第8話 冥王ハーデス

 突如として空が暗くなり、雷鳴が天地に轟いた。すると大地が震動して裂け、そこから一柱の神が現れた。ハーデスである。

「ハーデス様!」

 大きな体に長い髭をたくわえ、左手には二叉槍(バイデント)を携えていた。その荘厳で威厳のある佇まいに、四人は思わず平身低頭した。

「まぁ、そう畏(かしこ)まらずともよい。話は聞いていたぞ、さてタナトス」

「はっ」

 タナトスは額から吹き出る冷たい汗を拭おうともせず、ひたすら下を向いていた。

「聞いていたぞ。そなた、我が妻に惚れておったのか」

「……弁解の余地もありません。覚悟はできています」

「まぁよい。ペルセポネーはそれだけ魅力的だということだ」

 そういうと意外なことに、ハーデスはタナトスに優しく微笑んだ。

「ということは、お咎めなしということでよろしいですか? 」

 ハーデスは上機嫌で頷いた。何かがおかしい。全員がそう訝しんだ。

「まぁよい、すべて許そう。ペルセポネーと母のデメテルも見つかったことだしな」

「ええっ!どこにいらしたんですか? 」

 ハーデスはゴホンと咳払いした。

「あぁ、それなんじゃが、そこの娘たち、アイカとユイカとか言ったか?人間界のその娘たちの国日本(ヤポーニャ)で、二人して人間に化けて『しょっぴんぐ』してたらしい。

「はぁ? 」

 一同は驚きの声をあげた。

「なんでも今、西欧人に人気の築地(ツキジ)と秋葉原(アキハバラ)で寿司を食べて推し活してきたんだとか……」

「……」

一同、絶句。

 モルペウスの様子がおかしい。落ち着きをなくしてそわそわしている。

「時に、モルペウス。お前が日本(ヤポーニャ)のことをニンフ(妖精)たちに話してくれたおかげで二人とも日本に行く気になったそうだ。礼を言うぞ。そなたがかの国で『かふぇ』を開いているのも頷ける」

(この前と言ってることが全然ちがうじゃないか……)

「それは何よりでございました……」

 モルペウスは毒気を抜かれて脱力しそうになったが、なんとか言葉を絞り出した。

ハーデスはタナトスに向き直ると緩んだ顔を元に戻した。

「さて、タナトス。察するにお前はこのアイカという娘に我が妻ペルセポネーを重ねていたのだろう。無理もない。精神(こころ)は清らかで瞳には一点の曇りもない。加えて春風を運んでくるような愛らしさ。だがお前は死神としての責務を全うしなければならないし、善良な死者である彼女もまた、天界に戻らねばならん」

「御意」

 タナトスもハーデスも頷いた。

「冥界と天界は表裏一体。本当は同じ場所にある。だがタナトスと儂はすぐにでも冥界に戻らねばならん。モルペウス、そなたにその二人の娘を頼んだぞ」

 それだけいうと、ハーデスとタナトスは瞬時に姿を消して冥界に戻っていった。

「愛花どの、結香に最後に伝えたいことは無いか?」

 愛花は結香に歩み寄った。

「愛花、わたしのバイオリンを受け継いでくれてありがとう。でも無理して弾かなくてもいいのよ。チェロでもバイオリンでもあなたが好きな楽器をすきなだけ弾いたらいい。自由に音楽を奏で、自由に恋をし、そしてどこまでも自由に生きて。あなたの姉として生きてきた十六年間、楽しかった。」

「ありがとう、愛花。私もあなたの妹に生まれて幸せだった。あなたを忘れないわ、ずっと……」

 モルペウスは静かにじっと二人を見詰めていたが、別れの時は刻々と

近づいていた。

「お別れは済んだかい?愛花どの、では俺があなたを天界に連れて行こう」

 そういうと、モルペウスは二つの翼を広げ愛花の手を取った。

「いいかい結香、この『精神の泉』の水を飲むと、君はこの夢で経験した全ての事を忘れる。俺が君の夢の一部を貰うと言ったのは、そういう事だ。この夢に纏(まつ)わる、君の悲しみと苦しみの記憶は俺が責任をもって貰い受けるから」

 モルペウスは祭壇に流れる水を水晶の容器に入れて手渡した。結香はその水を受け取り、こくり、と頷いた。

俺が『目覚めの呪文を唱えると君は三つ数えるうちに目覚めて人間界に戻る。ここはただの夢ではない。夢魔(むま)とセイレーン(妖精)の支配する、目に見えないもう一つの世界だ。移動の瞬間、虹色の異空間トンネルを通るが、絶対に後ろを振り向いてはいけないよ。振り向けば二度と現世に戻れず、異空間を漂うことになりかねない。さあ目その水を飲んで目を瞑って』

 結香は泉の水を飲み、目を瞑った。

「エクサイテラ・ソムノ!」

 その瞬間、結香を包む空間は柔らかく歪み、風に煽られて宙に浮かぶように舞い上がった。

(さようなら、愛花。さようなら、モルペウス)


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