第三章 新婚旅行なんて、本気なの?
第19話 新婚旅行なんて、本気なの? 1
追悼式から二日がたった午前中。
ルイはドワーズ家の馬を借りて、アルスターの駅近くにある郵便局を訪れていた。アレンからの指示が郵便局留めの電報で届くので、毎朝確認しに来ている。大切な任務のひとつだ。
十五歳で追い出された時、二度とアルスターの地は踏むまいと誓った。
孫娘を助けた自分を、ドワーズ侯爵は自分だけでなく無関係の母親までも切り捨てた。嫌いな侯爵の領地になんて近づくものか。
ドワーズ侯爵への恨みはずっと心の中にあったが、やがて日常に忙殺されるうちに最優先ではなくなっていった。
世の中が見えてくるにつれ、自分の立場がわかってきたというか、移民の扱いを目の当たりにしてドワーズ侯爵の言い分も理解できたというか。
だから、フェルトンの件がなければ、ドワーズ侯爵に対する負の感情は、心の奥底に眠らせ続けたかもしれない。
第一、任務でそのドワーズ侯爵の不幸に居合わせた際、真っ先に浮かんだのはセシアのことだった。侯爵が死んで嬉しいという気持ちはこれっぽっちも起こらなかった。一人残された彼女がどうなるのか、それが気になった。
とはいえ、まさかこんなことになるなんて。
セシアは永遠に金色の思い出の中で笑ってくれる、優しい存在でいてほしかった。
何しろセシアは侯爵令嬢。
永遠に手が届かない、遠い存在でいてほしかったのだ。一種の崇拝に近いかもしれない。
自分とは違う世界に生きているのだと、目の前にいても触れることはできない幻のだと思えば、まだ諦めがつく。
なのにどうしてこんなことになったのか。
――気持ちを押し殺すことなんて、慣れていると思ったんだがな。
今までの任務ではできていたのに、セシアを相手にするとうまくいかない。大きな菫色の瞳も、鮮やかに色づく唇も、ルイの心を強く揺さぶる。
そのたびに力の入らない右腕のことを思う。右腕を失いかけた戦場を、そこで何をしてきたかを思い出す。そして言い聞かせる。
自分の名前は『ルイ・トレヴァー』。北部出身の軍人。でもその正体は黒と呼ばれる「誰でもない存在」。……自分はもうこの世にはいない存在。
直接的に、あるいは間接的に、数えきれない人を葬ってきた。背負っている恨みの数ならドワーズ侯爵の比ではないだろう。
自分は、セシアの近くにいていい人種じゃない。
アルスターの郵便局はこの地域の拠点となるため、それなりに立派な建物をしている。馬を預け、ルイは建物の中に入った。
受付に行けばすでに顔見知りになった係員が、ルイにグレンバーから届いている電報を渡してくれた。
その場で開いて中身を確認する。
『国王より首飾りの捜索状況の報告を求められたので、今月末までに俺の代理人が直接説明すると伝えた。よって適当な時期に王都に行き陛下に直接説明するように。髪の毛は元の色に戻して面会せよ。
また、七月後半に王都のドワーズ邸を使えないように細工する』
七月末?
二週間ほどの猶予があるようだが……?
――何かあったか?
時期に何かひっかかりを覚える。それにしても、国王も三十年近く前に行方不明になった首飾りを見つけたいなんて、無茶を言う。捜索を命じられている二人の王子はすでに探すことを諦めている。
その首飾りによく似たものを知っているルイだが、もちろんアレンにも、王国にも、告げる気はなかった。面倒ごとは避けたい。何しろ首飾りを贈られた母はまだ生きている。首飾りのことが明るみに出れば、母を面倒ごとに巻き込むに違いない。
あの首飾りは、母の祖国が大国に飲み込まれ消えていく時期に手に入れたもの。母は昔の話を一度もしたことがない。思い出したくないらしい。……アルスターにたどり着いてからも、自分のせいで穏やかな暮らしを失うことになってしまった。
ここへきてようやく静かな日々を手に入れたのだ。穏やかな日々を守ってやりたい。
――ところで、なんで髪色を戻す必要があるんだ?
銀色に青い瞳はイオニア人の証。この国では治安を悪化させた難民の象徴である。見る人にいい印象は与えない。ルイのように染めているイオニア人も少なくないのに、元の色に戻せとは……。
それにもうひとつ。
屋敷を使えなくするというのは、どういうことなのか。
アレンは、フェルトンに試験薬の開発を続けてほしくない。ジョスランからの資金援助や環境支援などを妨害したいはずだ。
ドワーズ邸を使えなくすれば、当然、ジョスランは……。
時期を考える。七月末。
――なるほど……。
注意をセシアに向けろということか。
セシアの顔が脳裏に浮かぶ。危険なことには巻き込みたくないが、そうも言っていられない。
――俺にできるか?
力の入らない右手を開閉してみる。緩慢な動き。握力も弱い。
今までこんなに弱気になったことはなかった。
そんなことは言っていられない。
ルイは電報の紙をたたむとポケットにしまい、郵便局をあとにした。
***
その日の午後。
波乱を予想していた追悼式だがなんとかやり過ごすことができ、頭痛の種だったジョスランも王都に戻った。
やれやれ、と思ったセシアのもとに間髪入れず伯母からオリッサの別荘への招待状が届く。追悼式当日、ルイは行かなくてもいいと言ったけれど……。
「やっぱり行こう」
念のためにルイに招待状を見せたところ、ルイが間髪容れずに答える。先日と百八十度反対になった意見に、思わず目がテンになったセシアである。
「どうして……、だって、行かないって」
「考えたんだが、俺たちは二人ともこんな茶番は早く終わらせたい。そうだろ?」
同意を求められて、セシアは頷く。
「ということは、さっさと叔父上を怒らせてフェルトンの薬を使ってもらうのが一番だ。今ならまだ、セシア嬢を消せばこの家は叔父上のものになる。だがセシア嬢に子どもができると、叔父上の相続順位は下がる」
「……ああ、なるほど」
つまりラブラブっぷりを見せ付けて、ジョスランを焦らせようというわけだ。
「……ねえ、これって私を囮に使うという意味よね?」
ルイの言わんとしているところを察し、セシアは形のいい眉根を寄せた。
「もとよりそういう意味での取引だろう」
「私が毒殺されるのを防いでくれるんでしょうね?」
「当たり前だ」
疑惑の目を向けたセシアに、ルイが言い切る。
おお、なんと頼もしい。
――まあ任務のためなら、まーったく気の進まない結婚もできちゃう人だものね。身分がどうのと言われても全然平気だったし。
ルイの態度はともかく、任務に関しては真面目なのだ。
「おじい様がいつ試験薬を口にしたのか、私にはわからない。お茶に入れられていたのかと思ったけど、あのあと叔父様は残りのお茶を飲んでみせたし……でもたぶん、おじい様のカップにだけ入れてあったんだわ……」
セシアは話を戻し、あの日のジョスランの行動をルイに説明した。
「試験薬に使われている毒素は、熱に弱いことがわかっている」
セシアの話を聞いたあと、ぽつりとルイが言う。
「そして期待する薬効が出るかどうかは、体質による。不完全なものなんだ」
「人を殺す薬ではないの?」
セシアの問いに、ルイは首を振った。
「毒物はすでに間に合っている。あれにはもっと厄介な作用があるんだが、今のところはうまく現れないようだな。現れないうちに処分して、この世から消し去ることが俺たちの目標だ」
そういえばイヴェールも、似たようなことを言っていた。
「どんな作用が出るの?」
「最高機密だから教えられない。非常に厄介とだけ」
「叔父様は知っているのかしら……?」
「その可能性は高そうだな。だから本当のところは、ドワーズ侯爵を殺害するつもりはなかったと思う。ドワーズ侯爵を殺すことが目的なら、別にフェルトンの試験薬を使う必要はない。それこそ、アルスターの森に生えている毒草や毒キノコでも十分だ」
「……殺すつもりはなかったのなら、何をしようと……」
セシアは記憶をたどった。あの時、叔父はマデリーの売買契約書へのサインを祖父に書かせようとしてはいなかったか?
欲しかったのは、サインだけかもしれない?
それなのに、試験薬が効きすぎて……あるいは合わなくて、祖父は命を落とすことになったのかもしれないというのか?
そして祖父が思いがけず亡くなったので、ドワーズ家を相続できると……?
――マデリーを売りたかったんだわ。そのために、おじい様に軍が開発の中止を命じるような試験薬を使ったというの?
だとしたら、なんと利己的なのか……!
「……フェルトンさんと叔父様がつながっているのは、間違いないのよね?」
セシアが確認すると、ルイは頷いた。
「フェルトンさんを捕まえたら、叔父様がおじい様にその試験薬を使ったという証拠は、見つかるのよね?」
「ああ」
「……それがあれば、叔父様に罪を問える? おじい様を……叔父様が、殺したと……」
言葉にすると生々しくて、セシアは思わず目を伏せた。
じわりと涙が浮かんでくる。そうだ、祖父は叔父に……実の息子に殺された可能性があるのだ……。祖父は、あんなところで死ぬつもりはなかったはずだ。まだやりたいことがあったはず。やり残したこともあったはず。
忙しくて目を背けていた寂しさが、胸にこみあげてくる。
「ああ。問える」
「……わかったわ。ここからはあなたの出番ね、ルイ。叔父様を焦らせて、しっぽを出してもらいましょう」
セシアは涙でうるんだ瞳のまま、ルイに笑いかけた。
「で、どうすればいいのかしら」
ルイはセシアが手にしている招待状を指先でトントンと叩いた。
「招待に応じよう。……きっと動くはずだ」
そんなわけでセシアは伯母に対して招待に応じること、そのお礼について手紙を書いた。伯母によると、訪問はいつでもいいとあったが、追記でご丁寧にオリッサの海祭りの日程が書いてあったので、そこに合わせて一週間ほど滞在する予定を組む。そしてジョスランに旅行のことを知らせなくてはならないので、追悼式参加の礼状に伯母の招待に応じることを書いておいた。
「私たちしかいないのなら、寝室が別々でも構わないわよね」
セシアの確認に、ルイは頷く。
だったら安心だ。
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