後編


 次の登校日、委員長が欠席した。


 なんでも、リスカしようとした後輩をなだめていたら怪我をしたのだとか。教師が言葉を濁したから噂だけど。


 夏休み明けも彼女は登校しなかった。


 なんでも、道路に飛び出した会社員の腕を引いて交通事故に巻き込まれたのだとか。全治二週間の怪我らしい。


「彼女にお見舞いメッセージを贈ろうよ」


 そうクラス委員が声を上げたのは、課題テストが終わった日。クラスから反対の言葉など上がる筈もなく、数日でメッセージは集まったらしい。俺を除いて。


「君も書いてよ」


「それ強制?」


 クラス委員の引きつった顔と、教室のピリついた空気は忘れない。


 俺がメッセージを書かないでいれば、俺抜きの贈り物が委員長には届けられたらしい。


 退院して登校した彼女は前よりも痩せた気がして、それでも変わらず、大人っぽく笑っていた。


「気を付けなきゃダメだよ」「大事にならなくてよかった」「会社員の人も助かったんだってね」「課題とかノート見せるよ」「体調はもう大丈夫?」「人を救うなんて凄いよ」「ほんとに凄い」「立派だよね」


「ありがとう。あの人が、無事でよかったよ」


 登校した彼女は見ず知らずの人を救ったヒーローになった。警察にも表彰されて新聞に載っていた。彼女は怪我をしたのに。その点は伏せられたのだからマスメディアの情報も信用ならないな。


 勇敢な女子高生がいました。素晴らしい事です。みんなも知ってください。彼女の善行を称えましょう。


 全校集会で改めて表彰された委員長が、壇上で拍手に包まれている。


 俺は一人拍手することなく、お辞儀した委員長に見えている景色など想像もしたくなかった。


 彼女の黒い目は今日もクラスメイトの頭の向こうを見ていた。その目元には薄い隈がある。昼の弁当箱のサイズも小さくなってた。それはダイエットではないんだろう。


 夏服から合服に変わる頃、生徒の服装の風紀は乱れ気味になる。今日も俺と委員長は校門に立って目を配った。風紀委員の一年が何人かやる気を出したらしく、もう二人だけの嫌われ役ではなくなったのだが。


「委員長に憧れちゃって」「凄いですよね、表彰もされて」「生徒会にも推薦されてるんですよね」「いるんですね。あぁいう凄い人って」


 本人には言わず、一緒のクラスの俺に向かって一年生は目を輝かせている。憧れの言葉は風に乗って本人にも伝わるんだろうけど。言葉は簡単に人の間を通って行くから、流されやすい彼女に届かない筈がない。


 大人に褒められ、同級生に称えられ、学校中で知らない奴がいなくなった風紀委員長。


 俺は、緩やかな檻が形成されていく風景を見ている気分だった。


 羨望も噂も時間が経てば空気が流してくれるのに、彼女についた〈凄い人〉というレッテルだけは剥がしてくれない。彼女の〈いい人〉というタグだけは風化しない。


 勇敢な人になってしまった彼女は、相変わらず弱った奴の味方だった。


「なぁ八方美人」


「それ、誉め言葉ではないよ?」


「明日学校サボろう」


「サボらないけど」


「じゃあ全校集会だけサボろう」


「明日は生徒会選挙だよ」


「だから、サボろう」


 夕暮れに二人で荷物を纏めるのは変わらないルーティーンだった。彼女がどれだけ有名になっても、彼女自体は変わらなかったんだから。


「サボらないよ」


 だから、彼女が俺の言葉に頷かないことも分かっていた。


 明日、彼女は生徒会役員の選挙をして、承認されて、風紀委員長と兼務することになるんだろう。普通に考えて兼務なんてオススメされないのに、彼女だからってことで生徒も教師も甘えやがった結果だ。


 それを彼女も断らないから、次の日の生徒会選挙は普通に行われたし、委員長は立派に弁論していた。生徒会と風紀委員の兼務になるが、どちらの立場からも学校をよりよくしていけるよう尽力するらしい。やめとけ馬鹿野郎。


 俺はまた、壇上にいる彼女に拍手をしなかった。


 他の立候補者と並んだ彼女の顔色は健康的とは言い難い。夏が終わりに近づいていると言っても白過ぎだ。


 俺の肺では今日も重たい言葉が湧き出て、奥歯で噛み砕く気もなかった。


 このまま固く吐き出して、いっそ委員長が傷つけばいいのに。誰かを助ける気力も湧かないくらい、再起不能になればいいのに。


 拍手を貰う彼女を傷つけたい。凄い人になった彼女の足を引っ張りたい。


 いつでも嫌な言葉を吐きだす準備をした俺は、ふと壇上にいる彼女の表情が変わった事に気が付いた。


 集会が解散になって人が多く動く中。風船が見えると言う彼女は何を発見したのか。


 他の役員よりも足早に彼女はステージを下りた。顔の色をより悪くして、そのまま体育館の出入り口から飛び出していく。


 俺は自然と人をかき分けて彼女を追いかけ、揺れるポニーテールを見逃さなかった。


 まだ蒸し暑さの残る空気の中、走る彼女は校舎に飛び込む。俺は委員長の先を走る誰かがいると気がつき、一気に階段を駆け上がる彼女の背を追った。


 特別教室が集まった校舎には誰もいない。三人分の足音はよく響き、俺は三階の踊り場で委員長の腕を捕まえた。


「ッ離して!」


「なに追ってるんだよ!!」


「あの子、あの子がまた、しんどそうだからッ、元気がないから!」


 委員長の目元が赤くなり、息が上がっている。首元に軽く汗をかいている彼女から目を離した俺は、上に続く階段で立ち止まっている誰かの上履きを見た。


 上履きのラインの色は、後輩だと示している。


『なんでも、リスカしようとした後輩を宥めていたら怪我をしたのだとか。教師が言葉を濁したから噂だけど』


 夏休みの噂を思い出す。


 後輩が学校に復帰した噂も風に乗っていた。


 俺のこめかみが急激に熱を帯びる。


 かと思えば無意識のうちに、口に溜まっていた毒を吐いていた。


「テメェの欲求でコイツを巻き込んでんじゃねぇぞ!! 優しくされたきゃ他を当たれよ、かまってちゃんが!!」


「まッ、やめッ!」


「自分の気持ちばっかり優先しやがってッ、それで委員長が潰れたら責任取れんのかよ!! おい!!」


「やめてって!!」


 委員長が俺の二の腕を掴んで声を荒げる。彼女は俺の背後を見た後、慌てた様子で階段を上がろうとした。


 だが、俺が彼女を離さないから進めない。委員長の細い手は目一杯俺の腕を離そうと引っ掻いたが、そんな力で引き剥がせるわけねぇだろ。


「そんな、つもり、なぃのに……」


 消えるような泣き声がして、上の階から下りてきた女子生徒を俺は発見した。顔を拭う仕草を見せた後輩は俺達の方には来ず、校舎の反対側の階段に向かって駆け出した。


 足音は徐々に小さくなり、委員長の力も弱くなる。


 俺は彼女の腕を離さず、委員長の呼吸は浅くなっていた。


「なん、で、」


「あ?」


「あの子、ぜんぜん風船に元気なくて。引きずりそうで、危ないのに! あ、あんなキツい言葉!!」


「ンなの知らねぇけど」


「な、はッ、君って奴は!!」


 見開かれた委員長の目が潤んでいく。


 黒目が大きく揺らいで、次の瞬間には、決壊した。


 大粒の涙が頬を伝い、手の甲で口元を押さえた彼女の表情が崩れていく。眉間には悔しそうな皺が寄り、嗚咽が踊り場に木霊した。


 俺は掴んだ腕に力を込めて、震える委員長の言葉がささくれ立つ。


「君が、私を嫌いなのは分かってるよ!! でも、それなら放っておいてくれたらいいじゃないか! 私が何しようと見ないでくれたら、よくてッ! わざわざ絡んで、嫌味を言う意味なんてないだろう!!」


「それ言うなら、委員長が他の奴を構う意味もねぇだろ。どうせ全員勝手にやる気無くしてんだから、そこでお前が頑張る意味なんて!」


「見えるんだから放っとけないって言ったじゃないか!!」


 俺の言葉を初めて委員長が遮った。ボタボタと重たい涙を溢す彼女は、しゃくりあげながら頬を雑に拭っている。


 こっちの肺に、どんな言葉が溜まっているかも知らないで。


「風船が、見えるんだッ! 元気が無くて、萎んで、今にも引きずられそうな風船が!」


 泣き声なのか叫び声なのか。堰を切った言葉は悲鳴のように、俺の耳を引っ掻いた。


「君には見えないんだろ、他の誰にも見えないんだろ!! だったら、だったら見える私が、私がッ」


 俺が見えない風船に振り回されて、摩耗した八方美人。


 彼女は俺の腕を殴り、がなる言葉も俺の鳩尾を叩くのだ。


「見えてる私がやらなくて、誰が気づいてあげられるって言うのさ!!」


「俺にはお前がしんどそうな姿しか見えねぇんだよ!!」


 彼女の睫毛で涙の滴が弾ける。


 握り締めた委員長の腕は細すぎて、このまま折ってしまおうかという感情が湧いてきた。


「お前が見えてるものは俺には見えねぇよ。俺は! 今、目の前で!! 泣いてるお前しか見えてない!!」


 彼女の腕を揺すって目を合わせる。俺の後ろを見るな。俺を見ろ。俺の目を見ろ。俺がお前を見ているように。


 涙で輝く黒い目に俺が映る。その瞳を通したって、俺には自分の風船なんて見えなかった。


「あぁ、もういっそ、そんな目、捨てちまえよ」


「捨て、られるわけ、」


「なら、元気のない風船なんて見ないフリしろよ」


「それも、そんな、私は!」


「お前は!!」


 優柔不断な八方美人を黙らせる。唇を噛み締めて泣いている委員長は、真っ赤になった鼻をすすっていた。


「自分の風船、ちゃんと見ろ。見えてるなら、自分のを一番、見ないフリしてんじゃねぇぞ」


「ッ、」


「俺にはやっぱり風船なんて見えないけど、想像くらいできる」


 委員長が俺の手の甲に爪を立てる。俺が握っている腕は痛いんだろうって思うけど、彼女の爪も相当痛かったのでお相子だ。


「引きずりそうなの、お前だろ。流されすぎて、紐、絡まってんじゃねぇの」


 委員長は、嗚咽を噛み締めた。俺の手の甲も縋るように掴んで、膝はゆっくり曲がっていく。


 俯いて泣きじゃくる彼女につられて俺も膝を着き、踊り場には抑え込まれた泣き声だけが響いた。


 俺は肺から重たい溜息を吐き、委員長の手を軽く叩く。


「そんな奴を、応援できるかよ」


 チャイムが鳴る。俺達が終礼に遅刻するのは確定されたが、どうでもよかった。


 これで委員長に少しでも悪い印象がつけば最高だ。


 俺は委員長の嗚咽を聞きながら、コイツの風船はどうすれば元気になるんだろうかと目を伏せた。


 ***


「どの新作を注文するか決めた?」


「メロンフラッペ……いや、でもモンブランも絶対美味いよな」


「私はどっちも頼むよ」


「マジかよ」


「バイト代入ったから」


 ぐだぐだとカフェのメニューを決められなかった俺の横で、委員長はさっさと注文を済ませてしまった。俺は先日、別のカフェの新作に負けたので今日はフラッペだけで我慢だ。畜生。


 商品を貰って二人で席につけば、委員長は容赦なくモンブランを真っ二つにする。かと思えば皿を机の真ん中に置いたので、俺は音を立てて新作を飲んだ。美味いな……。


「なにこれ嫌味?」


「半分あげるっていう優しさを勘繰るのやめなよ」


「……マジ?」


「君って本当、私のこと信用しないよね」


 笑った彼女はモンブランの半分をちょっとずつ食べていく。俺は暫くモンブランを見下ろし、フリースペースにあるフォークを取って来た。


「いただきます」


「どうぞ」


 欲しかったものを頬張れた俺は味に集中した。やっぱ美味い。でもなんかちょっと気恥ずかしい。だから委員長の顔を見なかったのだが、時間と共に気になり始めたので視線を上げてしまった。


 彼女の黒い目は今日も俺を見ていない。俺の後ろに視点があって、目元は微かに緩んでいた。


「……何見てんの」


「君の風船」


「緑色の?」


「そう」


 彼女が眉を下げて笑う。知らなかったが、この笑い方は別に何か困っている訳ではないらしい。普通の笑い方だとか。紛らわしいな。


「元気になったね」


 メロンを食べた彼女は満足そうに外へ視線を向ける。その目は俺には見えないものを今日も追っているんだろう。


「社会勉強がしたいので生徒会辞退してバイトさせてくださいって、後にも先にも委員長しか言いそうにないよな」


「あと普通に風紀委員長との兼務はやっぱり厳しいですって言ったら許されたよ。……私を役員で承認してくれた人には恨まれてるかもしれないけど」


「みんな、生徒会になんてそこまで意識向けてねぇって。風紀委員にも」


「……そっか」


「そーだよ」


 俺は勢いよくフラッペを吸い過ぎて喉に刺激を感じる。眉が中央に寄ったと自覚していれば、委員長は声を漏らして笑っていた。


 睨んだら素知らぬふりしてモンブランを掬っているのだから、コイツはやっぱり無駄な落ち着きを持ってやがる。


「今日も世界はカラフルかよ」


「カラフルだよ。君は知らないだろうけど」


「見えないからな」


「見たい?」


「見たくない」


「そっか」


「サングラスとか買えば? そうすれば少なくともカラフルではなくなるだろ」


「サングラスって」


 鼻で笑った委員長は「似合わないだろうね」とストローを遊ばせた。俺も彼女にサングラスは似合わないだろうと思ったが、同意するのも癪なのでメロンを噛んで黙っておく。


「色が無くても、元気がないのは分かってしまうよ」


 委員長の長い睫毛が下を向く。俺の肺には面倒くさい粘度を持った言葉が湧き、音を立てて飲み物を吸った。


「またお前が我慢できなくて走り出そうとしたら、今度は首根っこ掴んで止めるからな」


「手荒だね」


「猪突猛進の八方美人を止めるにはその手しかねぇだろ」


「また酷い言いようだし」


「色んな所に目移りして、勝手に疲れる奴を褒められると思ってんのかよ」


「……たしかに?」


 首を傾けた委員長がフラッペを飲む。最近は少しだけ顔色がよくなったらしいが、まだまだだな。


 俺と話していても違う場所に視線が動いてることがあるし、黙って他人を見つめていることがあるし。そういう所があるから、俺はやっぱり委員長を傷つけたかった。


 自分のことしか考えられなくなればいいのに。自分を元気にするのに必死になればいいのに。


 だから、いま出回っている噂が早く委員長に届けばいいと思っていた。風の噂を拾え。根も葉もない噂で困惑してしまえ。


 俺が委員長を見つめていれば、彼女の黒目は一瞬だけ俺と視線を合わせて、すぐに別の場所を向いた。


「見つめられると困るな」


「そうかよ」


 明日は嫌われ役を担う曜日。風紀委員が校門に立つ日。俺達が並んでいれば、勝手に噂の信ぴょう性は増すのだろうか。


 風紀委員長と副委員長は付き合っているらしい、なんてさ。


 まったくもってそんな関係ではないのだが、それで少しでも委員長の足を引っ張ることができれば万々歳だ。


 俺が相変わらず委員長を見ていれば、彼女は微かに困った表情になっていた。


「……明日もよろしくね? 副委員長」


「こちらこそよろしく、委員長」


 俺はフラッペを飲み切る。


 委員長の分はまだ残っているので、席を立つのはまだ先だ。


――――――――――――――――――――


少年は、自分に見えないものを見ている彼女を見ていました。彼女の姿を見ていました。


同じ視界を共有できなくても、理解できなくても、彼女が疲れているのは一目瞭然だったから。


凄い人になりかけていた彼女と、彼女を引きずり下ろした彼を見つけてくださって、ありがとうございました。


藍ねず

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君を救世主にはさせない 藍ねず @oreta-sin

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