奏汐音には逆らえない
俺の誕生日の翌日の朝、一つ歳をとったとは言っても、いつもと特に何も変わる……なんて事はなく、いつものようにさくらの散歩に出かけた。
滞りなく散歩を済ませて帰宅すると、朝食の用意されているテーブル。なぜか奏汐音も座っていた。
近頃は朝の散歩の担当は俺で、夕方は奏と住み分けをしているから、朝の早い時間帯に奏が事務所にやってくる事はほぼなくなっていた。
それなのになぜか、この日は朝から顔を出していた。
それも今日、奏は休みを貰っているはずなのだ。それなのに、大和さんと奏は、テーブルを挟んで談笑をしている。
不思議に思ってしばらく二人を交互に見ていると、先に奏の方から声をかけてきた。
「おかえり。今日はいい天気で空気が美味しいねー」
どうやら
「おはよう。昨日はありがとうな。……ところで今日は何しに来たんだ?」
奏は少しムッとしたようで、ハムスターが頬袋にヒマワリの種をたくさん詰め込んだ時のように膨らませる。
「用事が無きゃ来ちゃいけないの?」
「いや、別にそういう訳で言ったわけじゃないんだけど……」
「冗談よ」
奏は柔らかな笑みを浮かべると、小さく舌をだしておどけてみせた。
「本当に二人は仲がいいねー、おじさん焼けてきちゃうなー」
冗談めかして大和さんが茶々をいれてきたのだけど、奏にその軽口を本気にされても困る。
だからちゃんと突っ込みをいれておかねば。
「大和さん、そういうのは冗談でもやめてください」
「はいはい。ごめんねー」
大和さんもペロリとペコちゃん宜しく舌を出してにこやかに笑うと続けて言った。というか、そのポーズ誰得?
「今日の翔の仕事は、奏ちゃんの付き添いだ。夕方のさくらの散歩は俺が行くから時間は気にしないで良し!」
「奏の付き添い?いきなり言われても状況が飲み込めないんですけど、どういう事ですか?」
それは私から説明するわと前置きをしてから奏。
「今日、私は晴れて初めてのお給料を頂きました!!パチパチパチパチー」
それを受けて大和さんが、「初任給おめでとう」と拍手を送る。
「ありがとうございますー。それでね、これから藤沢まで買い物に行くんだけどー、大和さんに、翔君を1日貸してくれませんか?ってお願いをしに来たの!!」
「もちろん、二つ返事でオッケーだ」
大和さんは親指を立てて得意気な表情だ。
こと奏の事に置いて大和さんは、あまりに寛容過ぎる気がする。
俺を除いて全ての男はみな可愛い子に弱いと聞く。
だからこれも仕方のない事なのだろうか……?
でも────
「それが仕事っておかしくないですか?奏の個人的な買い物ですよね?奏が俺に直接頼むならまだわかるんです。でも、大和さんを緩衝材にして半ば強制的に俺を連れ出そうってのが納得いかないです。それに俺にも予定があるかもしれないじゃないですか?」
大和さんが両目を閉じて腕組みをしながら答えた。
「それがそうでもないんだな。今後、奏ちゃんが、うちでバイトをして貰う上でも関係のある事なんだよ。なんだい、予定があるのか?」
「いや、特に予定はないんですけど……バイトに関係するってどんな事なんです?」
「それは行ってからのお楽しみ。じゃあ決まりって事でいいんだね?」
腕組みは崩さずに左目だけを開き俺を見据えた。
「翔君、お願いします!!」
神頼みと言わんばかりに両手を顔の前で合わせて、少し不安げな様子で奏は俺に懇願した。
昨日の事もあるしな。
大和さんと奏の関係を疑っていた後ろめたさもある。
「はあ、わかったよ。行くよ。行けばいいんだろ?」
「翔君、ありがとう」
思わず全てを許してしまいそうになる屈託のない笑みを浮かべて、奏はお礼を言ってきたのだ。
酷い不意打ちだ。
結局の所、大和さんも、俺も、いや全ての男が、奏汐音には逆らえないそんな風に思えた。
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