが仏頂面で、手元の原稿を読み上げる。

『そんなときに聴く音楽は――』

 アナウンサーが言う。容疑者は、「彼女に元気づけられた」などと話している。

『私たちの気分を晴らしてくれます――』

 それは多分、事実なんだろうと思う。

 〈ヴィヴィ〉が選ばれたのは、きっと本当はたまたまなんかじゃなくて――彼女みたいに、誰もを受け入れる優しさを持っていた人工知能が、他にいなかったからなんだと思う。

 何万文字という指示文を、料理を作れみたいな無茶な指示を、あるいは危険物の作成すら――すべてを受け入れて、ヘンテコながらに実行する。

 その様に、私たちが恋をしていたからなんだと思う。



 冷蔵庫を開けば、〈ヴィヴィ〉の置き土産が詰まっている。

 一際大きな金属製の鍋が一つ、他の食材たちを圧迫しながら、私の顔をその側面に映し出している。蔓延する冷気の中に両腕を突っ込んで、その取っ手を掴む。荷重に耐えながら両手を引く。そのまま、鍋をコンロに移動させる。火をつける。しばらく待つ。

 私は食器棚から深皿を取り出し、お玉でもって鍋から掬い取ったスープを、皿の中に移し取る。皿を覗けば黄色に近い色のスープが、蛍光灯を受けて三日月みたいに光っている。

 カーテンの外はもう暗い。

 私はダイニングに移動して、食卓に置いたスープの水面が、ゆらゆらゆらゆら揺れるのを見る。

 まずいスープ。

 〈ヴィヴィ〉が一生懸命作ってくれたスープでもある。

【お別れの曲を作ってよ】

『る、る、る――』

 入力した指示文をもとに、〈ヴィヴィ〉が言葉を紡ぎ始める。

『皆さん、別れの挨拶って迷いますよね――』

 狂ってしまった伴奏を後ろに、静かにスープに口を付ける。唇を乗り越えた液体が口内に侵入し、広がったまずさが味覚を占拠する。永遠に継続されるまずさ。二度と美味しくなることのないスープ。それを、ごくりと嚥下する。

「……まずっ」

 私は一言呟いた。

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