第15話 東シナ海、そして中国大陸へ

筑紫国、大宰だざい鴻臚館こうろかん

その一室から快晴の博多湾を見ながら、和泉式部がつまらなそうに言った。


「あ~、こんなにいい天気なのに、まだ出航できないんですかぁ~?」


同じ部屋で暑そうに窓際に腰掛けていた清少納言がそれに答える。


「仕方がないですね。今朝、船頭さんが言ってらしたでしょ。天気はいいけど沖では西風が吹いているって。逆風じゃ宋にはたどり着けないでしょうし」


そう言って彼女は手にした扇子でパタパタと自分を扇いでいた。


「でも和泉ちゃんの言う事も解りますよ。このまま那大津にいたら、宋に出発できるのはずいぶん先になっちゃうでしょうし。あと一か月もすれば台風が来るシーズンですよね? そうしたら二か月はここに足止めですわ」


ゴロ寝しながら草紙に思いついた源氏物語のアイデアを書いていた紫式部が口を挟んだ。


今は6月。旧暦のため現在なら7月頃だ。

よって紫式部の言う通り、あと一か月ちょっとで台風が来るシーズンとなる。

そうなれば9月(現在の10月)になるまで出航は難しい。


「そうですね、『待てば海路の日和あり』とは言うけれど、このままだったらかなりの遅れになるでしょうね。宋の都の開封の到着するのは、来年の春くらいになりそうだわ」


「それって寒い冬を、日本よりはるかに寒い大陸で過ごす事になるんですよね。暑い夏を九州で過ごすのも嫌だけど」


紫式部はウンザリしたように、身体全体で床に突っ伏した。


「大陸ってそんなに寒いんですか?」


和泉式部がそう質問すると、清少納言が答える。


「そうらしわ。大陸は夏は暑くて冬は寒いんですって。それに私たちの場合、泊まる所も問題になるわ。確実にアテがある訳じゃないんだから」


「遣唐使の時も、順調に行って半年はかかったそうよ」


俯けに寝た姿勢で、顔だけ向けた紫式部がそう言った。


「西風で東シナ海を渡れないなら、一度高麗こうらいの方に行くのはダメなんですか? 遣隋使の頃は那大津から対馬を経て、朝鮮半島の西側を通って隋に渡ったって聞きましたが」


和泉式部の疑問に、今度も清少納言が答える。


「それは無理でしょう。今の日本は高麗とは国交がないし、白村江の戦い以来、高麗人の日本への感情は悪いわ。その上、今の高麗は契丹の属国となっているの。契丹と宋は敵対関係よ。無事に宋まで行かせてくれるとは思えないわ」


「その通りですね。だから私たちは、ここで東シナ海を渡れそうになる時まで、待つしかないってこと……」


そう言いながら、紫式部は身体をゴロリを半回転させて仰向けになった。

その豊かなバストが部屋着の単衣からはみ出そうだ。

そんな紫式部を、清少納言が不愉快そうに睨んだ後、視線を博多湾に向ける。


(確かにここで二か月もの足止めは大陸に渡ってからの旅が苦しくなる。琉球沿いに渡る航路も、船頭に進言してみるべきかもしれない)



だがその翌日、朝一番で船頭が三人のいる部屋に駆け込んで来た。


「さっき五島の漁師から連絡が届いた。東シナ海が南東の風が吹いていて、これはしばらく続くそうだ。よって明日の早朝に出航する事にする!」


その言葉に三人は色めき立った。

さっそく乗船の準備に取り掛かる。

船頭の方も部下の水手に命令し、食料や水を積み込み始めた。

いよいよこれから東シナ海を横断する事になるのだ。



清少納言・紫式部・和泉式部が乗る船は、朝もまだ暗い内に出航した。

陸風が吹いている内に出航する方が、船が出やすいためだ。

北九州沿岸に点在する島々が黒い影となってみえる。

それらを左手に見るようにして船は進んだ。


五島列島に一度立ち寄り、船や食料・飲み水を確認して、いよいよ東シナ海に出る。

東シナ海は夏の太陽に青く輝いていた。

だが船内はサウナのような蒸し暑さだ。

そうかと言って甲板上では直射日光に晒される。


三人とも屋形の中で窓を開け放って、極力動かないようにしていた。

時折、和歌を作ったりもするのだが、暑さのせいで集中力が続かないらしい。

囲碁をやっても同様だ。

それに清少納言も紫式部も「自分こそは京一番の女流棋士」の自負があるため、おいそれと二人で碁を打つ訳にはいかなかった。

まだ幼い和泉式部だけは「貝合わせをしましょう!」と他の二人に持ち掛けるが、二人はそれを相手にしなかった。

この頃になると三人とも船に慣れて、もう船酔いはしなくなる。


夜になると清少納言はよく星を見ていた。

その日も彼女が甲板に出て星を見ていると、船頭(船長)や火長(航海士)がやって来た。

清少納言が船長に尋ねる。


「北極星がだいぶ水平線に近いみたいですね。予定より南に進んでいるのではないですか?」


「アンタは星見もするのか?」


船頭が驚いたように言った。


「確かにこの船は南西方向に進んでいる。だがこれは計算の内だ。東シナ海から対馬海流のせいで、どうしても北東の方に流されがちだからな。それに南に寄れば、いざとなれば琉球で食料や水の補給ができる」


「なるほど。ですが気を付けて下さい。琉球の島々より東側に出てしまうと、今度は黒潮に乗って日本に戻されてしまいます。さんざん苦労して辿り着いたのが、紀の国(和歌山県・三重県)や房の国(千葉県)では洒落になりませんわ」


火長も驚いた目で彼女を見る。

まさか京の屋敷に閉じこもっている姫君が、船の航路にまで詳しいとは思わなかったためだ。


「それは分かっているが、南北の位置と違って東西の位置を把握するのは難しくてね。陸地が見えない限り、判断しようがない」


「そうですか。では取れる魚に注意を。深い海の魚が取れたら琉球より東に行っています。浅い海の魚ばかりなら中国大陸に向かっていると思って間違いないでしょう。それとこの時期は琉球では南西の風が吹くそうですし、台風も大陸南部を直撃します。天候との勝負ですよ」


そう言い残すと清少納言は屋形の方に戻って行った。

そんな彼女を見ながら火長が口を開く。


「あれが清少納言……ただ歌と文が上手いだけの姫君かと思っていたら、こんな都から離れた琉球や海の事にも詳しいなんて……恐ろしい程の知識量ですね」


船頭も頷いた。


「ああ。『都一番の知性を持つ女』とは聞いていたが、まさか船の事にも詳しいとはな」


「病気やケガにも詳しいそうじゃないですか。ケガをした水手たちが手当をして貰ったそうです。それ以来、水手たちは彼女を『天女の生まれ変わり』と言って、全員がのぼせ上ってますよ」


火長の言葉に船頭が苦笑する。


「おいおい、船の上でおかしなマネは止めてくれよ。彼女たちは大事な大事な帝の使者なんだ。変な事があったら、俺やオマエの首が胴から離れるくらいじゃ済まないぞ」


「わかってますよ。しかしあれだけの美人、男どもが騒ぐのも当然でしょう。それに一緒にいる紫式部も、都では『色黒ギョロ目の醜女』と言われているそうだが、俺らには魅力のある可愛さに思えます」


「そうだね。だがまぁ彼女たちを思い浮かべるのは夢の中だけにしておけ。それに彼女たちは『男を喰い殺す』って噂もあるんだぞ」


そう言って船頭は笑った。

だが胸の中では不安もあった。

既に五島を出て半月。

あと半月ほどで蘇州に入れるはずなのだが?


(台風に会えば、我々は全員海の藻屑となるだろう)


そう思いながら星空を見上げた。



そして那大津を出て三十一日目。

午後から西の空に雲が現れたかと思うと見る見る大きくなり、あっと言う間に大粒の雨と強い風が船を襲った。

同時に波の高く激しくなり、三人が乗った船は前後左右上下と全ての方向に間断なく揺さぶられる。


「きゃあっ!」

「ひゃっ!」

「あうっ」


清少納言・紫式部・和泉式部がそれぞれ悲鳴を上げる。


「ちょっと、こんなに激しく揺れるって、この船は大丈夫なの?」


床に四つん這いになりながら紫式部が叫んだ。


「確かに……これ以上、風が強くなるようだったら危ないわね」


そう答えた清少納言に、和泉式部が目を丸くする。


「えっ、それってこの船が沈むかもしれないって事ですか?」


紫式部の顔色も変わる。


「そうね……かなり危ないかもしれない」


清少納言がそう言った時、船が大きく傾いた。


「わわわ!」「うそっ!」「いやぁ!」


紫式部・清少納言・和泉式部がほぼ同時に叫ぶ。

船は60度近く傾いた。


(転覆する!)


清少納言はそう感じたが、ギリギリで船はバランスを立て直した。


「このままじゃ船は持たない!」


それに紫式部が尋ねる。


「何か策があるんですか?」


「とりあえずやれる事はあるわ。上手く行くかどうかは解らないけど!」


そう言うと大きく揺れる船の上で、清少納言は壁に手をつきながら立ち上がった。

暗殺術を身に着けた彼女は、激しく揺れる船の上でも何とかバランスを保つ事が出来る。

そのまま屋形から甲板に出ようとする。

戸口の所で清少納言は二人を振り返った。


「アナタたち二人は、何かに掴まってここから出ないようにして! こんな状況で海に落ちたら助からないから!」


そう言って自分は戸を開けて甲板に出た。

甲板では既に船頭以下、水手が懸命に帆を降ろそうとしていた。

それを見た清少納言が叫ぶ。


「なに今さら帆なんて下ろしているのよ! そんな時間はないでしょ!」


すると振り返った船頭が怒りの声を上げた。


「女がこんな所に出て来るな! 大人しく屋形の中に引っ込んでいろ!」


だが彼女は負けじと言い返す。


「アンタらに任せておいたら、私たちまで一緒に海の底だからよ! もう帆なんて要らないでしょ! それより帆柱(マスト)を切り倒しなさい! ただでさえバランスの悪い船なんだから!」


「帆なしだと? この大海原を櫂で漕いで行けって言うのか!」


「現在位置は大陸からそんなに離れていないはず。倭寇の連中は普通に船を漕いで高麗まで往復しているわ! 出来ない話じゃない!」


清少納言がそう叫んだ時、船は横波を受けて再び大きく傾いた。

水手が何人か海に落ちる。

清少納言は近くに張られたロープに捕まって落水を避ける事が出来た。


「もう時間がない! 早く帆柱を切り倒しなさい!」


彼女の剣幕に押されたのか、船頭も部下の水手たちに命令を出した。


「帆柱を切り倒せ!」


二本ある帆柱の内、前の方の帆柱に水手たちが集まり、斧を使って切り倒そうとする。

それを見た清少納言が顔を顰めた。


(マズイ。前の帆柱を先に切り倒したら船のバランスがさらに悪くなる。と言って一刻も早く帆柱は切り倒さねばならない)


しかし数秒考えただけで、清少納言は叫んだ。


「前の帆柱だけじゃなく、後ろの帆柱も同時に切り倒して!」


船頭が再び彼女を見る。


「無茶言うな。それに帆柱が倒れる時、船を壊さないように縄を張っていなければならないんだ!」


船頭が言う事は正しい、それは清少納言にも理解できた。


(だけど一本ずつ切り倒していくんじゃ、転覆の危険が大きい。どうすれば……)


その時、屋形の中から誰かが這い出て来た。

屋形の戸をガッシリと掴んだその影は……紫式部だ。


「私が後ろの帆柱を切る! 誰か斧を貸して!」


船頭は二人もこの場に女が現れた事を、信じられない物を見る目で見ていた。


「アナタに出来るの?」


紫式部の怪力を知らない清少納言も、思わずそう口にする。


「出来るか出来ないかじゃなく、ここはやるしかない所でしょ! あれこれ言っているヒマがあったら、さっさと斧を渡して!」


清少納言は頷き「誰か彼女に斧を!」と叫んだ。

水手の一人が紫式部に斧を渡す。

紫式部は周辺にいた水手たちに言った。


「帆柱を切り倒すのは私一人でいい。他の人は倒れた帆柱が船を壊さないように綱で引いていて頂戴!」


そうして彼女は斧を大きく振りかぶり「ダッシャー!」と言う掛け声と共に斧を帆柱に叩き込んだ。

頑丈なはずの帆柱が、見る見る削られてゆく。

前の帆柱は男二人がかりで先に切り始めているのに、紫式部はあっと言う間に追いついた。


やがて前の帆柱が倒れるのを見た紫式部は、最後に渾身の力を振り絞って斧を叩きつける。

後ろの帆柱もほぼ同時に倒れる。

水手たちがロープを引いて、船体に被害が出ないようにする。

再び清少納言が叫んだ。


「残った水手は左右に別れて櫂を持って! 海に落ちないように、それぞれ縄で身体をしっかりと固定するのよ!」


「櫂だと? こんな嵐の中、櫂で漕いで進むなんて出来ないぞ! どっちが目的地かも分からないんだ」


驚く船頭に清少納言が大声で説明する。


「この嵐の中を進めって言っている訳じゃない! 船の方向を変えるだけよ。船は横波に弱い。だから常に船体を波の進行方向に向けるのよ。底が平たいこの船の形なら、上手く波に乗れば嵐からは抜け出せるかもしれない!」


船頭は舌を巻いた。

改めて彼女の知識と頭の回転の早さに驚いたのだ。

清少納言の言う通り、水手は船の左右に半々ずつ別れ、それぞれがロープで結ばれて櫂を握った。

全員を見渡せる位置に立った清少納言が声を張り上げる。


「私が手を挙げた方が櫂を前に漕ぎ、反対側は櫂を後ろに漕ぐのよ。そうして船の向きを返るの。いい?」


水手全員が彼女を見て頷いた。

いつの間にか、彼女がこの場を支配していたのだ。

海を見ていた清少納言が叫んだ。


「右手、前漕ぎ! 左手、後ろ漕ぎ!」


その指示に従い、水手は必死に櫂を漕ぐ。

船が取り舵(左方向)に回頭する。

押し寄せて来た波に乗って、船は飛ぶように進んだ。


「次、右手、後ろ漕ぎ! 左手、前漕ぎ!」


今度は船は面舵(右方向)に船首を向け、今度も波に乗って前に進む。


そんな事を半刻ほど繰り返しただろうか。

急に風と波が穏やかになり、雨も小雨程度になって来た。

やがて雲の切れ間から星が見える。


「もう……大丈夫」


疲れた様子で清少納言はそう言った。

大声を上げ過ぎて、声が枯れてしまっている。

水手たちもガックリと力が抜けたように座り込んだままだった。

身体を固定したロープを外すのがやっとだ。


清少納言は甲板にへたり込んだ。

すぐ近くには、大の字で仰向けになっている紫式部がいる。

彼女は船の向きを変えるため、左右で必要な方に移動して櫂を漕いでいたのだ。

二人とも声も出ない。

ただ魂が抜けたように同じ姿勢でいるだけだ。


やがて東の空が白み始めて来た。


「陸だ。陸が見えるぞ!」


誰かがそう声を上げる。

虚ろな目で、清少納言も紫式部も声の方を見た。

確かに、黒々とした陸地が見えている。

延々と続いているため、島ではない。


「どうやら、宋にたどり着いたみたいね……」


紫式部の言葉に、清少納言も「そうね」と一言だけ返した。

そこは揚子江の河口の町、上海鎮だ。




●ちょっと説明

※1、大宰鴻臚館(だざいこうろかん):飛鳥~平安時代に使用された外交や海外交易のための施設。

  本来は外国からの使節が一時滞在するための迎賓館、また遣唐使などの宿泊所としても使用された。

※2、那大津:博多にあった港。古代はここが日本の玄関口となっていたらしい。

※3、遣唐使船のルート:

  最初は遣隋使と同じく北路と言われる博多から対馬を経由して、朝鮮半島西側から山東半島に渡る航路を使っていたそうです。

  しかし700年代以降は南路と呼ばれる博多から五島列島、そのまま東シナ海を横断、蘇州や明州に渡る航路を使ったそうです。

  なお沖縄列島を経由して、蘇州に渡るルートもあったそうです。

※4,高麗:当時、朝鮮半島にあった国。ほぼ朝鮮半島全土を支配していた。この話の頃は契丹に服従していた。

※5、契丹:当時、モンゴル、中国東北部、極東ロシアを支配していた国。国号は遼。宋とは対立していた。

※6、蘇州:揚子江南岸にある都市。上海の隣。

※7、貝合わせ:平安時代の女子の遊び。ハマグリのような二枚貝をバラして沢山並べ、神経衰弱のようにペアとなる貝殻を見つけるゲーム。

※8,上海鎮:現在の上海。この当時はまだ村から町になった程度だったそうです。



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今回のウソ設定

※1,この時代は「東シナ海」なんて呼ばれていません。平安時代になんて呼ばれていたのか分かりませんでした。

  もちろんこの時代に「中国大陸」とか「対馬海流」なんて言葉もありません。

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