第三部 瀬戸旭の秘密編

00.プロローグ 浴衣姿の彼女


 夜空に咲いた光が、僕らを極彩色に染めている。浴衣姿の梨香さんと、彼女を抱き上げる僕を。


「遥輝くん下ろして、私はもう歩けるから……!」

「ダメです、傷が深くなったらどうするんですか」


 ぐっと、僕はさらに腕に力を込める。梨香さんは足に怪我をしていた。地面に躓いたのだが、下駄を履いていたので傷はかなり深い。

 応急処置は済ませたものの、このまま人混みにいるのは危険だし、化膿するおそれもあった。それで僕は彼女を連れて花火会場を後にしたのだった。


「ごめんね。私のせいで花火を見られなくなっちゃったね」

「僕こそごめんなさい。梨香さんに怪我をさせてしまうなんて……」

「ううん。悪いのは私よ。縁日の景品に駆け寄っちゃうなんて笑っちゃうでしょ?」


 そんなことありませんと、僕は首を振るう。梨香さんが怪我をしたのは、射的屋に凛が欲しがっていた玩具を見つけたからだ。決して可笑しくなんかない。


「ねぇ遥輝くん。私の部屋に来ない?」

「えっ?」


 僕は梨香さんを送り届けた。ご家族も花火大会に行っており、彼女の家は真っ暗だった。


「ここまで歩いて疲れたでしょ? しばらく誰もいないからゆっくりできるよ?」


 がちゃっと、鍵の回る音に困惑する。彼女の部屋にお邪魔したことはあるが、あの時とは状況が違う。もう夜中で、二人きりだし、なにより今の僕らは付き合っている。


「なにか飲まないと倒れちゃうわ。お姫様抱っこなんて慣れないことするから汗だくになっているもん」


 梨香さんが意地悪な笑みを浮かべる。だって怪我人を歩かせたくないし、おんぶなんてしたらご立派な胸が背中に当たってしまうし……。


「家まで運んでくれたお礼よ。もう減点なんかしないから、お部屋で休憩しよう?」

「ですが――」


 遠くの爆音が、僕の声をかき消した。

 河川敷で打ち上げられた花火は、ここからでも垣間見える。

 赤、青、緑と様々な色が梨香さんの瞳に映りこみ、僕はつい見とれてしまう。

 紺色に花柄模様の浴衣に赤色の帯を巻き、いつもはストレートにしている黒髪はお団子にハーフアップし、かんざしを差している。生徒会長らしくお上品に、けれども愛らしくもある魅惑的な姿に胸が高鳴っていた。


「それに怪我の手当ても手伝ってほしいの」

「わかりました……」


 いかん。治療という建前で二人きりになれることを喜ぶなんてダメだぞ。こんな邪な考えをすぐに捨てなくては。


「遥輝くん。包帯を巻くのお願いしてもいい? 私、下手だから」


 ベッドに座った梨香さんが、苦笑いしながら素足を差し出してきた。


「あっ、ごめん。汚いよね?」

「いひぇ、そんなことありません」


 噛んでどうする。落ち着いて治療しろ。

 まずは傷を消毒して、それから患部にガーゼをあてて包帯を巻くんだ。それにしても梨香さんの足って小さい。足首もきゅっとしているし、こんなに細くてよく身体を支えられるよな。


 不意に梨香さんの視線を感じる。彼女はじっと僕を見下ろしているようだ。

 気付かぬふりをして黙々と手当てをつづける。もしここで顔を上げれば開いた裾から奥まで見えてしまう可能性がある。頑張れ僕の理性。梨香さんに悪気はないんだ。


「遥輝くん、どうしてそんなに必死なの?」

「恋人が怪我をしているだから当然でしょ?」

「もう。大袈裟なんだから」


 治療を終えると梨香さんが嬉しそうに足をバタつかせた。

 僕の頭上で、裾がひらひらと動く気配がする。もっと女性としての自覚をもってほしい。


「手当してくれてありがとう。こういうのを、怪我の功名って言うんだよね?」

「功名?」

「久しぶりに二人きりになれたから。最近の遙輝くん、他の人に囲まれていることが多いから」


 梨香さんが声を落とした。たしかにここ数日は他の生徒、とくに瀬戸さんと過ごしてばかりいた。梨香さんが後押しをしていたとはいえ、本当は寂しかったのかもしれない。


「ごめんね。私が減点なんて意地悪を始めたからだよね?」

「違います。そもそもあれは僕が独断行動したのが悪いんですから」

「優しいんだね」と、梨香さんが微笑んだ。


 花火大会はまだつづいている。どん、どんという音はよく聞こえ、家全体が揺れているような気さえした。


「ねぇ、電気消そうよ。そのほうがよく見えるよ?」


 梨香さんが明りを消した。

 真っ暗な寝室で、僕らはベッドから遠くの花火を鑑賞する。家の屋根に切り取られた夜空には大輪が咲きほこり、光の尾が街をキラキラと照らしていた。


「綺麗、ですね」


 声をかけるも返事はない。振り向くと彼女は花火ではなく、僕を見上げていた。


「梨香さん……?」


 とんと、梨香さんが僕に凭れる。その感触は花火の轟音以上に胸を震わせた。

 彼女の首筋から漂う不思議な香りが、休憩して落ち着いた身体を熱くさせる。互いの体温と汗の匂いが混じり合うなか、彼女が僕の手に指を絡めた。


「遙輝くん……」


 そして、ゆっくりと目を閉ざした。

 僕にだって心意はわかる。

 だけどこのままキスをしたら、僕は彼女をベッドに押し倒してしまう気がする。

 理性を保ちつつ応えたいところだが、今まで抑えてきた自分のなかの猛獣(とら)が暴走するのが恐くて硬直していたのだった。

 ああ、もう。

 自分の欲望を虎と表現するなんて、まるで教科書の登場人物じゃないか。


 いったいなんでこんなことになったんだろう。

 話はそう。

 すべてあの日に遡るんだ。

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