第9話 道長、紫式部を口説き落とす

「どうぞ、道長様」


上機嫌の紫式部は、盃を道長に差し出す。


「うむ、かたじけない」


道長は盃を手にすると、それを一息に飲み干した。


「さすが道長様、見事な飲みっぷり。ささ、もう一献」


紫式部は道長の盃にさらに酒を注ごうとする。

しかし道長に「いや、今夜はこれでけっこうだ」と片手で制した。


「どうなさったのですか? 道長様がこの程度のお酒しか飲まれないなんて……何かあったのでございましょうか?」


紫式部がいかにしも心配そうに、道長に寄り添う。

いや、寄り添うと言うよりも、しな垂れかかるといった方が正しい。


彼女の服装は単衣(ひとえ)と呼ばれる薄地の着物、袴(はかま)、その上に袿(うちき)と呼ばれる上着を羽織っているだけの部屋着姿だ。


しかし既に袿は大きくはだけ、薄地の単衣では彼女の豊かなバストがくっきりとその形を表している。

そう、彼女は明らかに道長を誘惑しているのだ。

今夜は逃がさない……彼女のそんな意図がありありと解る。


「もしお望みでしたら、私が口移しで飲ませて差し上げますが?」


ぷっくらとした情感的な唇で熱い息と共にそう口にする紫式部。

しかし道長が残念そうな顔で言った。


「そなたの口移しの酒は魅力的だが、今夜ばかりはそうはいかないのだ。この後も寄らねばならない所があるのでな」


それを聞くやいなや、紫式部の表情が変わった。


「寄らねばならない所? それはどこのどなたの所でしょうか?」


既にその表情にも口調にも嫉妬の色が現れている。

道長はそんな紫式部の様子に気が付かないかのように口を開いた。


「今日の昼間、帝に呼ばれたのだが、その問題を片付けねばならないのだ。だが、これがかなり厄介でな……」


紫式部が少々意外そうな顔をした。


「道長様ほどのお方が厄介と言われるとは……いったいどのような問題なのですか?」


「うむ、実は帝が即位の挨拶として宋の皇帝に手紙を送ったのだが……その返書があまりに我が国を馬鹿にしたものでな……」


「この国を馬鹿にしたもの? それはどのような内容で?」


「まずは『朝貢にはいつ来るのか』と。まぁこれ自体は、宋から見れば我が国を下に見ているから仕方がないとして……問題はその次だ」


さも言いにくそうにしている道長に、紫式部は目で先を促した。


「貢ぎ物についてだ。『倭国からの貢ぎ物は魚臭い物ばかり。それに各地の王は宋の皇帝に、知恵のある美女を差し出しているのに、倭国からはそれすらもない。野蛮で未開な国だから、知と美を兼ね備えた女はいないのか』と言って来てな」


それを聞いた紫式部の顔にサッと朱が差したのを、道長は見逃さなかった。


「この日本には、知恵のある美女がいないと……宋の皇帝はそう言われたのですか?」


紫式部の唇が固く閉じられ、小さく震える。

それを見た道長は内心「やはり予想通りだ」とほくそ笑む。

彼は紫式部のプライドの高さを知っていた。

また彼女の母方の一族は、日本古来の豪族なのだ。

その事に誇りを持っている。

安易にこの国を侮辱されるのは、彼女にとって許しがたい事だ。


「帝にしてもこの国の女子が侮辱された事が許せないらしくてな。かくいう私も悔しくてならない。この国にはそなたのような才色兼備の美女がいるのにな」


しばらく拳を握りしめ、俯いていた紫式部が様子を伺うように顔を上げた。


「して、道長様は、どこの女子を宋に送ろうと思っておいでなのですか?」


「それに悩んでいるのだ。並の女子では大陸の言葉も解らぬゆえ、送ってもむしろ逆効果だ。そもそも京の女子は屋敷から出た事がない者がほとんどだからな。かと言って地方の娘と言う訳にもいかぬ。となれば、この都で大陸の言葉を自在に操り、才色兼備の美女と言えば……」


「清少納言様……でございますね」


紫式部の目が猫のように光りながら、そう言った。

実際、彼女のしなやかな身のこなしは猫のようだ。


「そうだ。だから今宵の内に清少納言殿の屋敷に向かおうと思う。その返事をすぐにでも御所に持って行って、帝にご安心して頂きたい」


道長はそこで大きなタメ息をついた。

その様子をじっと見ていた紫式部が、やがて決心したように口を開いた。


「そのお役目、この紫式部にお任せ頂けないでしょうか?」


そう言った彼女を道長が目を丸くして見つめる。

もちろん、これも演技だ。


「なんと、そなたが宋の行ってくれると言うのか!」


「ええ。私も大陸の言葉は自在に操れますし、彼の国の歴史や書物にもそれなりの知識がございます。また都では私は『色黒クセっ毛の醜女』と言われますが、渡来人の方には私の容姿は美しいと言って頂けています。きっと宋の皇帝にも気に入って頂けると」


「よくぞ言ってくれた!」


道長は紫式部を強く抱き締めた。


「私としては愛するそなたを宋になど送りたくはないのだが……だがそなたなら、きっと日本の名誉を回復してくれるだろう。なにしろあの源氏物語を書けるほどの知性と、私が認めた魅力のそなたなら……」


そう言いつつ、道長や紫式部に顔を見られないのをいい事に、ニヤリと笑った。


(これで紫式部は当分帰ってはこれまい。その間、私はたっぷりと他の姫君と懇ろになる時間を作れる訳だ)


同様に紫式部も笑みを浮かべていた。


(もう日本の男には飽き飽きしたもんね。道長様も最近はすっかりご無沙汰だし。ここは一丁、大陸に渡って宋の男と付き合うのも悪くないわ。実際に私、渡来人には凄く人気があるし。上手く行けば宋の皇后になれるかもしれない……)


だがそこで紫式部はふと思った。


(宋の水が合わない可能性もあるし……一応、保険だけは掛けておくか)


「道長様、私はどれほどの間、宋で過ごせばよろしいのでしょうか?」


道長は抱きしめていた彼女の身体を離し、二の腕を掴んで目を見つめる。


「おそらく二年程度。長くても四年で迎えに行く。そして帰って来た暁には、そなたを私の妻の一人に迎えよう」


「嬉しゅうございます、道長様!」


今度は紫式部の方から道長に抱き着く。

思わず道長も「可愛いヤツ」と思ってしまった。

だが紫式部は今度も見えない角度で小さく舌を出した。


(これで日本に帰って来た時の居場所は確保できたわね。まぁ第一目標はあくまで宋の帝を墜とす事だけど)


そんな下心を抱えた二人は、まるで心の底からの恋人同士であるかのように愛し合った。



●ちょっと説明

※1、朝貢:中国にとって皇帝(天子)とは「この天の下、全ての土地を治める者」なのです。皇帝の配下に各地を治める王がいます。そして皇帝に王として認めてもらうには、貢ぎ物を持って皇帝から王の印を拝受する必要があります。(たいていは印鑑)

ちなみに清は英国との貿易も朝貢と考えてまともに相手にしなかったため、それで英国は不満を募らせアヘン戦争に繋がったという説もあります。


※2、道長の妻:道長には6人の妻がいました。ただ当時は通い婚であり、妻は生家にずっといるので一夫多妻と言えるか微妙です。

実際、「〇〇の妻」とされていながら、他の男性が夜這いを掛けて来てその男と一夜を共にした、という話も残っているそうです。


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今回のウソ設定


※1、紫式部の母方が『日本古来の豪族』と言うのは、全くのウソです。ここでは縄文時代から続く有力者という設定にしています。

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