アレンの休日 2

 その川には小さな橋がひとつかかっている。

 その橋の上に、ふわふわとした銀色の髪の毛が見えた。手すりに体を乗せるようにして川を覗き込んでいるではないか。恐ろしいことに、両足はぷらぷらしている。

 手にした何かを川に落としているようだ。


 ――花か……?


 オリヴィアは手にした花の花びらをちぎっては落とし、ちぎっては落として遊んでいるようだ。


 大きな声を出したら、オリヴィアが驚いて落ちてしまうかもしれない。

 アレンは橋のたもとまで走っていくとスピードを緩め、ゆっくりとオリヴィアに近付いた。オリヴィアは花びら落としに熱中していて、少しもアレンに気がつかない。

 子どもというのは、こういうものなのだろうか。


「危ないよ、オリヴィア」


 声をかけながらオリヴィアの腰を抱いて橋の上に下ろす。ここへきてようやくオリヴィアがアレンに気が付いてこちらを向いた。

 ぱっと顔が明るくなる。

 銀色のふわふわした髪の毛に紫色の瞳。目鼻立ちのくっきりした愛らしい顔立ちは、母親に似ている。父親の気配は銀色の髪の毛だけだ。


 銀髪は未だに偏見の対象だ。

 この子のためにも、そんな偏見をなくしていかなくてはと思う。

 アレンがこの子のためにできる、数少ない国王としての務めだ。


「アレンおじちゃま!」


 そのかわいいオリヴィアのエプロンドレスは泥水でどろどろになっており、膝小僧からは血がにじんでいる。

 よく見なくてもどこがぬかるみのような場所で転んだことがわかる。ふっくらとした頬には泥のほかに涙のあとも。


「……おじちゃま、はいらないよ。アレンだけでいいよ」


 アレンはその場に跪いて胸ポケットのハンカチを取り出すと、オリヴィアの顔をぬぐってやった。渇いてこびりついた泥は取れないが、涙のあとは取れた。


「でもおかあさまが、おじちゃまをつけないといけないって」

「じゃあ、お母さまの前だけでいいよ。……こんなところで何をしているのかな? 一人?」


 アレンの問いかけに、オリヴィアが頷く。


「お屋敷のみんなが心配していたよ」

「おかあさま、おこってる?」


 オリヴィアがうかがうように聞く。


「心配していたよ。さあ、帰ろう」

「おとうさま、おこってるかな」


 声のトーンが落ちる。

 オリヴィアは父親が怖いらしい。クロードの野郎、何をしたんだ。うちのオリヴィアにきつく当たったのか、と考え、いや、オリヴィアはクロードの娘だった、と思い出す。

 が。自分はクロードの元上官なのだからここはちょっと強く言っておかねば。うちのオリヴィアにきつく当たるな、と。


 当のクロードに知られたら例の切れ長の目で睨みつけられそうなことを考えつつ、アレンは「大丈夫だよ」とオリヴィアに微笑んだ。


「怒られたら一緒に謝ってあげよう。でも一人でこんなところまで来るのはよくないね。誰かと一緒なら構わないけど」

「でもリンは膝が痛いと言って一緒に来てくれなかったもの」

「リン……は、まあ、しかたないね。他に誰もいなかったの?」

「おかあさまがお熱で寝ているからみんな忙しくて、ヴィアのことは相手にしてくれなかったの」


 オリヴィアは自分のことを愛称で呼ぶ。


「そうか。……それで、オリヴィアはなぜ一人でこんなところに?」

「カエルをつかまえにきたの」

「えっ……カエル……」


 オリヴィアの告白にアレンが引きつる。

 カエル。アレンがこの世でもっとも苦手なもののひとつだ。苦手なものはたくさんある。カエル以外にもある。でもカエルは苦手というか嫌いだ……子どもの頃、異母兄から服の中にカエルを突っ込まれたことがあり……しかも驚いた拍子に倒れこんで、カエルを服の中で潰してしまったことがあり……トラウマになっているのである。


「おかあさまね、カエルがお好きなのよ。だからつかまえて見せてあげたら、きっとよろこぶと思って」

「……マジか……」

「それで、森に行こうと思ったんだけれど、森には絶対に一人で行ってはいけないと言われているから、川にしたの。でもどこにもいなかったの。ころんじゃったし」


 屋敷の人々が森に向かったのは、おそらくいったんはオリヴィアが森に向かう姿を誰かが目にしたからだろうな、と思った。


「……」


 ここで、一緒に探してあげようと言えればオリヴィアの中での自分の株は爆上がりする。それは魅惑的なアイデアだ。が、人には譲れない一線がある。

 カエルはだめだ。

 ほんの数秒、逡巡したのち、アレンはそう決断を下した。


「オリヴィア、かわいいお花を持っているね」


 アレンはオリヴィアの小さな手に握られた、名もない花に目を留めた。

 オリヴィアに花弁をむしられ、ほとんど丸坊主になってしまっている。


「おかあさまはお花も大好きなんだよ。お花を摘んで帰ってあげよう。それはどこに咲いているのかな?」


 アレンの提案に、オリヴィアがぱあっと笑った。

 かわいいなあ。

 これが、あの、クロードの娘だなんて信じられない。


   ***


「ご迷惑をおかけしました」


 深々と頭を下げる、こいつは誰だ? こいつはクロードだ。

 頭なんて下げられるようになったんだなぁ。そんなことを思いながら、アレンは「別にいいさ」と鷹揚に返した。


 あのあとオリヴィアに付き合って、いくらかそのあたりに咲いている雑草の花を摘んで屋敷に戻れば、森では見つからなかったからといったん戻ってきているクロードや屋敷の人々、恐怖のあまり震えるセシアとばったり出くわした。


 オリヴィアといえば、アレンと花を摘んで機嫌が直っており、屋敷の人たちが自分を探していたこともきれいに忘れ、「おかあさま、お花よ!」と摘んできた花を見せびらかす始末。


 クロードの雷が落ちそうになるのをなんとか妨害して、オリヴィアの世話係に彼女を押し付けたところだった。何しろ転んで泥だらけ、膝小僧はすりむいて血だらけだからだ。


 そんなことがあったものの、行方不明の侯爵令嬢が見つかったことで屋敷は安心感に包まれていた。

 そしてアレンはクロードによって応接間に通されていた。

 いつだったか、セシアにアレンが結婚を迫った部屋だ。

 あの頃と何も様子は変わっていない。

 ただ、この屋敷の主人が変わった。

 あの時、部下として連れていったクロードが、今はこの屋敷の主人になっている。


「しかしずいぶん達者に話すようになったな? 四歳児ってあんなにしゃべるのか?」

 前に会った時はまだたどたどしい言葉遣いだったのに、と思ってたずねると、

「いや、ヴィアはとりわけおしゃべりみたいです」

 クロードが答える。


 アレンの「命令」でオリヴィアへの雷を抑えたクロードは、愛娘が見つかった安心感からその場にへたり込んでしまったセシアを抱えて寝室に連れていった。

 その後、てきぱきと屋敷の人間に指示を与え、アレンを迎える準備を進めさせる姿を見ていると、なんだか不思議な感じがする。


「立派になったなあ。あの黒が、こんな大きな屋敷の主人なんて」

「どういう意味ですか、それは」

「いや。自分のことはどうでもいいという感じだったのに、人は変わるもんだなと思って」

「……変わらざるを得ないですよ。そういえば先ほど、スコット大尉……ではなく、補佐官から、陛下が来たらあとはよろしくという旨の電報を受け取りました。グレンバーに戻る時には連絡を、護衛を派遣しますとのことですよ」

「おまえがついてくれば問題ないのでは」

「セシアの具合次第ですね。ちょっと弱っているので」

「夏風邪か? 拗らせると大変だから大事にしてやれ」

「それもあります。が……」


 クロードが言いにくそうによどむ。

「……なんだよ」

 睨めつければ、

「つわりが始まっていまして」

 スッと目を逸らし、クロードが答える。


「……おまえ、やることは本当にきっちりやるよな。オリヴィアの時もそうだったが」

「……オリヴィアの時も、夫婦でしたから……」


 目を逸らしたまま答えるクロードの目元がなんとなく赤い。されたくない指摘だったらしい。

 まあ、仕事そっちのけで子作りをしていたんだからな。そこはクロードらしくないとは思うが……当時だって実際に夫婦だったわけだし……。


 ――セシア夫人が迫ったっぽいしなぁ……。


 クロードが話したがらないので、この二人の馴れ初めはいまいちわからないのだが、なんとなーく、セシアが迫った気配があるのだ。そんな話をセシア本人がちらりと匂わせていたので。


「別に責めてるわけじゃない。家族は大切にしろよ」


 アレンの言葉に、クロードが頷く。


「……陛下は、ずいぶん変わりましたね」


 ややって、クロードが呟く。


「そうか?」

「ずいぶん丸くなりました。前はもっとこう」


 クロードの言い分にアレンは小さく笑った。


「……まあ、それはお互い様だろ」


   ***


「この手を離さない」は、「この手を離さない 孤独になった令嬢とワケあり軍人の偽装結婚」とタイトルを改めまして角川ビーンズ文庫さまより5月1日発売です。詳しくは近況ノートをごらんください。

 どうぞよろしくお願いいたします!

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