地面に立てた筒から矢を取り出して、弓につがえる。

 遠くに置かれている的を見据えて狙いを定め、力を込めて弦を引き絞る。指を離すと同時に矢は風を切って飛び、吸い込まれるようにして的の中心へ突き立った。

「すごいすごい! 鈴姉、さすが!」

 背後からすかさず聞こえてきたのは、まるで自分のことのように喜ぶ無邪気な声だ。飾りのない真っ直ぐな褒め言葉に、鈴音の頬が思わずゆるむ。

(照れるなあ、もう)

 手にした弓を下げながら振り返ると、縁側に座っていた声の主が、こちらに向かって嬉しそうに手を振った。

 まだ幼さの残る小柄な少女である。背中を覆う豊かな黒髪に、赤を基調として重ねられた華やかな衣。少し丈が余っているものの、袖や裾に施された豪奢な刺繍が、少女の身分の高さを表していた。

「ねえねえ鈴姉、もう一回やってみせて!」

 言葉遣いの雑さが玉に瑕だが、本人に正す気はまったくないらしい。

「また? いいけどこれで三回目よ。見てるだけなんて小景こかげのほうが退屈でしょう」

「ぜーんぜん。だって弓を使ってるときの鈴姉、かっこいいんだもん」

 そう言って見せる笑顔は、頭上の空と同じくらい晴れやかだ。鈴音は苦笑とともに小さく息をついてから、再び矢筒に手を伸ばした。

 住んでいた村を突然襲われ、鈴音が道の半ばで行き倒れていたところを助けられてから二年が経つ。

 あのとき馬に乗って鈴音の前に現れたのは、緋浦ひうらの国という大きな国の長――光繁が率いる一行だった。戦帰りでたまたまあの山林を通りすがったのだと、あとになってから聞いた。運がよかったとしか言いようがない。

 光繁は鈴音の命を救ってくれただけでなく、自らの館に彼女が住むための部屋まで用意してくれた。十四歳を迎えた今、鈴音は緋浦の国の一員として、なんの不自由もない平穏な日々を過ごしている。

 放った矢を今度も見事に的中させると、縁側で見ていた少女がたちまち手を叩いて喜んだ。数刻前から同じやり取りの繰り返しだ。そろそろ腕が痛い。

「もう一回もう一回!」

「はいはい。こうなったらいくらでもつき合うわよ」

 呆れた口調で鈴音は答えたが、いやな気持ちなどひとつもなかった。むしろこういう他愛ない会話を交わすのが心地よくて、大切な時間だと思っていた。

 館に住まわせてもらう上で鈴音が光繁から与えられた条件は、ふたつ年下である少女の遊び相手になることだった。

 少女の名は小景。見た目は小さくて可愛らしいが、〈事読ことよみ〉と呼ばれる珍しい一族の血を引く人間だ。その証として、黒目黒髪が当たり前とされる世の中で、小景の瞳はまるで鮮やかな夏空のように青い。

 事読みには人外の力を操る術があり、国長と並ぶほどの地位を持つ。その遊び相手役ということで、鈴音の受けている待遇もそれなりに厚いものだ。毎日清潔な衣を着させてもらい、食事も十分に与えられ、柔らかな寝具で眠ることができる。

 本当に何から何までもらってばかりで、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。遊び相手と言っても、やっていることといえば小景とお喋りをしたり、戯れ合ったりしているだけなのに。

 的当て遊びは結局、すべての矢が尽きるまで続いた。

 ようやっと弓を手放すことを許されて、鈴音は小景のもとへ戻っていく。首のうしろで束ねられた髪が、一歩を踏みだすたびに背中で跳ねた。

「やっぱり鈴姉はすごいね。ほとんど当てちゃうんだもん」

 縁側で足をぶらぶらさせながら、小景が尊敬の眼差しを見せる。こそばゆい気持ちを隠すように、鈴音は肩をすくめた。

「ありがとう。でも、何本かは外しちゃったわ。これじゃあ戦に連れていってもらうのはまだ無理かも」

「え……?」

 ちょうどそのとき、館を囲う柵の向こうからざわざわと人の声が聞こえてきた。隣国との戦に出ていた者たちが帰ってきたのだろう。

 今回の戦は、国長の光繁も出陣するほどの大規模な争いであったため、館の人間は帰還した彼らを迎えるためにほとんどが出払っている。鈴音ももちろん外に出たい気持ちはあったけれど、血のしきたりで館を離れられない小景に付き添って、こうして留守番をしているのだった。

「みんなと会うのもひと月ぶりかあ。楽しみね」

 二年も緋浦で暮らしてきたのだ。光繁はもちろんのこと、彼に従う武者の中にも、今では鈴音と顔馴染みの者がたくさんいる。

 同意を得られると思って話を振った鈴音だったが、返ってきたのは沈黙だけだった。

「小景?」

「……鈴姉は、戦に出たいの?」

 先ほどまでの太陽のような笑顔を曇らせて、小景は上目遣いにこちらを見ている。首からさげた飾り石を握り締めているのは、不安を感じているときに現れる彼女の癖だ。

 心配をしてくれているのだろう。けれど、たとえ優しい小景を安心させるためでも、自分の心に嘘はつけない。

「うん。出たい。いつも光繁さまには駄目だって言われちゃうけど」

 命を救われたあのときから、鈴音はずっと考えていた。

 緋浦の国のために、役に立ちたい。光繁から受けた恩を少しでも返したい。そのために手っ取り早いのは、戦に参加することだけだと。

 単純で浅はかな考えだと理解はしている。だがそれくらいしなければ、自分がこの場所にいる意味が薄れていってしまう気がしてならないのだ。

 助けられて、与えられて、流されるままに過ごす幸せな日々。緋浦の人々はいつも優しくしてくれるが、そこには多分、身寄りのない鈴音への同情も含まれているだろう。

 しっかりとした居場所を得るためには、行動を起こして役立つことを見せるしかない。

「やだな。鈴姉が傷ついたり危ない目に合ったりするところ、見たくないよ」

 鈴音は泣きそうな声を出す小景の隣に腰を降ろすと、そっと身体を寄せて言った。

「小景。わたしね、事読みの役目を頑張ってる小景のこと、すごいと思ってる。わたしも小景みたいにみんなの役に立ちたいの」

 事読みとは、国の要だ。

 人ながらにして天上に住まう神と意思を交わし、先に起こる出来事を読み解くという、特別な力を持つ。戦で優位に立てるかどうかは、国長が従えている事読みの腕にかかっている。そう断言できるほど、戦乱の続く今の世にはなくてはならない存在であった。

 事読みの力は血で受け継がれる。前任であった千織ちおりという女が数年前に他界したあとは、その娘である小景が緋浦の国の命運を担う務めを果たしてきた。

 立派だな、と鈴音は心から思う。小さな背中に、乗りきらないほどの大きな責任を負っているのだから。

「そんなことない。わたし、お母さんみたいに上手く〈御伺おうかがい〉できないし」

 小景は未だに青い瞳を伏せたままだ。母親の形見であるという首飾りを、すがりつくようにして握り続けている。

 せめてもの励ましになればと願いつつ、鈴音は小景の手に優しく触れた。

「大丈夫。小景がいつも最善を尽くしてくれてること、わたしも緋浦のみんなもちゃんと知ってるんだから」

「うん……」

 ようやく顔を上げた小景が、ぎこちない笑みを浮かべたときのことだった。

「なんだなんだ、そんなに見つめ合っちまって。おまえら本当に仲がいいよなあ」

 快活な声がその場に割って入ってくる。途端に小景がぱっと表情を輝かせ、縁側から勢いをつけて飛び降りた。

 庭の外れに立つ葉桜の陰から姿を現したのは、ふたりの人物だった。

 まずは恰幅のいい大柄な男。声をかけてきたのは彼だ。髪は一応結っているものの、後れ毛があちこちに跳ね、顎は無精髭に覆われている。

 続いて現れたのは、鈴音とあまり歳の変わらない細身の少年だ。頑丈そうな鎧をまとう大柄の男とは違って、彼の武装は胴と脚だけを覆う簡素なものだった。それでも危なげなく思えるのは、吊り上がった目が俊敏な猫を連想させるからだろうか。

時継ときつぐおじさん! せん兄も、おかえり!」

 喜々として駆け寄った小景を、時継と呼ばれた大男がひょいと抱き上げる。

「わはは、小景はそんなに俺たちに会いたかったのか? 確かに長いこと留守にしちまってたが」

「そうだよ、心配してたんだからね」

 笑い合う姿が親子のようで微笑ましい。暗くなりかけていた場が一気に明るくなって、鈴音はほっと胸を撫で下ろす。

 しかし、せっかく生まれた和やかな雰囲気は、すぐに吹き飛ぶこととなった。

「楽しそうで何よりなことだな」

 聞こえてきたのは皮肉の込められた鋭い声。弾かれたように視線を向けると、ひときわ立派な鎧に身を包んだ人物が、背後に多くの武者を従えながら歩いてくるところだった。

 三十過ぎという若さにしてこの緋浦の国を統べる男、光繁だ。豪奢な兜をゆったりとした動作で脱ぐと、凜々しい切れ長の目もとがあらわになる。

 無言を貫いていた少年とともに鈴音がその場に平伏し、抱き上げられていた小景が慌てて地面へ降りる中、時継だけがなんの遠慮もなく口をひらいた。

「よお光繁。ひさびさの我が家だってのに辛気くせえ顔してんなあ。おまえもだぞ、閃。もうちっと嬉しそうにできねえのかよ」

 閃と呼ばれた少年の返事はない。代わりに光繁が苦々しく言葉を返す。

「叔父上が脳天気なだけだろう。まったく、何故こんなときに笑っていられるのだ」

「ぐちぐち言うなって。生きて帰ってこられたんだぜ。それだけで十分だろ」

「だからそういうところが……。もうよい」

 光繁は話を断ち切るように首を振った。これ以上続けても意味がないと判断したのだろう。悩ましげなため息をひとつ漏らしたあとで、彼は短く言い放つ。

「小景、話がある。ともに来い」

「は、はい!」

 大股で去っていく光繁のあとを、小景がいそいそと追いかけた。足音が遠ざかっていくのをしばらく待ってから、鈴音はゆっくりと立ち上がる。

「なんだか光繁さま、ご機嫌が悪かった?」

 ひとり言のように鈴音がつぶやくと、時継がこともなげな顔をして答えた。

「そりゃあなあ。負けちまったんだから」

「え」

 予想もしなかった理由に一瞬言葉を失った。本当なのかと聞き返す前に、ずっと黙っていた閃が横から怒ったように口をはさんでくる。

「まだ負けてない。引き分けです」

「いや、確かに大将首を捕られたわけじゃないけどよ。いいところで天候が崩れてくれたから、被害が少なくて済んだだけだ。あのまま続けてなら危なかった。だろ?」

 念を押されるようにそう言われ、閃は悔しげに顔をしかめた。わずかに震えるその身体から、敵に対する激しい怒りや憎しみがにじみ出ているような気がして、鈴音は息を飲んだ。重い雰囲気を散らすべく、どうにか別の話題を探す。

「ええと……相手の国って確か、湯白ゆしろ?」

「おうよ。思ってたよりも手こずっちまった」

 大海に浮かぶ三日月型の島――阿木津あきつには、大きく分けて五つの国が存在している。

 北で小競り合いを続ける黄瀬きせの国と夜河よがの国。南方を支配する草渦くさかの国。そして中央を奪い合っているのが、緋浦の国と湯白の国だ。

 湯白は国として成立してからの歴史が長く、二百年ほど前には阿木津全土を統一していたこともある。しかし、ここ何十年かでゆるやかに勢いを失い始めて、今では緋浦のほうが優位に立っている状況だった。

「今回の戦は小景の〈御伺い〉にも問題なかったようだし、もう少し楽に終わると踏んでたんだがなあ。まるで、俺たちよりもずっと先を読んでるみてえだった」

「それって……」

 国同士の争いは事読みの腕比べでもある。先を見通す力が相手よりも勝っていれば、戦の有利に繋がる。

 つまり今回は、湯白の事読みのほうが小景よりも上手だったということだ。

「まあ、まだ確信があるわけじゃないんだがよ。とりあえず、これから小景とみっちり反省会が始まるのは間違いないだろ」

 光繁たちが去っていった方向を見つめ、時継はため息混じりにそう言った。同じように視線を動かしながら、鈴音はぎゅっと眉を寄せる。小景が心配だった。今頃、光繁に厳しい言葉を浴びせられているかもしれない。

「わたし、見てくる」

 居ても立ってもいられなくなって、鈴音は駆け出した。

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