第17話

 母が死に、遺された側の人間となって早二年半が経過しているが母との最後の会話がどういったものであったか、それを忘れることはできない。

 それは電話だった。十分に満たない短いやりとり。

 三月下旬の夕暮れ時だ。私が引っ越す一週間前。あの電話がなければ。私があんなどうでもいいことを頼まなければ。母は事故に合わなかった。死ぬことはなかった。

 私が間接的に殺した。

 娘である私の些細なお願いが母である彼女を死に導いてしまった。

 遺言。母からのそんなものはない。結果として一番最後に耳にした言葉があるだけ。あの日あの時の母は、もう二度と娘や夫の顔を見ることが叶わないとほんの一瞬でも思わなかっただろう。


 

 ※ ※ ※



「遺書は……笑実理ちゃんが書いたものだけがありました」


 野々井さんは重そうに口を開いた。


「鹿目さんは何も残していなかったということですか」

「サインはあったんです。遺書の終わりに、二人分のサインが。それに遺書の冒頭で、鹿目さんの分も代わりに自分が書くのだと、笑実理ちゃん自身が書いています。二人でばらばらに書くよりも、二人でいっしょに考えて、それを自分がしたためていくのだと」


 私は鹿目さんの筆跡を思い出す。特別、整ってもいなければ崩れてもいないありふれた字は、彼女の人柄を汲み取るには物足りない。


「実物をご覧に?」

「はい。お願いして、読ませてもらったんです」


 いったい誰に。

 私はそう思いつつも、より気になっている点を先に訊く。


「理由は書かれていたんですよね? 十五、六歳の少女たちが死を選ぶ理由が。なければ自殺者の遺書としては……おかしいです」

「もちろん、書いてありました。ですが、誰もが同情して心を痛める動機ではありません。むしろ納得がいかない、納得したくないものです。少なくとも私にとってはそうでした」

「教えてください」

「――――綺麗なままで死にたいから。身体も心も、何もかも。一番綺麗な時に一番好きな人と二人で。それが一番の幸福な結末だと。二人は信じたんです」


 なんて陳腐。

 私は甘すぎる飲み物を啜ったが、それを吐きだしてしまいたい気持ちになった。綺麗なままで死にたいって、なによそれは。そういうのは、せめて皺くちゃになってから言いなさいよ、体も心も全部がズタボロになってから「これ以上は」って本気で望めばいいのよ。

 浅はかだ。愚かだと言っていい。どうしようもなく幼く、未来から目を背けたやり方だ。私だってわかりたくない。どうしてまだ二十歳にも満たない少女が自分たちの最高到達点を勝手に決めるんだ。

 

 甘い口内。私は唇をぎゅっと噛んでいた。

 どうして周りの大人が彼女たちの陶酔に気づいて目を覚ましてやれなかったんだ。心中未遂、そう鹿目さん自身が口にしたときから、その行為の目的は手短に言うなら恋愛成就だと理解していたつもりだった。それより深くは考えないようにしていた。でも、こうして第三者から告げられ、そこに少女性と呼ぶに相応しい脆さを感じ取ると、行き場のないもやもやとした感情が自分の中で膨れ上がり続ける。


「文面には笑実理ちゃんたちが恋仲であったのが記されていました。でも暗い未来を仄めかす内容は書かれていなかったんです」

「結ばれるのを諦めないといけない状況に追い込まれたゆえの心中ではない。そういうことですよね。だから、なんていうか変な言い方ですけれど……古典的な心中とは違う」


 私たちはしばし黙り合った。野々井さんが私の表情に何を読みとったのか、それはわからないが、とにかく話を中断するのを許してくれた。

 それから私たち二人のカップが空となり、私は気になっていることを一つずつ処理していくことにした。聞くべきことを聞こう。


「その遺書を誰に頼んで読ませてもらったのですか」

「笑実理ちゃんのお母様です」

「遠野さんのご家族と親交が?」

「えっと、笑実理ちゃんのお父さんはその……私の父にもあたる人なんです。生物学上は。かつては戸籍上もそうでした」


 異母姉妹。

 野々井さんと遠野さんが。私は二人の顔つきにそこまでの類似を認めることができなかった。親が異なるきょうだいに関わるのは初めてだった。それは私にとってフィクションの中に生きる登場人物だったのだ。離婚と再婚。そんなのごく普通にあるのに。


「あの……八尾さん。い、今は遺書の話に集中させてください。私の、いえ、私たちの話はまた今度に」


 いつの間にか野々井さんが私の手を掴んでいた。テーブル上に、ほとんど無意識に放り出していた私の左手に彼女が触れていたのだ。私は「わかりました」と答えた。すると、彼女の手が離れる。この人の腕、こんなに細かったかな。


「それで……遺書にどこか怪しいところがあったのですか。鹿目さんが死を望んでいないような、記述が」

「あ、あからさまにそんな言葉が連ねてはありませんでした。でも、心中するのを決めたのは笑実理ちゃんだとわざわざ記してあって、そしてもし仮にどちらかが生き残ってしまったら、どうかその子を責めないでほしいとも遺族にあてていたんです」

「最初からどちらかが生き残る可能性を二人が残していたと?」

「はい、きっと。確実に死ぬことのできる手段を選ばなかったのは、なるべく痛みと傷を避けたかったから。それが前提ですよね。でも、心中なんです。揃って死ぬために、ぜったいに方法を模索しませんか?」


 薬を飲んだうえで二人してお風呂に浸かって溺死を図る方法もあっただろうか。出来損ないの人魚みたいに。他にも、いくらでもありそうだ。人なんて簡単に死ぬ。それは私も知っている。

 野々井さんが言うように、計画段階で、どちらかが生き残る可能性があったのを書面に残しているのは不自然ではある。遠野さんは鹿目さんが死を免れることがわかっていた、もしかしてそれを許していた? 

 いや、しかし……。


「遠野さんたちの賭けだったのでは」

「どういう意味ですか」

「二人ともが生き残る可能性、それがゼロではないと信じていたんじゃないかって。もしもそうなったら二人で支え合って生きるつもりだった。二人分の生死、未来を神様や運命というのに委ねた。そうだとは考えられませんか?」


 野々井さんは小さく、ふるふると首を横に振った。

 そして伏し目がちで私に言う。


「そうだったら、そう遺書に書くと思いませんか。そうは書かれていませんでした。二人揃って生き残ったら、とは書かれていなかったんですよ。どちらか一方が残ったらと書いていたのに」


 震えた声は低く、力が込められていた。

 どうやら私は的外れと思しき意見を口にしてしまったようだ。

 二人は賭けに負けた、暗にそう言ってしまったのだと悔やんだ。野々井さんの目が潤んでいる。今日は聞くことがかなわないだろうが、彼女と生前の遠野さんが異母姉妹として何らかの交流があったのは想像できる。一切の交流がなかった妹の死を調査して、私に鹿目さんのことを頼むのは異様が過ぎるからだ。


「か、勘違いしないでくださいね」


 目元を拭った野々井さんが無理に口角を上げて私に言う。


「私は……鹿目さんが犯人だと思っているわけじゃないですから。あの子が笑実理ちゃんに自殺を教唆したと考えてはいません。だって、そんなのは、ええ、そんなのって……惨すぎます。あの子は鹿目さんを愛していたんです、間違いなく。誰よりも、死んだ今でも。そう思いませんか」


 野々井さんの頬を伝う一筋の涙を目にしながら、私は曖昧な返事しかよこせなかった。




 結局は本人に訊くしかない。 

 二人のうちの生き残った一人、鹿目祀梨その人に。

 帰り際に野々井さんに「お願いします」と頭を下げられた私は「はい」と、か細い声を返した。そして彼女の頭が上がりきる前に逃げるようにして去ってしまったのだった。


 どうして私が、と今更ながら思う自分が嫌になる。

 あの子の秘密。むしろ、あの子たちの秘密。彼女たちの過去とは無関係の私がそれを解き明かせるのだろうか。

 

 鹿目さんは彼女自身を知ってほしい、関心を持ってほしいと私に望んだ。そして近頃になって私をもっと知りたいと言い出した。

 私たちは友達ではないけれど、でも先生と生徒と言うには妙な空気が私たちの間に流れつつある。生ぬるく、気怠い、虚ろな繋がりができているのだ。




 十月に入ると、私が通っている大学の講義が再開される。当然、これまでのように週に五日から六日、早朝から夕方前にかけて月鳴館で過ごすことはできない。

 自分のすべてを投げ捨てて鹿目さんの傍にいたいと思いはしないのだ。そうするよりは、彼女を連れ出してしまうほうが簡単だろう。前にあの子自身が気まぐれに訊いたことを思い出す。それから野々井さんが話したことも。

 鹿目さんはいつまであの場所にいるのだろう? 彼女の傷はどれだけ深く、今、どの程度癒えているのか。それは誰が決めるのか。答えの出ない問いばかり頭に浮かんではそれから逃れようとする私だった。


「そっか。ハチ先生、忙しくなるんだね」


 九月末に、月鳴館を訪れた私は鹿目さんに十月以降の学習計画を説明した。彼女はいつものソファで仰向けに寝転がりながら私が作成してプリントアウトしてきたスケジュール表を眺めている。


「それなりにね。それでも週に三日は通う予定よ。あなたさえ素直に学習に取り組んでくれるなら、週に一度でもいいと思っている」

「ねぇ、これって大学受験……一年以上先の共通テストも視野に入れての計画だよね。それっぽい書き方してあるから」

「ええ、そうよ」


 彼女の面倒を見始めた八月上旬に彼女の志望校の聞き取りを行った際には「四年制の国公立大」と漠然と答えがなされた。もし具体的に決まったり、変更があったりすればすぐに言ってほしいとも話していたのだった。


「ふうん。どうしよっかな」

「大学に行きたいんじゃなかったの?」

「眉間に皺を寄せないでよ。大丈夫、そこは変わっていないって。どうしてもここに行きたいんだっていうところは相変わらずないけどね。あーあ、先生がいかに大学がいい場所なのか、普段から教えてくれていたらなー」

「……独りでいても、とやかく言われない。自由気ままよ」

「いやいや、それさ、たぶん陰で言われているんじゃないかな。あの子、美人だけれどいつもぼっちだなーみたいなさ。よし、ちょっと声かけて、食っちまおうかって」

「あなたが外に出ていないから知らないだけで、大学には、いえ、世間には私より可愛くて綺麗な女の子が、それはもうたくさんいるの。千ダースじゃ足りないぐらいにね。私に興味を持つ奇特な輩はいないのよ」

「まぁ、根暗だもんね。あ、でも髪色は黒のほうが似合っているよ。もう染め直すのやめたほうがいい感じ。ね? そうしなよ」

「それについては――――」


 そのとき、ノックの音がした。

 

 この二カ月間、私と鹿目さんが二人でいるときに一度もなかった音だ。誰も彼女を訪ねて来なかったから。私はまず野々井さんかと思った。彼女がしびれを切らして、直接、鹿目さんに聞きたいことを聞きに来たのだと。あの時、頭を深々と下げた彼女の前から去った私であるが、実は顔を上げた彼女はその背中を見て、頼るのをやめにしたかもしれない。そんな想像。

 

 しかし「鹿目さん? 入りますよ」との声は野々井さんのものではなかった。知らない女性の声。ドアが開かれて立っていたのは見覚えがあり、名前は知らない女性スタッフ。

 そしてその隣にチェックシャツにデニム姿の男性がいた。こちらも知らない人だ。でも鹿目さんは知っていたようで、身体を起こして目をパチパチとさせて呟いた。


「……お父さん」

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