第18話

 父と娘。両者の表情からその心の内を読み取るのが難しかった。きっとそれが一つの答えで、すなわち複雑な心境というやつなのだ。


 鹿目さんは彼女の父が月鳴館を訪ねてきたことに嬉しがっている様子でもなければ、嫌悪しているふうでもなかった。

いつもどおりの透明な声で彼女は「入りなよ」と立っている彼に声をかける。同行したスタッフが「何かありましたら、呼んでください」と事務的に話し、軽く頭を下げて去っていった。

 この施設における利用者と保護者の面会がどういう形態をとっているのかこれまで知らなかった私だが、こうもあっさり、特に制限がないのは何だか拍子抜けだった。


「あの、私は……」


 私は立ち上がって自己紹介しようとする。


「勉強を見てくれている学生さんですよね。はじめまして。祀梨の父です」


 穏やかな声。その表情もいくらか柔らかくなった。私は慌てて頭を下げて「八尾です。はじめまして」と言った。


 鹿目父は四十代後半と思しき、肉付きのいい男性だ。中肉中背と言ってしまうとあれだが、ひょろりとはしていない。顔のパーツについては、強いて言えば鼻筋が鹿目さんと似通っている。耳回りも襟足もきれいに刈り上げられている髪型。


「祀梨の勉強の進捗を聞きたいので、このまま同席してください」

「は、はい」

「それが用件なの?」

「それも、だよ。一番は、どんな様子なのか気になってしょうがないからお母さんに内緒で来たんだ。どうにか時間作ってね。なんの予告もなしでごめんな」

「お母さん、いい顔しないと思う」

「元気そうにしていたって報告すれば、ほっとしてくれるさ」

「どうかな。……事後報告はするんだね。内緒で来たくせに」

「隠し事をすると怖いからさ」

「それはそう」


 鹿目さんがくすっと笑い、それから小さく溜息をついた。


 部屋に数歩踏み込みはしたが、立ちっぱなしの鹿目父に私は「よかったら」と着席を促した。勉強机の椅子、いつも鹿目さんが座ってるものだ。鹿目さんが彼にソファを勧めてくれればいいのだが、そうはしてくれない。彼は「どうも」と素直に椅子に座った。


「どうですか、祀梨は。認定試験は十一月にあるんですよね。合格できそうですか」

「ええ、既に過去問も解いてもらっていますがこの分ならどの教科も一度の受験で合格できる見込みが大いにあります」

「教え方が上手いからだね。誇っていいよ」

「……鹿目さんが宿題をきちんとこなしてくれるからこそです」

「他にやることがないから、ついつい。わたし、根が真面目だもん」

「なぁ、祀梨。合格できたその先はどう考えているんだ」


 鹿目さんは父親からの質問に欠伸を噛み殺して「どうって?」と応じた。かなりリラックスした態度となった彼女に対し、彼の側は声に緊張が帯びる。


「お父さんとしてはだな、大学受験を本気で考えているようなら、お母さんに相談して家に戻るべきだと思っている」

「ねぇ、お母さんが許さないとわたしはここから出れないってこと?」


 私のほうをチラッと鹿目さんが見て言う。それに倣うかのように鹿目父もこちらに目配せをよこしてきた。

 やはり何か適当な理由を作って席を外そうか、そう思った矢先に「いいよ、先生になら知られても。問題ないから」と鹿目さんが笑った。


「前にも話したとおりだよ、祀梨。この件については……お母さんに委ねてある。そのことでお前がお父さんを責める気持ちもわかるし、開き直るつもりもない。ただ……お母さんもお前の未来を考えてはいるんだ」

「ふうん。たとえば、次代の指導者様のお付きとか?」


 私は思わず鹿目さんの顔をまじまじと見つめた。冗談半分、そう顔に書いてあったが、けれどそれがまるっきり冗談でもないのが鹿目父の反応でわかってしまった。


「困惑している先生のために今日はわたしが教えてあげるね。実は、わたしのお母さんはさ、とあるマイナー宗教団体の管理職で幹部候補なの」

「それって……ここ、月鳴館の運営母体になっている?」

「ご名答。でしょ、お父さん」

「あ、ああ。ええと……。私はそちらとほとんど関わっていないんです。当然、入信を勧められましたが断りました。かなり昔に一度。結婚前、付き合い始めてすぐのことです。妻は今なおそれでかまわないというスタンスで。女性優遇……という言い方が適切かわかりませんが、もとより男性比率の高くない宗教だそうです」


 鹿目父が私に丁寧な口調で解説してくれる。

 ここで働きはじめる前に、その宗教についてはネットで調べていた私からすると、組織の全貌は知らずとも、女性を引き立てているのは知っていた。この月鳴館の利用者に若い女性が多いのも無関係とは言い難いだろう。


「娘であるわたしは、お父さんと違って知らんぷりではいられないってわけ。ところが、その娘が禁忌を犯す寸前までいったから、周りの人たちからは顰蹙ひんしゅくバーゲンセール。まぁ、べつに宗教上で自殺が強く禁じられていなかったとしても、世間体はよくないよね。お母さんに、それにお父さんにも肩身の狭い思いをさせちゃった」


 しかも一人死んでいる。私はそうは言わなかったが、苦笑いさえ浮かべられなかった。ここまでの話を繋げると、鹿目母は心中未遂をした娘を、所属している宗教団体の関係施設に隔離しているという構図が描ける。

 ここの立地と施設内ルール(スマホの使用禁止など)を考慮すると、鹿目さんの状態を軟禁と捉えることもできそうだ。

 ただし、それは鹿目さん自身が病んでいない、健康で健全な状態であったならだ。鹿目母のとっている対応を非難するのはお門違いなのかもしれない。たとえ心がそこまで病んでいないにせよ、生き残った娘を世間の好奇の目から離すための措置と考えると何らおかしくない。それができる伝手があったから利用した、そういうことだろう。


「一年間。妻はまずそう提案しました。ほとぼりが冷めるまで、一年間を祀梨にどこか遠くで過ごしてもらう。そのほうがいいのだと。でも、そんなのはまるで犯罪者が雲隠れするようで私としては嫌でした。……精神的にまいっている一人娘をどうして自分たち親元から離すのか。最悪の結果を招くんじゃないかとも危惧したんです」

「ようはさ、心中を遅刻してでもやり遂げるってのを心配したんだよね」


 平然と鹿目さんが言い、その黒髪を指で弄り始める。


「それにお母さんは個人的に、わたしの恋愛の在り方を許さなかった。ううん、今も許していない」

「在り方?」


 聞き返す私に「そう」と鹿目さんは肯く。


「たとえばさ、お母さんは同性婚の法整備に反対派なんだ。はっきりと聞いた試しはないけど、あの話しぶりだと、過去になんか嫌なことがあったんだよ。友達だと思っていた女の子に肉体関係を迫られちゃったみたいなやつ。あるいはもっとまずいのがさ。ねぇ、お父さんは何か知っている?」

「いや……」

「お母さんはさ、病気だと思っているんだよ、レズビアンやゲイなんてみんな病人だって。たぶん悪気はないんじゃないかな。でも可哀想とは思わずに忌避している。ねぇ、そんな感じしない?」


 あけすけに話し始めた娘に戸惑いを隠せない父親だった。私もまた成り行きを見守るしかない。


「わたしはさ、べつに差別反対を掲げて運動したり、それこそどこかの団体に入って活動したりは考えていないよ? ちっともね」


 はらり、はらりと髪の毛が数本落ちる。鹿目さんの髪は伸びきっている。私が彼女に出会う前、七月中旬あたりにその髪を訪問美容師に梳いてもらったと聞いた。

 でも私が来てからはずっとそのまま自然体だ。彼女がばっさりとその長い髪を短くしたとして、それが彼女自身の自然になるにはどれだけ時間がかかるだろう。


「……病気だなんて思っていないよ。誰をどんなふうに好きになっても、祀梨はお父さんたちの大事な娘だ」


 感動的な台詞だった。

 でも彼は椅子から立ち上がることができずに、つまりは娘を抱きしめることなく、その場で口にするしかできていなかった。

 鹿目さんは「そっか」と短く返して微笑んだ。それは父親からの言葉に喜んだり、感激したりしている笑みではなかった。慈愛や諦念が込められている表情だった。




 昼休憩の時間となり、鹿目さんは一人でふらりと部屋を出て利用者専用の食堂へと去ってしまった。鹿目父が「よければ、二人で少しお話できますか」と腰を低くして頼んできて私はそれに応じることにした。


 面談室の一つを借りた。殺風景な四角い部屋だ。物言わぬスチール机とパイプ椅子。もしかすると、こうした部屋が通常、面会に使われるのかもしれない。


「祀梨は迷惑かけていませんか?」


 鹿目父は椅子に座るとそう切り出した。


「迷惑だなんてそんな。多少、皮肉屋なところはありますが、年相応の女の子という印象です。ただ……ここでの暮らしには、退屈しているみたいですね。でも、だからといって他者危害を及ぼす行動をとってはいません。少なくとも、私が見ている限りでは」

「そうですか」


 いくらか安堵した様子で彼は「ふぅ」と息をついた。


「実はあの子の部屋に行く前に、別の職員にも軽く聞いたんです。そうしたら『簡単な手続き一つで退館できますよ』と言われて」

「去る者追わず、ということですか?」

「ええ。来るもの拒まずかどうかはわかりませんが。その職員は祀梨が、というより妻を、ひょっとすると宗教団体の件も知らないのかもしれません」

「知っている人だったら? 退館させてくれないのですか」


 私の問いかけに、彼は机の上で肘をついて両手を組み、周囲を憚った声で話し始めた。とはいえ部屋には二人だけだ。


「憶測で物を言うのは嫌ですが、この施設から例の宗教団体へと人材を流している可能性があるんです。精神的に安定した人間よりは不安定な人間の方が入信を勧めやすい。そうは思いませんか」

「それは……。すみません、私にはなんとも。そういった事実が確認できていない限りは、お父様自身がおっしゃったように憶測の域を出ないかと」


 鹿目父は黙り込んで私を見つめた。

 一瞬、怒らせてしまったのかと不安になったが、どうにもそうではない。見定めている目つきだ。けれど下心は微塵も感じられない。娘である鹿目さんのために、評価を、そして何か判断をこの場で下そうとしている。そんな気配。


「八尾さんは、しっかりされていますね。私の二十歳の頃とは大違いだ」

「えっと……あ、ありがとうございます」

「よければ、協力してもらえないだろうか」


 それまでと同様に丁寧ではあるけれど、でも芯のある調子で彼が言う。押し黙った私に彼は続ける。


「祀梨はここに一年もいるべきじゃない。あの子を連れ出すのに力を貸してくれませんか?」

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