第32話(終)

 嫉妬や劣等感をあまり抱かない二十年間だったと自負している。

 一度もそうした感情に苛まれたことがないと言えば嘘になるけれど、それでも私は誰かと積極的に自分の在り方を比べたり、羨んでおかしな行動に走ったり、妬ましさで胸がしめつけられたりはしてこなかった。

 そうした心境が態度に出て、小学生の頃は親や先生、周りの子からマイペースとよく言われた。それが中学生になると、達観していると言われることもあれば、どこか冷めていると言われることもあり、交友関係が浅く狭くを保っていた事実をふまえるなら、裏では何を言われていたかわからない。

 高校生になってみると、独りであるのが楽に感じられ、一方で数少ない友人とはなんだかんだ三年間、つながり続けていた。それが切れたのと母が死んだのがほとんど同時で、思い返してみれば私はあの時、その友達もどきの女の子たちに悲しさや切なさを吐露しようとは思わなかったのだった。

 きっと彼女たちは今は別の土地、別の大学で青春を謳歌しているのだろう。そうであってほしいと素直に思う。私ばかりが不幸になるのは癪だから彼女たちも何かひどい目にあっていればいいのだ、なんて発想には至らなかった。至っていないのに、そういう逆恨みの筋書きが含まれる映画を観ると考える自分がいる。

 私はもっと誰かと自分を比べ、競い、勝ち負けを決め、心を動かしてもいいんじゃないかって。


 祀梨へと、微かな嫉妬を告白した後、私が静かに滔々と話したのはこういうことだった。ごくごく個人的な、独白めいたもの。

 突拍子もないのに、祀梨は隣で聞いてくれた。相槌だって打ってくれた。そして「ねぇ、ななみさん」と、私の言葉が途切れたのを確かめてから言ってくる。


「そのことと今さっき口にした『少し妬けるわ』って、どう関係してくるの? 教えてほしいな」

「そのままの意味。こうして名前で呼び合う仲になったせいだわ。祀梨が私のよく知らない女の子を想い続けて、その二人の思い出を形あるものとして新しい居場所にも連れて行くことに、私は少し嫉妬しちゃったの」

「つまりさ、笑実理に嫉妬したってことなんだ?」


 できるだけ丁寧に伝えようとしたことが祀梨の口からは短くまとめられて表現される。しかも私はそれを否定できない。


「そうね。でも、こんな嫉妬は取り損ねた棘でしかないわ。私はあなたが遠野さんのことを忘れず、その最後の願いをあなたなりに叶えていく決意をしたのをこの目で見てこの耳で聞いた。それでいい、ううん、それがいいって信じている」

「うん、ありがとう。それから?」

「……それから?」


 露骨に何かを期待する眼差しを彼女がひたに私へと向けていた。心音が速まるのを止められない。

 

 もしかして、もう母親から聞いている? いや、まさかそんな。いくらなんでもあんまりだ。あれか、私が順番なんてどちらでもなんて言ったから、あの人は祀梨が合格を報告してきたときに、しれっと私のこの気持ちをこの子に伝えたのか? 

 待て、待って、そうよ、落ち着いて。


「ななみさんはさ、わたしに勉強を教えてくれた。それ以外も。そしてきっとこれからもいろいろ教えてくれるんだよね」


 動揺を隠すのに尽力している私に、祀梨はいつもの声でそう言う。


「わたしね、ななみさんとのやりとりでちょっと後悔しているんだ。わたしからも教えてあげるべきだったって。うーん、でも同時に教えずにいてよかったかもっていう気持ちもあるんだよね」

「なんのこと?」


 何を教えなかったことを悔やんだり、安堵したりしているんだ。


「わたしはななみさんみたく回りくどく言わないよ? シンプルに。いい? ななみさんは素敵な人だってこと。充分に教えてあげられていないなって、今思ったの」


 野々井さんの言葉を思い出す。

 電話の向こうからじわりと感じ取れた親愛、あるいはそれとは別の好意を。けれども祀梨の「素敵」からはそこまでの感情の揺れを受け取れない。当たり前みたいに言ってくる。


「そんなのべつに、教えてもらわなくても」

「ダメ。やっぱさ、知るべきだよ。うん。ねぇ、理解して。ななみさん自身を、それからわたしのこと。ばらばらにしてくれたっていいし、とけあうのが好みならそれでもいいよ。大切なのは、わかりあいたいって気持ち。そう思わない?」

「ち、近すぎるわ――――」


 これもう、キスする五秒前じゃん。そんな冗談言えたなら。そんな余裕があったなら。この部屋のドアをくぐる前、彼女に抱き着かれる前はあった、私の覚悟はとろけている。彼女に拒まれても、とそう思っていたのが嘘になる。


「祀梨、聞いて」


 私は彼女の両肩に触れ、そしてなんとか彼女と距離をとる。でも触れている分、近くなったか遠くなったのかよくわからない。


「うん、聞くよ」

「私は……そばにいたいの」

「うん」

「あなたにこれからも寄り添い、生きていきたい。それはその、つまり、ええと、たとえば恋人という形でなくたっていい。あなたから私に寄せる気持ちが、遠野さんへのそれと違くても、いいの。ただ、私をあなたの隣にいさせて」


 彼女から一瞬たりとも目を離さない。まばたきさえも罪であるかのように。私は思いを伝える。彼女が眉根を寄せるのを目にしたとき、やっと私はまばたきをした。彼女は「うん」と言ってくれない。


「ダメ。それは……ちがうよ」

「え―――?」


 思わず私は彼女の肩から手を離す。


「望むのは献身? 本当にそうなの? ななみさんはわたしをお嬢さまって呼んで、慕いたいわけ? ねぇ、どうなの。わたしを馬鹿にしないで。わたしを……見て。こっちも余裕ないんだよ。こんなにもドキドキしているんだよ。ななみさんは? 教えてよ。性別とか立場とかそんなの関係ない、その気持ちを教えて」


 彼女が私に抱き着いてくる。私の胸にその可憐な顔を、真っ赤にしたそれをうずめてくる。私はそっと、彼女の背中に腕を回す。


「ほら……めっちゃドキドキしている」


 彼女のはにかみ声がこんなにも近くから聞こえる。まるで心音みたいに内側から。

 私は伝え直す。もう一度、自分の彼女への想いを、伝えたくなる。


「ごめんね、祀梨。意気地無しの先生でごめん。私……好きなの。どうしようもなく好きになっちゃったの、あなたのこと。たった数カ月、それだけで。そばにいたい、それだけでいいなんて……嘘、なのかな。全部ほしいのかな。こんな気持ち、初めてなのよ。笑っちゃうでしょ? 私、何にも知らないのよ。だから……」


 私は背中に回していた腕を解き、そして彼女を引き剥がしてから今度は私が彼女の胸に自分の顔をうずめてみせた。その心音を聞きたくて。彼女ばかりが私のそれを聞くのは恥ずかしくて、なんだか悔しくて。


「どう? わたしの心臓」

「……動いている」

「当たり前でしょ」

「ううん、当たり前じゃない。私たちがここでこうして二人で生きているのを当たり前にしたくない。特別にしたい」

「……どう返したらいいかわかんないよ」

 

 姿勢を変えた。ソファの軋む音、二人分の吐息、それに心音。彼女ともう一度目を合わせたとき、それらは遥か彼方へいく。時が止まったみたいに。


 私は自分の唇を彼女の唇と重ね合わせる。重なって花が香る。彼女がぐっと私の首に手を添え、離してくれない。息苦しいほど彼女が香り、はっきりとわかった。

 私はこの少女に恋をしている。たとえこの先にどんな苦難があっても今この気持ちを偽りたくない。棘を喰らわば花まで。過去も未来も全部。私は祀梨を愛している。


「んっ……まぁ、その、一回目にしては上出来かな、なんて」


 糸をひかせて離した唇、彼女が微笑んで言う。結局、日が高く昇りきるまで、私たちは何度も想いを確かめ合ったのだった。




 ※ ※ ※



 

 ペアリング。

 無線通信の相互登録認証のことではない。繁殖させるために動物を交尾させることでもない。私が祀梨のためのクリスマスプレゼントとして見繕うかどうか悩みに悩んでいる品だ。まるで婚約指輪でも買う気になっている自分が滑稽に感じる。世の恋人たちはすごいな。別れたら海にでも投げ捨てているんだろうか。いやいや、そんな後ろ向きの想像をすべきではない。


 例のソファも、それからあのネックレスも、彼女は新しい部屋には持ってきていない。その他の、遠野さんとの思い出の品についても実家から取り寄せてはいないと祀梨は話していた。

 一方、私と祀梨を繋ぐ、形あるもの。それは強いて言うなら大学受験対策の教材? そこに愛や恋を感じるのは難しかった。一年後の今頃は共通テストの最後の追い込み時期であるはずの彼女にとって、その教材たちは過去の思い出ではなくむしろ現在を未来へと繋ぐものだ。


「念のため、訊くんだけどさ」


 私の部屋、私の太腿を枕にしている祀梨がそう切り出す。クリスマス一週間前だ。

 彼女が私の隣の部屋に越してきてまだほんの五日。その期間に、彼女はもう累計何時間も入り浸っているのだ。これまで誰もあげてこなかったこの部屋に。


「なに?」

「クリスマスさ、イブも当日もわたしといてくれるよね」

「ええ、そうよ」

「急に誰かからパーティーに誘われたら?」

「誰かって? そんな人いないわよ」

「わかんないよ。人肌恋しい大学生なんてそこらじゅうにいそう。ななみさんが隙だらけで歩いていたら誘われるどころか、攫われるかも」

「ないない」

 

 もう何も知らない少女でないのだから。


 私は短くなった彼女の髪を撫でる。それでも肩にかかる長さなので、私より長い。思えば、髪の長さも色も私たちは近くなった。私は染め直さずにすっかり地毛で黒色だ。

 祀梨の、吸い込まれそうな夜空の色には敵わないけれど。それでいいのだ。


「でも、たとえばさ……クリスマス直前に彼氏の浮気が発覚して喧嘩別れした、綺麗な女の子が道端でうずくまって泣いていたら、声をかけて手を差し伸べるんじゃない? それで成り行きで関係持っちゃわない? あ、べつに男女逆でもいいけど」

「なにもよくない。そんなの道端にいてもスルー。私は慈愛の精神に溢れてなんていない。そういうのは拾いたいやつが拾っておけばいいのよ。私は……祀梨がいてくれればそれでいい。それがいいの」

「ひゅーっ!」

「……そろそろどいて。足が痺れてきた」


 くすくす笑いながら祀梨が起き上がる。


「ねぇ、ななみさん。先に告白しちゃうとさ、クリスマスプレゼントはあんまりいいもの用意できなさそう。ごめんね」

「価値を決めるのは贈られた側でしょう? よほど変なものじゃない限り、嬉しいわよ」

「伝線しにくいストッキングでもいいかな」

「私が履いているところ、見たことある?」

「ないんだよね。黒タイツとか似合いそう」


 そう言うと平気で脚を触ってくる彼女の手を軽くつねる。


「あのね、祀梨。私は、えっと……まだ悩んでいる途中だけれど、できればお揃いの何かを贈りたいって思っているの。そういうの、重い?」

「へぇ、意外。てっきりもう準備済みなのかなって。しれっと、当日の朝、枕元には手編みのマフラーが、みたいな」

「編んでないわ。それにサンタクロースの流儀に則るつもりもない」

 

 祀梨だって、どこかに靴下をかけておきはしないだろう。


「ふうん。けどさ、きっといっしょに朝を迎えるよね?」

「あのねぇ……」


 そんなことをよそでを誰かに言ったら、下手すると私は逮捕されてしまう。


「話を戻すとさ、きらきら輝く宝石のついた指輪でもなければべつに重くないって。お揃いのピアスとかしちゃう? あ、お揃いの下着ってのもありかもね」

「そ、そうね。前向きに検討しておくわ」


 指輪、ダメっぽいな。いや、私は何も宝石のついた指輪を箱付きで贈る予定などなかったが。


「ななみさん? そんな真剣に悩まれると嬉しい反面、申し訳なくなっちゃうよ。んー……よしっ! いっしょに選びに行こっか。そうしよう」

「え?」

「それがいいよ。サプライズプレゼントなんてさ、物によっては反応に困るだけだし。二人で選べばいいんだ。それが確実だよ。ねぇ、いいでしょ? クリスマス直前にデートして、クリスマスイブにデートして、クリスマスにデートしてって感じ」


 うんうんと笑顔で肯く祀梨を、隣で見ていると、なんだかそれが正解な気がしてきた。

 

 二人で。

 そうか、それが一番だ。私はクールに「一理あるわね」と返事をして予定を立て始める。もう独りじゃない。新しい季節、新しい場所、新しい関係。それがいつしか慣れ親しんだものとなる。


 私たちはここにいる。隣り合わせで生きていくんだ。

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棘を喰らわば花まで よなが @yonaga221001

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