第28話

 十二月に入って寒さが増した。今年も残すところ僅かという実感はなかった。祀梨の認定試験の合格通知はいつ届いてもおかしくない。月鳴館宛てに届けられるように手続きをしたとは聞いている。

 やり残したことがいくつかある。そのうちの一つを今日片づけなければならない。彼女がここを出る前に。


「この人が……笑実理の?」


 祀梨の部屋、午前十時。もうすぐ出ていく予定である部屋の主たる彼女と、私、そして野々井さんがそこにいた。


「はい。私が笑実理ちゃんの、その、つまり、姉です」


 絞り出した声は「姉」という部分でようやく芯が通った。私と祀梨はソファに並んで座っているが、野々井さんは勉強机とセットの椅子に腰かけている。


 野々井さんの説得は容易でなかった。一度は断られた同席だ。

 結局、私は半ば強行手段に出た。あの夜の出来事、野々井さんの部屋での一件を月鳴館中に吹聴すると彼女に仄めかしたのだ。「八尾さんはそんなことしません」と即座に返してきた彼女に「あなたに私の何がわかるんですか」と啖呵を切ったのがほんの二日前。

 

 野々井さんは知るべき人だと、私は思う。少なくとも遠野さんの本当の意味で最後の手紙、その存在を知っておくべきだと。そこにあるのは、おそらく遺書では秘められていた彼女の心の奥の奥なのだから。真相を追い求める姉として、それを知らずに過ごすのは酷ではないか。


「ここの職員だよね? こんな近くにそんな人がいただなんて。ななみさんとはどんな関係なの?」

「さっき私から説明したでしょ。野々井さんは私の叔母の知り合いで、私にここの仕事を紹介してくれた人だって」

「ふうん。ねぇ、深い関係じゃないんだよね? 恋人とかそういう」

「ち、ちがいますから!」


 うってかわって大声をあげた野々井さんに、祀梨は機嫌が悪そうなままだった。思えば、最初にこの部屋に来た時も祀梨は彼女に強くあたっていた。職員全般に同様の態度であると、野々井さんが以前話していた気もする。それでいて、利用者の中ではまだましなほうだと。


「こ、これが証拠です。既製品ですが」


 野々井さんがそう言って、ポケットから取り出したのはコットンの巾着袋だった。何かのノベルティみたいだ。安っぽい。祀梨の顔がさらに渋くなる。

 文句の一つが出そうになるその寸前に、野々井さんがその袋を開け、中から細長く四角い何かを出した。

 

 ――――栞?


「……それ、笑実理が使ってたやつ」


 ふらっと、祀梨が立ち上がって野々井さんの傍に寄る。

 オリーブ色に染色されたレザー製で、植物の枝葉が描かれている。そんな栞だった。


「形見で頂いたんです。彼女を忘れたくないから」


 そう言うと野々井さんは、祀梨にその栞を手渡した。


「笑実理ちゃんは、私との待ち合わせの際にはよく本を読んでいて。こ、このブックマーカーを愛用していたんです。中学二年生の秋に、街角の雑貨屋で鹿目さんといっしょに見つけた品だって。そう、ですよね?」

「そう。私のは色違いで、猫の絵が描かれているの。ここには持ってきていないけどね。本を読む気になったのは、落ち着いてからだから」


 祀梨が野々井さんに栞を返す。これはもうあなたのものだと暗に言っている。そしてまたソファに戻った。彼女の表情から警戒心が消えていた。かと言って緩んではいない。そこにあるのは悲哀。野々井さんと同じく。

 私はどんな顔をしているんだろう?


 不意に祀梨が私の顔を見やって、小さく笑った。


「ななみさん、そんな心配そうな顔しないで。ちゃんと自分で言うよ。この人に……笑実理を今も忘れず、大切に想ってくれているお姉さんに」


 私は肯く。それからどうにか微笑んでみせて「そばにいていい?」と訊いた。すると「もちろん」と彼女の笑みが大きくなった。




 野々井さんがあの日以上に取り乱すのを危惧していた私であったが、それは杞憂に終わった。祀梨は遠野さんの手紙を読むことを彼女に許した。それを読み終えた彼女に、祀梨があの日何があったのかを話す。すべてを。

 

 野々井さんは目元を抑えて「そうだったんですね」と口にした。二度、三度。自分に言い聞かせるように。


 それから野々井さんが途切れ途切れに話してくれたことから判明した事実はそう多くない。その一つに、遠野さんから祀梨への告白の後、野々井さんと彼女が月に一度会うことはなくなっていたことがある。それでも電話は数回あったと言う。

 接触のなくなった理由は野々井さん曰く「浮気になるから」だそうで、祀梨が教えてくれたことには、遠野さんは恋人同士になってからは極力、祀梨以外の子と仲良くしなかったらしかった。それを決して祀梨が強いたのではなく彼女自らが課したというのがポイント。つまり、遠野さんは彼女の世界を祀梨でいっぱいにしたがった。

 

 そしてもう一つ、心中決行の際に使用された薬剤と野々井さんとは何の関係もないということがわかった。前職が看護師であるのを明かした彼女に、祀梨がそれとなく訊ねたことだったが、野々井さんは一切の関与を否定した。祀梨は「変なことを聞いてすみません」と素直に謝り、その場の緊張感は散った。


 辿り着いた答え。


 遠野笑実理は世界で一番好きな女の子と二人で死ぬのを夢見て、しかし同時に相手が生きる道を残して、心中計画を実行に移した。


 私たちは、これを三人だけの秘密にしておくと誓いを立てた。遺された人たち、今なお彼女を想う人たちは他にもいる。けれども、この答えを望んでいる人はいない……そんな身勝手な、私たちの結論がそこにあったのだ。

 わかっている。本当は……祀梨は、遠野さんの想いを受け止めてそれをいたずらに他の人に漏らさないと決めたのだ。そしてそれを野々井さんが尊重し、私はそんな二人、つまりは私よりもずっと遠野さんに近しい彼女たちを後押ししたに過ぎない。


「鹿目さん。聞かせて」


 正午過ぎ、本来は休日であった野々井さんが、祀梨の部屋から去るその前に、真っ向からそう口にした。私は、そしてたぶん祀梨も野々井さんが聞きたがっているのが何かを直感した。

 どんな言葉を選ぶかはわからずとも、辿り着く問いかけは……。


「笑実理ちゃんのあの日の選択をあなたは受け入れてくれる?」


 見つめ合う少女と大人の女性。私は固唾を呑んで見守るしかなかった。受け入れるも何も、絶たれた命は甦りはしないのだと、そんな答えを野々井さんは欲していない。

 肯定。きっとそれだ。他の誰もが遠野さんの選んだ道を否定しようとも、共に決行した祀梨だけは……そう願っているからこその問いであるはずだった。


「わたしさ、あの日から新しい春をここで迎えるまでの四か月でね、考えていたのは一つのことだったの。いつ死ぬかってこと」


 そう言ってから、祀梨は私に視線を流した。まるで「ななみさんもよく聞いていてね」と言わんばかりに。そして野々井さんへと再び向き直る。


「笑実理をいつまで独りにしておくつもりなのって自分を責め続けていたんだ。後遺症もさ、軽いものに収まっちゃって、三月の半ばには頭がけっこうはっきりしていたの。それで退学するのを決めて、四月からはここに入るのをお母さんに手配されてた。ああ、じゃあその前に死なないとなぁって思った。どうせ死ぬなら笑実理と思い出の場所がいいなぁってさ。ねぇ、ななみさん。わたしたちが心中をはかった場所って知っている?」


 私は首を横に振った。そういえば聞いていなかった。ただし、祀梨が発見されて手遅れになる前に治療される程度には人の出入りがあるところなのだと察しはつく。たとえば樹海ではないということだ。


「学校だったんだ。一階の空き教室。中庭の花壇がよく見える場所。そこでわたしたち二人は昼休みや放課後にいろいろしていたから。そこが思い出の場所。今になって思うと、誰にも見つからなかったのは奇跡だよね。まぁ、あの日は見つかっちゃったわけだけど。そっちのほうが奇跡なのかも」

「それは……」


 野々井さんが早口で説明した。途中から「口を挟むんじゃなかった」と顔に書いてあった。

 曰く、十一月上旬に生徒会長選挙が終わって、新しく編成された後期生徒会が、生徒会室の片づけをしている最中に、いらない用具を置くための部屋を探していた際、ちょうどその日に少女たちの秘密の逢瀬が行われていたその部屋を訪れたらしい。こうした部分まで野々井さんは事件の後に遠野さんの両親――父親とは血が繋がっている仲だ――から聞き及んでいたのだった。たとえ遺書があっても娘の死に納得なんぞできなかった彼らが、学校側に細かい部分まで事情を聞いていたのだろう。


「でもわたしはもう学校に行けそうになかった。だからね、悩んだ末に……夏に花火をいっしょに観た河川敷なんていいんじゃないかって思ったの。鉄橋から身投げしたら死ねるかなってね。打ち上げ花火とは対照的にさ、沈んでいくのも風情があっていいよね」


 くすっと笑う祀梨に私たちは何も返せない。


「もちろん、実現はしなかった。でもね、行きはしたんだよ。三月の終わり、午前一時。星の綺麗な夜だった。幻想的でさ。街灯たちがすごく輝いていた。わたしの、最期に至る道を眩く照らしているみたいに。わたしはね、堂々とその道を進んで、いよいよ橋の上まで来たの。ねぇ、ななみさん。それにお姉さんも。想像して。いい? ちゃんと、想像してよね。上半身を乗り出し、水面に浮かぶちっぽけな丸、明るいそれが月だとわかったとき、わたしは『ねぇ、見て』って言った。他でもなく笑実理に。勘違いしないで。死者に話しかけたつもりなんてないの。ただ……傍にあの子を感じてさ。でも、現実にはいなくて、その違いっていうか、隔たりをさ、死んでから初めてその夜に理解できた。頭でも心でも。それでわたしは……大きなくしゃみをした。その勢いで、橋から落ちそうになってさ、でも落ちなくて。ああ、死にたくないんだってわかっちゃった。生きたいとまでは思わなくても、死ぬのはまだだってね」


 祀梨は泣かなかった。

 涙を枯らしたわけではない。今はいらないのだ。祀梨は微笑んでいた。それが野々井さんの問いへの答えだった。時間をかけて言葉にする。あとはそれを待つだけ。


「わたしは忘れない」


 その透明な声はしかし耳の奥にまで柔らかく響く。


「わたしはさ、あの日の笑実理に言えなかった。二人で死ぬよりも生きるほうがいいってのを、これでもかって教えてあげられなかった。あの子の愛に溺れずに、たとえば二人で橋の上でお月見ができる未来を話してあげたらよかったんだ。でも後悔してばかりじゃ、また謝られてしまいそう。だから、信じるの。あの子があえて遺した『もういいよ』を信じたいんだ。わたしは……彼女を思い出にして前に進む」


 祀梨が生きること。

 生き続け、幸せになること。それはきっと証明になる。遠野笑実理が未来を見限って死を選んだこと、それが誤りだったのだと。けれど、それはその少女の選択を否定することではない。受け入れたうえでしか、進めないのだから。忘れてしまったのなら、それは証明しようがないのだ。


 今、目の前にいる少女に私が抱くこの想いと向き合う。愛でも恋でも何とでも呼べばいいじゃないか。

 そばにいさせて。そばにいたいから、ずっと寄り添っていたいから。


 私は彼女と生きたい。

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