第3話 ぼくの復活の日
待ちに待った退院の日が来た。
あの時の女の子には、その後二度と会わなかった。
談話室にも、売店にも、屋上に行っても彼女は居なかったからだ。
「歩くのは良いことだよ。快復も早くなる。どんどん歩きたまえ」
城医師はそう言うけど、ぼくはいつの間にか、あの子を探していたんだ。
そんなんじゃない、なんて自分に言い訳していたけど。
もしかすると退院したのかも。
看護師さんに聞きたくても、名前もわからないからなあ。
気になることが一つ。
あの時は呆気にとられていたけれど、あの子はどうして僕のことを知っていたんだろう?
その事をどうしても聞きたかったんだけど、結局最後まで会うことはなかった。
入院から十日、ぼくはとうとう退院することになった。
久しぶりの我が家は、以前と少しだけ変わって見えた。
そうだ、こんなに長い間家を空けたのは初めてだっけ。何であれ色々な経験をすると、人間成長するもんだ。
「トマトジュース、買っておいたわ」
「マジでか母さん。ぼくはトマトジュースを飲まないと気合いが入らないんだ、ハハハ」
支えてくれた家族にはどれほど感謝しても足りないよ。
帰る家があるって素晴らしい。
大好物のドリンクを飲みながら、ぼくは部屋のドアを開いた。
棚の飛行機プラモコレクションが目に入ると、やっぱり帰ってきた実感がわくな。
零戦、隼、ムスタングにスピットファイア……うん?
「……そ、そんな」
なんだよこれ! どうなってるんだよ!
クラスメイトに融通してもらったぼくの秘蔵エロ本コレクションがきれいに――しかもていねいに巻数順に、いやそれどころか著者名五十音順に――整頓されて机の上に重ねられている!
ちゃんと本棚の裏に隠しておいたのに、どうやって見つけ出したんだよ!
母さんに言いたいことは色々あるけど、さすがに言えるものじゃない。
いやでも家族にだってプライバシーってものがあるんだ!
なんなんだ、まったく!
ぼくはリビングに駆け戻った。足がとんでもなく遅いが今はそれどころじゃない。
「母上! ぼくは訴訟も辞さぬ!」
「バカ言ってないで部屋くらい片付けな! 普段から言ってるでしょーがっ!」
*
ぼくが訴訟を断念したので、母さんはいつも通りぼくを見送る。
「あんまり無理するんじゃないよ。病み上がりなんだから」
「わかってるよ。行ってきま~す」
いつもと同じ景色。
見慣れた制服の一段がすし詰めになったバスに乗ると、吐き気を催す男臭に本気で反吐が出そうになりつつも、学校前で降りる。
くそう、もう一本早いバスならこんな不快な思いをしなくて済んだのに。
つか、うるせえよこいつら。
犯罪自慢とか、昭和かよ。
ぼくの学校は地域で二つしか無い公立高校だから、生徒の質は玉石混淆。
出来の良い生徒もいれば、こいつらみたいなのも居る。
ぼくは……まあ、普通といえば普通かな、成績に関しては。
明日から違うバスにしよう。
久々の学校はいつもと全く変わらなくて、まるで僕のいない十日間なんて無かったようなものだ。
だから困る。
春のクラス替えで一緒になった新しいクラスメイトたちは、じつによく馴染んでいるようだ。
ぼくは完全に出遅れてしまった。
入院したのは新年度になってすぐ。
右を見ても左を見てもグループができあがり、見事にぼっちの完成だ。
「あ~あ」
思わず机に突っ伏すと、椅子の背中を後ろから蹴られる。
「何を景気悪い声出してんだ、切腹太郎」
切腹太郎ってなんだ? ぼくのことか?
ぼくのことだな。うん、他にそんな人はいない。
「いやだって、せっかくクラス替えなのにさ、最初の最初で出遅れたら気まずいもんなんだよ。見ろ、あっちこっちでグループができてるだろ」
後ろの席の
悪いやつではないけど、ぼくとの相性はあまり良くない。
まあ、悪いやつではないんだけど。
「あのなあ山田。そういうことはゴールデンウィーク前に言おうな?」
「時間というものは相対的なものだ、ってお前が言ってたんだぞ」
意味はよくわからないけどね。
藪蛇になりそうだから言わないけど、こいつだって友達居ないよな。
「俺じゃなくてアインシュタインな。まああれよ、どっちにせよお前さんじゃあ、アイツの前じゃ単なるゾウリムシってもんよ」
「アイツ?」
ゾウリムシとは心外だな。ダイオウグソクムシならともかく。
あれ、格好いいよな。
竜宮院が死ぬほど不機嫌な顔で教室の入り口を指さした。
気がつけばいつの間にか、教室が黄色い声でざわめいているのに気付く。
入ってきたのは一人の男子生徒だ。
「誰だっけ?」
「お前はもうちょっと周囲に興味を持て。だから友達が居ないんだよ」
「すまん」
そうかあ、こいつ友達じゃないのか。
地味にショックだな。
去年も同じクラスだったけど、よく話すようになったのは年末くらいからだ。
竜宮院はニキビ面を歪ませた。
「
「なるほど。そりゃ面白くないな」
確かに槍ヶ岳はスポーツマンで背も高いし、女子からの視線を独り占めする程度には顔も整っている。
古今東西、モテる男ってのはああいうもんだ。
嫌なやつと同じクラスになったもんだな。
でも、それは偏見というものだ。
確かにスポーツマンは嫌いだけど、案外良いやつかもしれないぞ。
竜宮院は眉間にしわを寄せて舌打ちした。
「二十三人」
「何が?」
「去年あいつと付き合った女。平均して三股、最大五股ってのを自慢してたな。卒業までに百人斬りを目指すんだと。昨日楽しそ~に言ってたぜ」
「へえ、そりゃひどいな」
女の敵だと同時に男の敵でもある。
つまり、人類の敵だってことだ。
というかさ、野球部なら髪切れよな。
前髪邪魔だろうに。ワックスで帽子汚れるだろ。
「まあ、どっちにせよ。お前にゃ関係の、ない、話だ。よッ!」
竜宮院がぼくの背中を乱暴に叩くと、衝撃が下腹部に伝わり、思わず顔をしかめてしまう。
「すまん、大丈夫か?」
「大丈夫……傷は塞がってる。……はずだ」
「普通に歩いてるから、このくらい大丈夫だと思っちまった。悪気は無いんだ。ちょっと苦しめたかっただけで」
「ああそうかい、なんてやつだ」
予鈴が鳴り、担任が入ってくる。
まずはホームルーム。
担任はぼくが復帰した事には一言触れた程度で、何事も無かったように通常業務に戻った。
なんかこう、もう二言三言あってもいいんんじゃないか?
確かにぼくはあんまり優秀な生徒という訳じゃないかもしれないけどさ、それでも授業妨害とか一切やらない、ごく普通の生徒なんだぜ? ……ああ、だからか。
いくつか連絡事項を伝えた後担任は出て行き、ぼくたちは一時間目の準備を始めた。
「おっと、失礼」
ぼくはプウ、と屁をこく。
「てめえ! 俺の真ん前で屁をこきやがって!」
「そういう病気なんだから仕方がないだろ。手術の影響でガスが溜まるんだ。絶対我慢するな、って言われてる。それに言っただろ。失礼、って」
「ぐぬぬ……」
竜宮院は悔しそうにしていたけど、それ以上言い返してはこなかった。
まあ、半分はわざとだ。ガスはとっくに抜けている。
さっきの仕返しだ。
ふと、気づく。教室の窓側、一番後ろの席が空いていたんだ。
「なあ、竜宮院。あの席って……」
「ああ、
「ふうん……」
先生が入ってくる。
一時間目は苦手な数学だ。
ただでさえ苦手なのに、一週間も休んだので色々と苦労しそうだ。
なんかこう、ロボットが代わりにやってくれないものかね。
*
そんなこんなで、ぼくの学校生活は再開した。
でも、まだまだ万全って訳じゃないから、体育の授業は見学だし、部活もできない。
それでも退院の挨拶をしようと部室――あるいは物置とも言う――のドアを開く。
「あっ、先輩! もういいんですか!?」
「まあね」
ジャージ姿で先に来ていたのは、一年生の
園芸部の新入部員。
ありがたいことに、勧誘もしてないのに入ってくれた貴重な部員だ。
それも、入学式の翌日に。
どれだけやる気に満ちているんだか。
なんか「自分を変えたい」とか言ってたな。何のことやら。
ちょっと変わった子で、ぼくにはただ綺麗だなあ、としか思わない花を、やたらに凝った言い回しで表現したりする。
たとえばガーベラなら『乙女の亜麻色の髪に差してそう』とか。すげえ。
花言葉にも詳しいけど、ぼくは何も知らない。
繰り返すけど、花は綺麗だなあ、としか思わない。
あとは食べられるか食べられないか。
よく菊をおひたしにして食べるんだ。ポン酢がいいぞ。
でもぼくは先輩だから、そんな情けないことは言わないけどね。
ちなみに中学が同じだとか。
ぼくは覚えていなかったけど、雲雀ヶ崎はぼくを知っていたらしい。
どこの部も新人集めは大変だから、すごく助かってる。
けっこう可愛いし、栗色がかった肩までの髪はサラサラ。
制服だとあまり目立たないけど、こうして体操着になると胸がかなりあるのがわかる。
顔だって新入生の中じゃ一番だ、って話だ。
なんでこんな地味な部にはいっちゃうかなあ。
体力もけっこうあるし、華やかで賑やかなチア部とか向いてそうなんだけどね。
……いや、そんなこともないか。
そこの女たちとぼくは極めて相性が悪い。
スポーツマン、それも結果を出している人以外は人間じゃない、と割と本気で思っている連中だ。
結果の出ない運動部や文化部をゴミみたいな目で見てくるし、聞こえるようにあからさまな悪口を大声で言ったりする。
確かに、雲雀ヶ崎には向かないだろう。
あんな部に入ったら絶対に酷い目に遭う。
お局様が幅を利かせてるらしいしな。
ただ、一度くらいはチア姿を見てみたい気もする。
見た目だけなら絶対似合うはずだ。
「万全、って訳じゃないけどさ。とりあえず歩くことはできる、って程度」
「痛くないんですか?」
「痛いよ。まだね」
普通にしているぶんには問題ないけどね。
でもやっぱり、不用意にクシャミでもしようものなら、しばらくしゃがみ込む程度には痛む。
「そうですか……。じゃあ、しばらくは見学ですね」
うちの部活は体育会系じゃない。
試合もなければ、前時代的、封建的な上下関係もサディズムに満ちあふれた歪んだ愛のシゴキもない。
そのかわり、参加の強制もないから幽霊部員がやたらに多くて、まともに部活をやっているのはぼくと雲雀ヶ崎だけだ。
ほかの幽霊部員たちも、ほとんどが体育会系崩れで、遊ぶのに忙しくて一度も来たことはない。
まあ、いても邪魔なだけだけど。
文化系といっても土や水を運んだり、腰をかがめた姿勢が続いたりと、下手な運動部なみに身体を使うけどね。
おかげで高校に入ってからけっこう体力は付いたかな。
今はすっかりなまっているけど。
「世話をかけるなあ」
「任せてください! 先輩のジャガイモ、ちゃんと世話してましたから!」
「はは、ありがとうね。なんか悪いね、どうせなら食べられるものがいい、と思っただけなんだけどな」
「でも、ジャガイモの花はきれいですよね。誰も気にしませんけど、るなはちゃ~んと知ってるんですよ」
「そうそう。わかる人だけにわかる、ってやつ」
あ~あ、また格好付けちゃった。
正直を言うと、ぼくもジャガイモの花そのものにはあまり興味が無かったりする。
でも、そんな視点もあるんだな、と感心した。
園芸部が使う花壇はそれほど大きなものではなくて、二〇メートル四方の小さなものが四つほどあるだけだ。
入学式や卒業式、教職員の退職なんかで供出を迫られる以外は、事実上その花壇をぼくたちが好き放題できる、というわけだ。
「畑のほうはどう?」
雲雀ヶ先はまん丸な目を寂しそうに伏せた。あ、泣きそう。
「どうかした?」
「その、最近お花泥棒が多くて」
「やれやれ、また運動部のやつらか。しょうがないな」
「しょうがない……ですか?」
「あまりにも目に余るようなら考える。ガツンと言ってやるさ」
あ、笑った。よかったあ……。
雲雀ヶ崎は入ったばかりだから、知らないのも無理はない。
忌々しい運動部のやつらが地区大会に出るから、あるいは負傷した部員の見舞いだ、と花を分捕っていくのだ!
何様のつもりだ、まったく。
せめてぼくに一言声を掛けろってんだ。でも。
ぼくは雲雀ヶ崎に目をやる。
いかにもおとなしそうで、言いたいことをなかなか言えないタイプ。
……のように見えて、実際その通りだ。
少なくとも、ぼくに対しては。
でも実際はどうかな?
女の子ってのはわからないもんだからな。
まあそれはともかく、業者にわざわざお金を払わなくても花が手に入るとあれば、学校としても部費を出すのにやぶさかではないんだろう。
ケチだとは思うけど、ぼくの生まれるずっと前から日本は貧乏国になっているらしいから、仕方がないといえば仕方がない。
昔は豊かだったと大人たちはため息をつくけど、ぼくたちは生まれたときからこれが普通だし、いまいち実感がわかないんだよね。
「しばらく迷惑かけるけど、ごめんね。悪いけど頼めるかな」
「はい、任せてください。先輩のお役に立ちたくて、カレル・チャペックの『園芸家十二ヶ月』も読みました!」
「へえ、そりゃあ頼もしいな。カレル・チャペックって誰? 外国のタレント?」
「チェコの作家で、ロボットという言葉を最初に使った戯曲の作者です」
「そうなんだ」
「――うれしい雨。ひやひやした水の、なんというこころよさ。わたしの魂に水をあびせておくれ……えへへ、なんちゃって」
ポエムだ。まあ、夢見るお年頃だもんな。
雲雀ヶ崎も恥ずかしそうだ。
ガーベラやチューリップの畑を見ると、やはり少し花が減っていた。
あのあたりは雲雀ヶ崎が世話をしている。
「そうそう。花を持ってお見舞いに来てくれたの、きみだろ。ありがとう」
雲雀ヶ先は祈るように両手を組むと、ぼくを見つめながらかぶりを振った。
どうしてだろう、泣きそうなのを堪えているように見える。
何か変なこと言ったかな。
「気付いてくれたんですね……」
「まあ、他の人はほとんど幽霊部員だし。そもそもフラワーアレンジなんて、できる人は他にいないしね。雲雀ヶ崎が入ってくれて、助かってるよ」
ぼくなんかはただの自己満足で、ああ花が咲いたなあ、きれいだなあ、くらいにしか思わない。
でも、この有能な一年生は花と花、あとは緑を組み合わせて、花屋にも引けを取らない立派な花束を作ることができる。
去年までは適当に切って適当に――繰り返しになるけど本当に適当に――インシュロックで束ねるだけだったからね。
インシュロック、知ってる? おもに電気配線を束ねるのに使われる結束バンドの商標だよ。
この春に卒業した先輩が「こんなの適当でいいんだよ、どうせ誰もわかりゃしないんだから」といってギチギチ締めてた。
だからぼくもそれに倣っていたんだけど、やっぱりセンスが無いとこき下ろされてしまった。
しらねえよ、もう。
「こちらこそ、ありがとうございます。あのっ……」
「うん?」
「あのっ、るな、園芸部に入ってよかったです……!」
その視線に、ちょっとだけ……そう、ちょっとだけドキッとする。
なんだこの可愛いの。
何かに似てる。ああそうだ、ジャンガリアン・ハムスターだな。そっくりだ。
小さい頃、ぼくにも妹が欲しい、って母さんに頼んだことを思い出す。
母さんはなんか複雑な顔してたっけ。
もし妹が居たら、きっとこんな感じなのかな。
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