第4話 入院期の終り

 翌日、朝から教室が多少ざわついた。

 新学期が始まって以来、一度も来ていなかった斉藤花子が登校してきたんだ。

 ぼくが復帰したときはノーリアクションだったのにね。

 わかってるよ、ぼくなんかしょせんユーグレナみたいなもんだ。

 ユーグレナ知ってる? ミドリムシだよ。

 光合成できる動物なんだ。単細胞生物なあたり、ちょっと共感しちゃう。


「あっ」


 斉藤さんはぼくと目が合うと、笑顔で小さく手を振った。

 こちらも反射的に小さく手を振り返す。

 流れるような黒髪と、アンニュイな瞳。

 初対面じゃない。

 病院で会ったあの子だ。

 ただ、あの時よりもずっと顔色がいいし、元気そうだ。

 クラスの女子が取り囲み、口々にねぎらいの言葉をかける。

 おかげでぼくの出る幕は無い。


「ふーん。あらためて見ると、なかなかイカスじゃん」


 竜宮院がぼくの背もたれを蹴る。


「そうかい?」


「お前のほう見て手を振ってたぞ。知り合いか?」


 ぼくは、すぐには答えられなかった。

 知り合いといえば知り合いだけど、二言三言会話をしただけだもんね。


「たぶん……」


「ふーん」


 竜宮院はあまり興味が無いのか、来る途中で買ってきた科学雑誌を広げた。

 いかにもアホそうな見た目とは裏腹に、先端科学が大好きなんだ。

 ぼくもこういうのは嫌いじゃない。

 ロボットも宇宙船もタイムマシンも、嫌いな人が居るなんて思えない。

 科学の負の側面にいかに絶望しようと、それを乗り越えるのはやはり科学でしかない、とは竜宮院の言葉だ。

 ぼくも素直にそう思う。

 退屈な日常から抜け出して、異世界や未知の惑星に行き,そこで大冒険を繰り広げる……そんな映画や漫画が、ぼくは大好きだった。

 難しい活字の本は苦手だけど。

 どうしても眠たくなっちゃう。

 竜宮院は椅子に横掛けし、僕にも見えるように膝の上でページをめくってくれる。

 なんだ、いいやつじゃないか。

 ぼくは……といえば、記事の見出しに目をやりながらも、どうしても斉藤さんを横目でチラチラと見つめてしまう。

 秒数にすれば、きっと十秒に一回くらい。

 でも、不思議と三回に一回は目が合った。

 雑誌を閉じて、竜宮院は嬉しそうに笑う。

 笑ってるんだよ、これでも。


「未来って、いったいどうなってるんだろうな? 百年後とかさ」


「さあ……どうせぼくたちは、誰も生きちゃいないよ」


「そうかな?」


 竜宮院は小さなコラム記事を指さした。


「コールドスリープで未来には行けそうだけどな。最近実用化されつつあって、日本でも導入されるとかなんとか。『夏への扉』だな」


「何だそりゃ。まだ夏というには早いだろ」


 竜宮院は頭を抱えると、ぼくに聞こえるように大げさなため息をついた。


「これだから教養のないやつは困るよな。お前のことだぜ、山田太郎」


「悪かったな」


 悔しいけど、言い返せない。

 ぼくにできるのはプラモと土いじりだけだ。

 でも、これだって科学なんだぜ。

 お前が言っていたことだよ、竜宮院。

 いつだったか、空気から肥料を作るなんてトンデモ話をしてたっけ。

 ぼくは信じなかったけど、それ事実だったんだよな。

 しかも古典的な。二〇世紀初頭からある技術だ。


 斉藤さんの話だったね。

 花子という名前は、まるで偽名みたいに単純な名前だ。

 まあ、ぼくも人のことをとやかく言えない。

 決して悪い名前じゃんかじゃない。理由はちゃんとある。

 ぼくが生まれた時代の少し前、生まれた子供に難解で誰も読めないような名前を付けるのが流行ったことがあって、その子たちが成長して社会人になった時にすごく困ったらしい。

 たとえば、王子様と書いてぷりんす、とか。

 今では想像もできないけれど、その反動でオーソドックスな名前が増えたんだとか。

 とまあ、それはそれとして。

 彼女はまるで、この殺風景な教室に活けられた一輪の花だ。

 ただそこに居るだけで、何もしなくてもぼくの心は和んだ。

 アイドルみたいに華やかな美人という訳じゃない。

 でも、おかげでずっと眺めていても疲れないというか、肩肘張らなくてもよさそうだよね。

 目が合うたびに、斉藤さんは笑ってくれた。

 ごめん、訂正。やっぱり美人だ。

 授業中にも何度か見たくなって、気がつけば先生が真横に立っていた事もある。

 出席簿の角って、案外痛いものだよ。

 これはどう考えても体罰だと思うんだけどな。

 午前の授業が終わると、また椅子の背もたれを蹴られる。


「お前、なんか今日ボーッとしてるな。やっぱ病気じゃね?」


「そりゃまあ、切腹したもんな。そう簡単に治りはしないよ」


 竜宮院は珍しく肩をふるわせて、笑いを堪えているようだった。


「斉藤花子か?」


「なっ――」


 ぼくは視線をそらし、窓の外を見た。

 トンビが急降下して、カラスを蹴飛ばそうとするけど、カラスは身体を傾けて水平移動でかわず。

 視界の隅からニキビ面がせり出してきた。

 おかしなものを見るような目つきだ。


「ああ、やっぱり」


「なにがやっぱりだよ」


「うんうん、そうだな。お前は病気だよ山田く~ん。間違いない、ハハハ。いやいや、空が青いなあ」


「何を言ってるんだ……」


 不意に竜宮院は唇を真一文字に結んだ。


「だが俺は手伝わない。なぜ手伝わないか? それに気づかないようなやつを手伝う理由なんて、これっぽっちも無いからだ。死ね」


「死ねとか病人に言うことかよ」


 まあいい。ちょっと斉藤さんと話してみよう。

 そう思って、ぼくは急いで弁当をかきこむ。

 城医師にはゆっくりとよく噛んで食べるように言われていたから、あくまでもそれなりにだけど。

 入院前は、昼ご飯なんて五分とかで食べていたからね。

 昼休みは短い。少しでも早く食べなきゃ。

 弁当殻をしまうと、ぼくは立ち上がって教室の後ろを向く。

 斉藤さんの席は窓際の一番後ろ。特等席だ。

 欠席が多いから掃除の時に片付けやすいという理由もあるけど。


「あれ?」


 斉藤さんの席は空席で、横のフックにも鞄はかかっていない。

 帰っちゃったのかな?

 いやいや。もしかしたらトイレかもしれない。

 女の子はどこに行くにも必ず鞄を持ち歩く、って言うからね。

 まあ、例外もけっこうあるけど。

 でも、結局斉藤さんはその日は早退していたらしい。

 花の無い教室はいつにも増して無機質で色が無い。

 いや、それはたぶん心象風景とかじゃなくて、実際にそうなんだな。

 窓ガラスにポツポツと水滴がつき始め、やがて音を立てて雨が降り始めた。

 これで今日の部活はお流れだ。

 副部長のぼくがそう決めた。部長は幽霊だし。


 *


 帰る頃には雨は上がっていたけれど、地面はあちこちに水たまりができていて、やっぱり部活どころじゃない。

 水やりは当然必要ないし、土を耕すにはぬかるんで大変なことになる。

 一度やってごらんよ、二度とやりたくないとおもうから。

 というか、できないから。

 その事を伝えようと、ぼくは階段を上って三階に来ていた。

 やっぱり多少は腹が痛むけど。

 ぼくの学校は三階に一年生、二階に二年生、一階に三年生の教室が並んでいる。

 一年二組の前では、女の子たちがワイワイと楽しそうにおしゃべりをしていた。

 女の子っておしゃべり好きだよね。

 その中の一人が、ぼくの用がある後ろ姿だ。


「ええ~? いいじゃない、たまにはさ~。るなも行こうよ~、カラオケ!」


「でも、部活があるし……」


 彼女は呆れたように大げさな身振りで、両手を上にして肩の高さに上げる。


「部活、部活、部活! るなったら、そればっかり! なによ、女同士のカラオケなんて、行く価値がないとでも? それ、ちょっと悲しいなあ~」


「そんな事はないけど……」


「そんなにその先ぱ――おっと、今日は良い天気ね~。ぬふふ」


 こいつは何を言ってるんだ?

 ぼくが近づいても雲雀ヶ崎は気付かないようだけど、相手の女の子はぼくを見て目を丸くした。

 友達が遊びに誘ってくれるんなら、そっちの付き合いも大事だとぼくは思う。

 だって、ぼくは誰からも誘われないからね。

 ……そうさ、誰からも誘われないからね!

 いや、今はぼくのことはどうでもいい。


「今日は部活は休みだよ、雲雀ヶ崎。それを伝えに来た」


「先輩……」


「お友達がせっかく誘ってくれるんだ。行ってきたら?」


「でも……」


「地面は雨でグチャグチャだし、キミは今までずいぶん頑張ってたじゃないか。たまには羽を伸ばしてさ、行っておいで」


 そう言うと、雲雀ヶ崎は嬉しそうに頷いた。


「はいっ、そうします! その……」


 何か言いたそうにしているけど、やっぱり部活をやりたかったのかな。

 でも、こんなドロドロの地面じゃね。

 ぼくはやりたくないな。

 幸いそれはぼくの勘違いだった訳だけど。


「あのっ、先輩! その、電話番号……教えてくれませんか? こんなふうに連絡事項があるときなんか、その……便利だと思うんですけど!」


「ああ、そういえばそうだね」


 ぼくはその時まで携帯端末の事なんて、すっかり頭から抜け落ちていたんだ。

 だって仕方がないじゃないか、誰からも掛かってこないし、誰にも掛けたことないんだもの。

 自分の番号だって忘れちゃったよ。

 もちろん雲雀ヶ崎の番号も知らない。

 ちなみに本気でどうでもいいが、竜宮院の番号も入ってない。

 ぼくは鞄から携帯端末を取り出すと、ホームボタンを押した。


「ええと、どうやったら自分の番号って出せるんだ? 雲雀ヶ崎、悪いけど自分でやってくれないか。できればキミの番号も登録してよ。やり方忘れちゃったから」


「はあ」


「はあ、じゃないだろ」


 なんだろう、このアウストラロピテクスを見るような目は。

 でもな雲雀ヶ崎、アウストラロピテクスを馬鹿にしちゃいけないよ。

 四〇〇万年前のアフリカ、人類の歴史はそこから始まったんだから。

 彼ら無しに人類の歴史はあり得ない。

 いや、いいんだ。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥って言うじゃないか。


「でも先輩。機械とか、得意なんじゃ……? パソコン持ってるって」


「そりゃあ、ハードウェアに関してはね。ぼくが好きなのは組み立てたりバラしたりだよ。コンピューターの類いって、全部ブラックボックスでしょ。小さなシリコンチップに億単位のトランジスタが並んでいる、それはわかるよ。でも、配線を追いかけてその仕組みを理解する、ということができないからね」


「はあ」


「コンピューターを制御するプログラムにしたって、実際に開けて内容を確かめる、ってことはできないでしょ。その辺が何となく、気持ち悪い」


「あ、何となくわかります」


「キミのほうがこういうの詳しいだろ? だったら詳しい人にお任せだ」


 雲雀ヶ崎はまるで呆れたような表情をしているけど、やがて両手をグッと握りしめた。


「わかりました。でもその、いいんですか? ……るなが中を見ても」


「うん。パスワードを設定してください、ってのをずっと無視してるから。それに、見られて困るものなんて、これっぽっちも入っちゃいない」


「わ、わかりました。この雲雀ヶ崎るなが、先輩のモノリスになります! 今が進化の時ですよね、スペース・オデッセイの幕が開く!」


「何だそりゃ」


 別に顔を赤くするようなことじゃないんだよな、ぼくの場合。

 というか、モノリスだの進化だの、いったい何の話だろう。

 まあいいさ、今のぼくがアウストラロピテクスなら、とりあえずホモ・エレクトス――ジャワ原人や北京原人――くらいになれればそれでいい。

 ワープはいけない。

 空間が歪んで宇宙が崩壊してしまう。

 雲雀ヶ崎はしばらく端末をぬるぬると操作していたけど、やがて顔を上げた。


「先輩……電話帳にご両親の名前しか無いんですけど……」


「そうだけど?」


 言わなくていいから、そんなこと。

 後ろで友達が可哀想な人を見るような目をしてるから。


「るなが初めて、ですね」


「そうだけど?」


 通信機器というか、ぼくはおもに目覚まし時計にしか使っていない。


「メッセージアプリも入れていいですか? LINEとか」


「何それ。まあ、適当に頼むよ」


 どうせ相手がいなきゃ使いこなせないしな。

 ウィルスでなければ何でもいい。

 自慢じゃないが、ぼくは竜宮院に騙されてパソコンを壊した事がある。

 コマンドプロンプトにとある命令を書き込むと、パソコンの中身が全部消えてしまうのだ!

 何が「このメモのコマンドでで良いモノ見られるぜ」だクソ野郎。

 雲雀ヶ崎はそんな悪い子じゃないから大丈夫だ。

 呼び鈴みたいな音がして、画面に『るなです』と表示された。ピコピコ動くハートマークつき。

 絵文字とか文字化けしそうで嫌いなんだよな。

 環境依存文字だぞ。ユニコードで頼む。

 電池切れの警告音が鳴り、端末はシャットダウンした。

 最後に充電したのはいつだったろう?

 周りの奴らは事あるごとに充電、充電うるさいけど、使わなければ普通に何日でも保つんだがなあ。

 もう開放式鉛蓄電池の時代じゃないよ?

 最先端の科学の結晶、リチウムイオン電池だよ?


「充電、切れちゃいました」


 こいつもか。

 どうでもいいけど、ぼくは充電が切れるという言い回しに違和感がある。

 いや言ってることはわかるんだけどさ。

 充電ってあれじゃん。何だっけ。そう、動詞じゃんね。

 『ギガが減る』とか論外だろ! ギガは一〇億という意味でしかない! ……と竜宮院がキレてたっけな。

 そこは同感だ。


「まあ、別に困らんだろ。使わないし」


 なぜか雲雀ヶ崎は悲しそうな顔をした。


「そう……ですか。使わないんですか……」


「用事があれば今回みたいに直接言うしなあ」


 そうすると今度は逆に嬉しそうな顔をするんだ。忙しいやつだな。


「そうですよね! じゃあ先輩、また明日!」


 雲雀ヶ崎は小走りで友達に追いつくと、何やら彼女らに小突かれていた。

 なんか、楽しそうでいいなあ。

 雲雀ヶ崎には友達がいて、羨ましいよ、まったく。

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