雲のような夢を見た

弥生 菜未

僕の心に晴れ間はない

 将来の夢を追っているときは、時々ふわついた感覚を覚える。

 これから〇〇大学に進学して、それから××会社に就職して、結婚はせずに、自分の得た職と生涯向き合い続ける。だからそのために勉強して、必死に成績にしがみついて、誰にも負けないようにしなければならない。この激しい競争社会で生き抜くことが最低条件で、その上で功績を残していくことが立派な人間の証。そう教え込まれ、そう思いながらも、周囲に置いて行かれているような、危機感と焦燥感を含んだ“ふわついた感覚”で今日という一日を歩んでいる。


 だが、やればできると思っている。実際、高校入試の社会で百点を取ったのだ。簡単ではなかった。だが苦手だと自覚した上で、努力を重ね、それが高校入試という場で身となったのだ。

 きっと――――きっと、やればできる。

 そう思っているのに定期試験前には、勉強に対する"拒絶反応"が僕の決意を妨げる。


 勉強ができない。それは"頭が悪い"という意味ではない。

 家で勉強ができない。家に帰った途端、スイッチが切れたように勉強のことを忘れスマホを触っている。試験前になると、急にカラオケに行きたくなったり、急にゲームがしたくなったり、急に掃除を始めたりする。普段は押さえられる衝動が抑えられなくなる。

 音楽をかけようとしてスマホを触り始めるとそれから数時間はスマホから手が離せない。音楽をかけるという本来の目的を忘れ、インターネットという情報の群れに呑み込まれていた。

 夜の九時を回った頃、眠気がスマホから意識を反らし、漸く僕はペンを持ち始める。


 試験前になって急に込み上げる勉強への拒絶反応は一体何なのだろうか。

 三年生になり、受験という言葉から逃れられなくなって、僕は僕の首を静かに緩やかに絞め始めた。


 ◇


 英文を追っていた。声に出して単語を発音していく。せめて一語覚えなければ。

 音楽なんてかけない。動画サイトを開いたら離れられなくなるのはわかりきっている。

 どうして勉強したくないのか、その気持ちを突き詰めていったら勉強との付き合い方を変えられるだろうか。勉強を遊びだと捉えて楽しめたら、この拒否感は消え去るだろうか。

 否、考えたくもなかった。理由は分からない。勉強のことを考えるだけで胸中に渦巻く負の感情が膨れ上がる。駄々っ子のように床に寝転がりジタバタ暴れたい衝動に駆られる。

 英語の教科書を音読するのは、ただ無心で取り組めると思ったからだ。普段小説を読むように、教科書を読むのならできるのではないか、と思ったから。続けられるのではないか、と思ったからだ。

 しかしその期待も虚しく、次の日には家に教科書を持って帰る億劫さが僕の心をかき乱す。


 母が言った。やることをやってから遊びなさい、と。

 父が言った。後悔してからでは遅い、と。

 分かってる。勉強をしたくないと思うのは、両親にとっては単なる僕の我が儘に見えるかもしれない。でも違うんだ。

 どうしてか。いつの日からか。ペンを握ると震えが止まらなくなるんだ。

 学校で授業を受けているときはなんともないのに、家で机に向かうと逃げ出したくてたまらなくなる。

 だからテスト前にはできる限り学校で勉強するようにしているし、昼休みも放課後も授業内の実習時間も大いに活用している。勉強を全くしていないわけではない。

 だから理解してほしい。

 そう思うのに、僕の言葉は両親に届かなかった。


 ある日、家に帰ると僕じゃない自分がいた。彼は僕の身体を借りて熱心に机に向かい暗記を始めた。それはテスト前日のことで、彼が机に向かえば向かうほど、僕は次々に単語や公式を吸収していく。

 僕の身体は一体どうしたのだろうか。僕ではない誰かが僕の身体を操縦しているかのようだった。深夜のハイテンションで頭を働かせて、「追い込まれたから漸く身体が動いた」のだと理解した時には、激しく落胆した。

 でも、幸せだった。苦痛を感じない。両親が言っていたように僕は"真面目"に勉強している。なのに、どうして両親は「信じられない」とからかうように僕に言葉を向けるのだろうか。

「明日は雨が降るかも」

「もっと早くからこの調子で勉強していれば百点が取れるのに」

 それは僕への侮辱にもとれる。

 簡単に言ってくれるな。僕が普段、どんな思いで机に向かっているかなんて知らないで。

 "理解"と"実行"は違う。勉強をしなければならないことは理解しているんだ。

 届かない反論を頭の隅に置き、僕の代わりに僕ではない自分が頭の中で言う。

「消えてしまえ」

 両親を呪う言葉が、単語と記憶の接着剤のように働く。誰かを呪っているときは、嫌になるほど集中できた。


 疑いようもなく、僕はクズだ。


 夜遅くまで僕は勉強した。睡眠時間を削って。でも、暗記のための睡眠時間は確保する。は寝ることで記憶は整理されて、起きてからの復習で定着していく。だから数時間だけ寝た。

 そうして僕はテストに挑んだ。


 将来の夢。それは医者になることだ。そのためには難しい国家試験や、その前にある大学受験に合格しなければならない。僕は期待されていて、僕はやればできる子で、僕は絶対に負けてはいけない。家では中々やる気の出ない僕だけど、テスト二ヶ月前から放課後は教室で勉強し復習をした。毎日コツコツは苦手だけど、自分なりに勉強と向き合ってきたつもりだ。今回のテストは特別難しかった。生徒の油断を突くような問題がたくさん出された。平均点はそれほど高くないけど、それでも僕は平均点を十点以上上回った。我ながら頑張った。

 なのに、両親にがっかりされた。

 なんで。どうして。

 僕の心情を知りもしないで。

 あーすればよかった、こーすればよかったなんて、結果だけ見たならいくらでも言えるよね。テストを受けてないから、いくらでも言えるよね。

 僕の価値は勉強をすること以外にないの?他に言うことはないの?

 ただ頑張ったね、って言ってもらえれば、その一言で僕は嬉しくなれるのに。

 頑張りを否定されてばかりで僕が机に向かっていけるわけがないじゃないか。

 あぁ、そうか。だから僕は勉強ができないんだ。

 いつか、勉強をしたくない理由を突き詰めようかと考えたことがあったな。だけど、今分かった。どんな結果を得ようとも否定される未来が見えるから、勉強したくないと思うんだ。もっと勉強していれば、と言われる度に僕の心は抉られる。

 僕は全力を尽くしたのに。

 勉強しなさいって言われるのも苦痛だ。なんで、なんで、なんで。


 僕が呪ったから?消えてしまえって呪ったから、両親は僕を認めてくれないの?

 そうならそうだと言ってくれ。すべては僕のせいだと。


 ◇


 気がついたら窓の縁に座っていた。放課後の学校。ひとりぼっちの教室で賑やかな部活生の声だけが入り込んでくる。

 自分でも理解している。きっと今、僕は精神的に追い詰められている。誰かに相談して助けを求める必要がある。そうしなければ僕自身が壊れてしまう。

 けれどすべてが面倒くさい。あれほど賑やかに思えた部活生の声も遠退いていく。

 今背中を空に預けたら、すべてが楽になる。死んでも死ななくても良い。空に預けたら、きっと誰かが僕に気がついてくれる。両親を呪わなくていい。僕は自由を手にできる。

 背中に羽が生えた気がした。いや、自分が雲になったような気がした。やけに身体が軽くて、僕は空に紛れ込もうとした。窓の外に、身を投げ出そうとした。


 しかし、そうはならなかった。


 気がついた時には誰かの両腕の中にいる。教室の内側に引っ張られて、空と一体化することを妨げられたのだ。だが、感情は何も湧かない。どうでもよかった。

「頑張ったね」

 そう声をかけられたとき、僕の中で込み上げるものがあった。もう、どうでもいい。そう思ったはずなのにその言葉を耳にして、反応せずにはいられなかった。

 嬉しかった。なのに、

「君に何が分かるの?」

 と、僕は言い返していた。僕を抱きしめる両手は震えていた。同様に震えた声は言う。

「どうしようもない苦痛を手放そうとしたんだよね。苦しみを抱えたまま、耐えてきたんだよね。耐えることがどれほど難しいか、私には分からないけど、だからこそ、一人で頑張ったんだよね」

 ポツポツと僕の頬に何かが触れた。視線だけ向けると、そこで女の子が泣いていた。僕よりも小さくて細い。彼女が、僕の代わりに泣いていた。


 そして僕は救われた。


 そうなんだ。理解してもらえなかったことが苦しかった。頑張ったねって言われたかった。でもそれだけじゃなかった。褒められたかったわけじゃなくて、ただ僕を、僕として受け入れてほしかったんだ。僕が追いかけている夢は僕自身ではない。なのに、両親が見ていたのは将来だけだった。僕が立派になる将来だけを見つめていた。だから僕の努力や苦痛は理解されないままなんだ。

 声をあげて泣くことはなかった。けれど、僕の目に浮かんだ大粒の涙は重力に逆らうことなく、下へ下へと流れていった。そして彼女もまた、僕のことをただ力強く抱きしめた。ただのクラスメイトなのに、彼女はただ、僕の側にいてくれた。そうして、人間の温かさを僕は思い出した。


 ◇


 雲のような夢を見た。

 それは、僕が雲のように軽くなって、空に溶け込んでいく。苦痛を抱えてどうしようもなかったあの日、僕は彼女に救われて、やっと思いを口にした。涙の枯れた僕を彼女は離し、僕は「ありがとう」と口にする。「君がいてくれて良かった」と言葉にすると僕の胸にまた何かが込み上げて、枯れたはずの涙が零れそうになった。そんなときに彼女が「どういたしまして」と言って笑ってくれたから、僕も泣きながら笑ってみせた。

 この瞬間が儚くて尊くて、今度は濁りのない純白の雲のように空間に溶けてしまいそうだった。


 両親と話をした。僕の言葉を両親がどれほど重く受け止めたのか分からないが、僕からの拒絶は伝わったみたいだった。

 両親との関係の変化はたったそれだけ。

 勉強嫌いも変わらない。

 僕の承認欲求も変わらない。

 でも、変わらないことだらけの生活の中できっと何かが変わっている。


 心の持ちよう、物事の捉え方、人間関係の微動。


 また、死にたくなるかもしれない。

 でも、何かがストッパーになる。今までは考えられなかった方向から手を差し伸べられて、僕は世界を広げていくのかもしれない。

 目の前がすべてではない。世界は"後ろ"にも広がっている。


 目に見えない何かがきっと、雲のような僕を支えている。

 支えられて、奮い立つ。

 そうやっていつしか雲は、大地を潤していくのかもしれない。

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