第29話

 少女たちの心中未遂の真相を三人が共有した日。月鳴館から自宅へと帰ってきた私は、暖房のついていないその部屋に沈殿している寒さに身を任せながら、電話をかけた。空調の音一つだって邪魔してほしくなかったから、そのまま寒い部屋で電話をしたのだ。鹿目母に。

 ベッドに腰掛け、置時計を見やる。時刻はまだ午後五時前。出なかったら留守番電話にメッセージを残すつもりでいた。だが、その必要はなかった。彼女は三コール目で「もしもし」と応じた。


「八尾です。今、お時間よろしいですか」

「少しなら。名付けられたの?」

「ええ、まぁ。それで報告をと思って。約束しましたから」

「ねぇ、待って。べつにあなたの声色から心を読むことはできないけれど、どうにもその答えはまだあの子に伝えていない雰囲気がある。ちがう?」

「……順番はどっちでもよくないですか」


 電話の向こうで彼女が笑う。生意気な物言いになったかも、と私は省みる。彼女は「そうね、そういうことにしておきましょう」と朗らかに言ってくれる。


「本人に伝える意志はあるのよね」

「はい」

「じゃあ、その練習。今、私に教えてちょうだいな。あなたが祀梨に抱くその気持ちのこと、ありのままにね」


 私はスマホを右手から左手に持ち替える。それで右手を胸に当て、心音を聞くようにしながら想いを紡ぐ。


「好きなんです。そばにいたい。一番近くに。他のどんな、誰よりも。私が彼女を支えたい……そう言ってしまうのは傲慢でしょうか」

「あの子の傷を癒し、あの子に道を示してあげたいとでも言ったのなら、それは驕りだと感じたでしょうね。そんなのはどんなに立派な宗教だって簡単にはいかない。でも、根っこはいっしょかしら」

「信じたい」

「そのとおり。ねぇ、また今度いっしょに食事でもどう? 二人でも、もちろん三人、四人でも。時間を作るから」

「喜んで」

「お節介だとは思うけれど、もう一つ言わせて。たとえ今のあの子があなたのその気持ちに応えられなくても、憎んだり恨んだりはなし。そうよね?」

「ええ、わかっています」

「わかっていてもつらいものよ」

 

 私はもう一度「わかっています」と繰り返さず、言葉を探す。ベッドから立ち上がると、窓辺へと移り、右手で窓の冷たさを確かめた。


「生きていればこそ、そういう気持ちにもなれるんです」


 返答として何点もらえるかわからなかった。電話の向こうにいる彼女は点数をつけず「そうよね」とごく平凡な相槌を打った。


「ねぇ、私は相手の子のことを、これまでもこれからも許す気はないわ」


 突然の告白に私は惑う。

 もとより、私が祀梨への想いを伝えてきた時に言うと決めていたのだろうか。遠野笑実理を許さない。それが鹿目母の嘘偽りのない心の内なのだと察した。

 ――――もし誰かが再び娘を深く傷つけることがあればその時はどんな行動に出るか想像してみなさい。

 そんなふうにも聞こえる告白だった。

 いつか……祀梨自身の口からこの人へと、遠野さんとの日々が語られる未来が来るのだろうか? その未来が来なくてもいい。受け入れる人がいれば、受け入れない人もいるのが世界の理だ。


「私は夫の話を聞き、あなたのことを直に話して知り、それで決めたのよ。あの子があの場所から一年せずに出るのをね。あの子と、あなたを信じているの。このことを忘れないでね、ぜったいに」


 一人の母親としての言葉に、私は「はい」とはっきり答えた。




 その翌日は月鳴館に行かずに大学の講義を朝から夕方まで受ける曜日だった。合格通知が届いたなら、祀梨が月鳴館のエントランスで電話を借りて連絡してくれる段取りになっている。

 

 そわそわしながら受ける講義はいつも以上に身が入らない。

 そしてなぜかそういう時に限って、普段話しかけてこない学生に話しかけられるなんてハプニングが二回もあった。

 一回目は後になってナンパのようなものだと気がつき、二回目は暇つぶしか何かだった。冬だと言うのにやけに丈の短いスカートで、肌が少し透けたタイツを履いた、赤縁丸眼鏡のロングヘアの女の子。彼女が講義前の浮いた時間に本を読んでいる私に話しかけてきたのだった。

 祀梨のことで本の内容はあまり頭に入っていなかった。合格不合格よりも、どう彼女に想いを伝えるかで悩んでいたのだった。

「それ、面白い?」と彼女は訊いてきた。その講義の受講要件を考慮すると私と同い年、そうでなければ同学年の年上であるはずだった。でも彼女は十七か八ぐらいに見えた。ことによっては祀梨より幼さのある顔つき。


「えっと、前にどこかでお会いしましたか」

「ここ一年半、同じ学部でいくつかの講義で一緒だった。でも、こうして話しかけたのは初めて。いつもつるんでいる子が今日は休みで、代返頼まれているんだ。隣いい?」

「あ、はい」

「なんていう本?」


 私が情報を整理する暇なく、彼女は隣に座り、机上に開かれたままの本に視線を落として言う。昼食後に附属図書館で借りたその本を私は立てて、表紙と裏表紙を見せた。


「それ、映画になってたよね。中学生の時に友達と観に行った……あー、その予定だったけど、その子が彼氏とのデート優先して、観に行かなかったやつだ」


 彼女が可笑しそうに笑う。

 私は奥付を確認し、初版の発行年が八年前なのを知る。


「なんか意外。ハードカバーの恋愛小説だとは思っていなかった。てっきり、専門用語まみれの専門書かなって。あたしが全然ついていけないタイプの」

「近々、告白しようと思って」

「えっ? マジ?」


 彼女が驚き、そして私も驚いた。

 初めて話す人に振る話題として適切ではない……と思う。すっかり調子が狂っていた。私の顔に動揺が浮かんでいたのだろう、「聞かなかったことにしたほうがいい?」と彼女は善良にも言ってくれた。私は数秒迷い、それから「大丈夫」とぼかした。


「今のところ何の参考にもならない」

「そりゃあ、現実と小説は違うでしょうよ」

「あの、告白した経験ってありますか」

「んん? それって、あたしのを参考にしたいってこと?」

「……よければ」

 

 また彼女がくすくすと笑う。

 次の瞬間、急に真剣な表情になった彼女に私は戸惑う。


「小細工も演出もやめておきなよ。まっすぐ右ストレートで勝負。ずばりこれに限るんだわ。……なーんてね」


 にへらっと顔が緩む。

「柄にもなく真面目なことを言っちゃったー」と言い添えてくる。

 私が「参考にします」と言うと、彼女は照れたように頬を掻いた。そして講師が部屋に入ってくる。私は本をしまう。


「ちなみに相手、どんな人なの」

「えっと、バイト先の子、です」

「ふむふむ。年下なんだ。カッコイイ?」

「声の綺麗な子」

「へぇ……?」


 講義が始まり、会話の幕を下ろした。

 

 隣の彼女は、講義の最後のほうで誰かからの電話を受けて、こそこそと出て行ったきりだった。私に二人分の出席票を託して。

 不正に加担したくないが、断ったらもっと面倒になりそうで、アドバイスのお礼だと自分を納得させて引き受けた。

 そもそもの話、出席点がきちんとあり、出席票で管理している講義のほうが断然少ないのが、私が通う大学の、所属している学部の講義の実態なのだった。

 あ、彼女の名前聞きそびれたな。

 もし、もっと前に私と彼女の運命が違う形で交差していたのなら友達になれたのかもしれない。でもそうだとしたら、多香子さんが押し付けてきた電話番号に連絡しないような生活をしていて、それで私は祀梨と出会わなかったかもしれない。

 そんなふうに考えていくと、私が独りでいたことにも意味や価値を見出せる。強引に。ううん、前向きに。




 その日の午後七時過ぎに野々井さんから着信があった。私は外で夕食を済ませ、今度は部屋の暖房をつけて、とくに何かやる気も起こらず、スマホをいじっていたところだった。

 その連絡は野々井さんの電話を借りた祀梨から、なんて可能性をまず頭に巡らせて電話に出た。即座に耳に入ってきたのは「も、もしもし」という野々井さんのいつも通りの声だった。


「お礼が言いたくて。それで、その、会って話をしたかったんですが、でもやっぱり、ああいうことが会った以上、二人きりで会うべきじゃないってわかっていて。だから、その、お電話で。今、時間いいですか」

「ええと、お礼というのは?」


 後半をスルーして私は訊く。


「私のお願いをきいてくれたことです。どんな形であれ、そしてどんな真相であれ、八尾さんがいなければ私は鹿目さんから聞き出すことはできませんでした」

「それは……」

「あ、あのっ、気づいていますか」

「何をですか」

「いえ、もしかしたら私の錯覚だったのかもしれません」

「……何の話ですか」

「声です」


 やや興奮気味に野々井さんがそう言った。


「祀梨の?」

「そ、そうです。そして笑実理ちゃんの、といいますか。えっと、前に話しましたよね。それに八尾さんも同意してくれました、たしか」

「二人の声が似ているって。どちらも澄み切っていて、透明さがある」


 無論、私は遠野さんの声を知らないのだからあくまで、特徴に対する賛同だった。


「鹿目さんがすべてを話してくれた日、私は二人の声を重ねませんでした。重ねずにいられたんです。それが、えっと、嬉しい……いいえ、そうじゃなくて、つまり……兆しなのかなと」

「きざし?」

「しるしでもいいかもです」

「――――野々井さん自身も前に進むことができる、そう思ったんですね?」


 半分だけ血のつながった妹との短い時間、その日々に後ろ髪を引かれ続けていた彼女が得た変化。月鳴館の成り立ちに沿うなら、それを啓示と呼ぶのもありだろうか。

 

「は、はいっ! まさにそういうことを言いたかったんです。わかっちゃうんですね、八尾さんは。本当に、八尾さんは……素敵な人です」

「まさか。過大評価です」


 私は数カ月通った今でも、祀梨以外の利用者と関わりが皆無だ。けれどもエントランスでバスを待ちながら聞こえてきた話からして、野々井さんたちスタッフの仕事が精神力と忍耐力、それに専門知識と経験がいるものだというのは察していたのだった。


「す、少し妬けます」

「え?」

「八尾さんに大切に想われている鹿目さんのこと。……なんて。安心してください。私、もうあんなことしません。ほ、他にいい人見つけます」


 唐突な決意表明に私は惑いつつも、これで電話を切るのが惜しくなった。


「それなら、僭越ながらアドバイスしても?」

「へっ!? な、なんですか」

「ダメ男、それからダメ女に引っかからないようにしてくださいね。くれぐれも自分を安売りしちゃいけませんし、甘言につられるのも……」

「べつに八尾さんの叔母さんはダメな人ってわけじゃ」

「え? あの、ひょっとしてまだ多香子さんのこと――」

「ち、ちがいますから!」


 そうして私はまた近いうちに、ランチでも食べに行きましょうと提案した。鹿目母が言ってくれたのをそっくり、野々井さんへと私も言ってみた。私と祀梨と野々井さんの三人で、どこかのお店で平和的な時間を過ごせる日がそう遠くないのを願った。

 

 その夜の電話で野々井さんは「ありがとうございます」と何度も口にした。それはあの夜の「ごめんなさい」と比べて私の胸を温かくしていた。

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