奏は……

 吉田さんと少し世間話をしていたせいもあって、すっかり事務所に帰ってくるのが遅くなってしまった。


 時計の針は九時前を示している。


 事務所の営業も当然終了してしまっている時間で、いつもなら事務所の明かりも消えているはずの時間だ。

 しかし、


「あれ。消し忘れか?」


 引戸の隙間から光が漏れている。


 不思議に思い引き戸を開けると、ソファに腰かけた奏の姿が飛び込んできた。


 なぜか俺のジャージを着ているのか気になるが、とりあえずそれは一旦置いて置く。


 それよりも気になる事があった。

 いつもならとっくに帰宅している時間のはずだ。


 奏は、疲れているのか少し引きつった笑みを浮かべ「お帰り」と出迎えてくれた。


「おう、どうしたんだ?こんな時間まで」


 俺の問いが気に入らなかったのか、奏はむーと唸って唇を付き出した。

 そして、ひとつため息をつくと、普段より低いトーンで話し始めた。


「はー……翔君は、はあちゃんがどうなったのか気にならないわけ?」


「あっ、ああ。そりゃ、気になるよ。それで、どうなったんだ」


 すっかり忘れていた。

 思ってもいないことを口にしたもんだから、出てくる言葉がどうもたどたどしい。

 


「あやしー、本当は忘れてたんじゃないのー?」


 奏は俺の本心を探ろうとしているのか、ジト目で俺の目を見つめてきた。


 なんか後ろめたくて目を逸したい気分だったけど、目をそらしたら嘘がバレそうだから我慢して奏の目を見つめ続けた。


「そんなわけないだろ」


「ふーん。まあ、それなら良いんだけど」


 なんとか奏の目は誤魔化せたようだ。


「それで、どうなったんだ?」


「それなんだけどね、しばらく入院する事になったの。酷い脱水症状を起こしていたみたいでなの。でも点滴をして治療をすれば、一週間もすれば良くなるって」


「そうか、それなら良かった」


 これは本心だ。


 はあちゃんの事を忘れていたのは、散歩の時にごちゃごちゃいろいろ考えていたからで、決して!はあちゃんそのものに興味が無かったわけではない。


 それを察してくれたのか、奏も「うん。本当に良かったよ」と頷いた。


「さてと、じゃあ私もう帰るね。それを伝えたかっただけだから」


 そう言うと奏は、ソファから立ち上がり、ブカブカのジャージの裾を気にしながら引き戸の前まで歩いていく。


 そして引き戸を半分くらい開いたところで、奏がこちらに顔だけ振りかえる。


「あっ、忘れてたけど、翔君のジャージ借りてるからねー。海水で着てた服がベトベトになっちゃったから。明日洗って返すね」




「夏休みが終わるまでに返してくれればそれでいいよ」


「大丈夫、絶対に明日返すから。じゃあ、また明日ね。おやすみ」


「明日は弁天橋に五時な」


「うん。わかった。バイバイ」


 奏は掌が半分隠れた萌え袖で、手を振ると引戸に手を掛けた。



「翔、もう遅いから駅まで送って行ってあげたらどうだい?」


 今お風呂から上がったのだろう。

 頭をごしごしとタオルで拭きながら大和さんがこちらにやってきた。


「あっ、いえ大丈夫ですよ!このくらいの時間になる事はたまにあるので」


「翔。酒のつまみを切らしてしまってるんだけどね、僕はあろう事かもう風呂に入ってしまったんだ。悪いんだけど、コンビニで買ってきて貰うことは出来ないかな?」


 大和さんは俺だけに分かるようにウインクをした。

 おっさんのウインクとか誰得なんだろうか……

 しかし、大和さんのお願いなら聞かないわけにはいかない。


 この辺りのコンビニは駅前にしかない。

 つまり話を要約すると、奏の事を送るようにとの大和さんからの指令なのだ。


「わかりました。行ってきます。じゃあ、ついでだから送るよ」


「……うん。それだったら、お言葉に甘えちゃおうかな」


 ──────────────────────


 この江ノ島には駅と呼べるものが三つ存在している。

 湘南モノレールの湘南江の島駅。

 江の電の江の島駅。

 そして小田急江ノ島線の片瀬江ノ島駅。

 奏の最寄りの路線は小田急江ノ島線だと言うことで、片瀬江ノ島駅を目指していた。


 事務所からは五分とかからない道のりなのだけれど、奏と歩む道のりはなぜかとても長いものに感じられた。


「……ねえ、翔君はさあ、なんではあちゃんの捜索に協力してくれたの?」


 お互い無言だったのを気遣ってくれたのか、奏がこんな事を聞いてきた。


 なんでってあの時は選択の余地なんて無かっただろ!!と言いたい所だけど、本当は少し違っていた。

 夜の妙なテンションのせいか、なぜかこの時は本音で話をしてしまったのだ。


「なんか、一生懸命な奏を見てたら手伝ってあげた方がいいのかなって少しだけ思ってしまったんだ。……それに奏には借りがあるからな」


 最後のセリフは本音でもあるが照れ隠しでもあった。


「なにそれー?せっかく良い事言ってたのに、最後の一言で台無しじゃん」


 奏はムーッとほっぺを膨らませながらえいっと道端の小石を蹴飛ばした。

 小石はカラカラと転がって側溝の溝に落ちた。


「そっちが本音だからな」


「翔君の意地悪ー」


 そんな他愛もない会話をしていたら、気が付けば片瀬江ノ島駅が見えてきた。

 そりゃそうだ。たった五分の道のりなんだなら。


 

 龍宮城仕様の駅舎の前までたどり着くと、奏と俺の足はピタリと止まる。


「この前、奏の相談には乗らないって言ったの覚えてるか?」


「忘れるわけないじゃん。でも、もうその話は別にいいよ。毎日楽しく過ごせているし。なんかどうでもよくなっちゃったかも」



 「なんかさ、今日いろいろ考えてて気が変わったんだ。もし、奏がまだ俺に話したいんなら、聞いてあげない事もない……」


 なんか照れくさくて、奏のの目を見て言う事ができなかった。自然とライトアップされた駅舎に視線が泳ぐ。


「えっ!?本当に!?……って言いたい所だけど」


 奏は二、三歩駅舎の方へ歩き、駅舎を見上げながら続けてこう言った。


「本当にもう良いかも。それは自分でなんとかしようかなーって思いだしたんだよね」


「そうか。奏がそれでいいんなら俺はどっちでも良いんだけどな」


 丁度話の区切りの良い所で、ケツポケットに入れていたスマホが震動をした。

 画面を確認すると事務所からの着信だった。


 早くつまみの欲しい大和さんが痺れを切らしたのだろう。


 その電話には出ずに奏に向き直り別れを告げる。


「大和さん待ってるからもう帰るわ。じゃあ、また明日な」


 「うん」とだけ返事をして、奏は駅舎の方へ歩きだす。

 そこまで見届けてから振り返り、歩き出して二、三歩歩いた所で、



「ねえ。翔君!」


 ほぼ叫び声のような形で俺を呼ぶ声がした。


 それは当然、奏の声であって疑う余地はない。

 首だけで振り返り、奏の姿を視界にとらえる。


「あの、翔君聞いてほしいの!本当に私の好きな人と言うか、気になっている人は……」


 奏は恥ずかしそうに、もじもじしながらその続きの言葉を言いあぐねている様子だった。


 

 奏との本当の初対面、校舎裏での出来事を思い出す。

 俺に久しぶりと挨拶をし、嘘つき呼ばわりして去っていった奏の姿を。


「まさか、俺とかいい出すつもりじゃないよな?」


 もしそうならば、それは奏の勘違いだ。俺じゃない、他の翔君のお話。


「そ、そんな訳ないじゃん!」


 奏の顔面は一気に真っ赤に染まっていく。


「私が好きなのは佐渡晃先輩!聞いたからにはしっかり手伝って貰うからね!」



 言い終えると、ぎこちない動きで振り返り、ガチャガチャとしたロボットみたいな動きで駅舎に入っていった。


 そんな奏の後ろ姿を見送りながら、少し複雑な気分を味わっていた。


 自分なのではないかと思ったほんの一瞬、少し、ほんの少しだけど喜んでしまっている自分がいたことに。


 

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