いろくず

舎まゆ

第1話

 ぐい、と手を引かれた感触に、まなぶくんは顔を上げました。少年の手を引いたのは彼の父親で、穏やかな笑みを向けています。

「道の真ん中は、歩いてはいけないよ」

 優しく諭され、学くんがよくよく辺りを見渡してみるとたしかに、皆かたくなに道の端を、ころころとした小石が敷き詰められた道の端っこを歩いていました。後ろを振り向けば母と妹がいて、ピンク色のかわいらしい和装を着た幼い妹が好き勝手に歩き回らないようにがその小さな手をしっかりと繋ぎ止めて、歩幅を彼女に合わせているのです。

「どうして?」

 学くんが不思議に思い、父に問いました。すると彼は頷き、この道の真ん中は神様がお通りになる道だからだよ、と答えました。

「神様」

「そう、今から神様にお参りに行くんだ。学も、きちんと行儀良くしているんだよ」

「お参りって何をするの、お父さん」

 学くんは、〝お参り〟を何度かしたことがあります。その言葉を聞いて一番に思い出すのは、お正月に両親に人々のごった返す神社に行った時のことです。しかし今日は秋の暮れゆく十一月。お正月のお参りには一月半ほど早いのです。

「今日はゆいちゃんのことを神様にお願いするんだ。ゆいちゃんがずっと健康で長生き出来るようにしてくださいってね。学も、袴を着てここにお参りしただろう?」

 たしかに随分と前、少し肌寒くなってきた頃に早起きをさせられ、袴を着させられてここにつれてこられました。まだ妹――ゆいちゃんは生まれていなかった筈です。早起きしたものだからひどく眠たくて、神社にある大きな建物の中で真っ白い和服を着たおじさんが低く唸るような声で呪文のようなものを唱えているのを聞きながら、うつらうつらとしていたのも学くんは思い出しました。

 それと同じならばきっと、今日もあの白い和服を着たおじさんが低く唸っているのをうつらうつらと聞いた後で、帰り道に何かおいしいものを食べるのでしょう。

 歩くたびに、足下に敷き詰められた丸い石たちがじゃ、じゃ、と鳴っています。それ以外は本当に静かで、まるで道を囲む木々が自分達を包んで大人しくさせているように学くんは思えました。

 真っ直ぐに参道は延びていきます。奥へ進むごとに、木々の緑は深くなっていくようでした。


 学くんが思っていたとおりに、事は進みました。

 ずっと前に見たときよりも、ややくたびれた様子のおじさんはやはり白い和装を着て、自分たち家族四人を大きな建物に招き入れ、低く唸りはじめました。真ん中には今日の主役である妹のゆいちゃんが座らされているのですが、どうやっても退屈でつまらないのでしょう、まま、あのね、と母に無邪気に話しかけてはこら、と囁くような声で叱られています。おしゃべりを止められるたびに妹の足はゆらゆら、ぱたぱた。

 学くんはそれをちらりと見やり、気持ちは分かるよ、と欠伸をこらえます。

 妹と母の幾度目かのやりとりすら聞こえていないかのように一心不乱に低く唸るおじさんの背中をぼんやりと眺めるしかありませんでした。

 一時間ほどのご祈祷でしたが、小さな子どもにとっての〝つまらない〟一時間は永劫に等しいものです。遊びに夢中になっている時ほどあっという間であるのに、退屈だと思った途端、針の進みがノロノロとしはじめるのだから、世の中は不思議なものです。

 ようやく外に出られて、学くんはうん、と背伸びをしました。建物の表はいよいよ参拝客で混み合ってきて、今日の妹と同じように着付けをした小さな女の子も、何人か見かけました。

「社務所に行ってくるよ」

 父がそう言い残し、小さな建物に向かうのを見送ってから、学くんは退屈から解放された妹を見ました。今の彼女にとっては地面に敷き詰められた白い小石も面白いものに見えるのでしょう、二人から少し離れた場所にしゃがんで、それを手のひらに載せてにこにこしています。

「まーくんは何か食べたいものはある?」

 少し疲れた様子の母が、学くんに問いかけました。きっとこの前のようにどこかに食べに行くのでしょう。学くんはちょっとだけ、考えました。ハンバーグ、ドリア、スパゲッティ。月に一度か二度、食べに行くファミリーレストランのメニューがうすぼんやりと浮かびます。

「いつもの所がいい?」

「うん」

 母の言葉に頷けば、社務所から父が頭をかきながらやってきました。どうやら何かあったらしく、母に話しはじめました。学くんはふと、妹が気になってそちらを見て――さっきまでそこに、小石を手のひらに載せた妹がいたはずです。ところが、いません。

「ゆい?」

 どこにいったんだろう。学くんは不思議に思い、話し込む両親のもとを離れて歩き出しました。妹がしゃがんでいた場所できょろきょろと周囲を見渡します。彼女はまだ小さいので、そう遠くまではいかない筈です。

「あっ」

 案の定でした。何か面白いものでもあったのでしょうか、妹は境内の隅から伸びているうす暗い小道に向かって歩いていました。学くんは慌てて、勝手気ままに探検しようとしている妹を捕まえるべく駆け出しました。足下の白い小石が跳ね、音を立てます。小さな妹です、すぐに追いつくでしょう。

 学くんが慌てているのをよそに、妹は見つけた小道をじいっと見つめていました。その道の入り口には縄が張られていて、禁足地、と書かれた古い札がいかめしく揺れています。しかしまだ幼いこどもは漢字も、ひらがなすら読めません。雨風に晒されて黒くなった木の札の威圧感も、無いも同然でした。

 なので、彼女は気になったので、家に置いてある小さな遊具と同じ要領で、その縄をくぐり抜けたのでした。そして木々が生い茂る道とも言えない道を好奇心の赴くままに進んでいきました。

 学くんもすぐにその縄の前にたどり着きました。古めかしい札になんと書かれているのかは彼は読めましたが、如何せんどういう意味か分かりません。ただ縄が張られているということは、ここは入ってはいけない場所であることが分かりました。

「ゆいってば」

 いよいよ学くんは焦りました。入ってはいけない所に入れば、あとで怒られるに違いありません。一瞬、どうしようか迷って――しかし妹を捕まえて両親のところに戻らなければいけません。学くんはひとつ唸って、そして決心し、縄を越えたのでした。

 縄の向こう側に入った途端、学くんの背になにか重たいモノが置かれたような、そんな心地になりました。ゆい、待って! と叫びながら、妹の背を追いかけます。何が妹を突き進ませているのでしょう、苔むした道を臆することなく進んでいく妹を追いかけ、振り向けば縄のある入り口が辛うじて見えるあたりで、ようやく彼女を捕まえたのでした。

「ほら、ゆい。出よう」

 妹の腕をゆるく掴み、引っ張っていこうとしますが、妹はいや! と地団駄を踏み、学くんの腕を振りほどこうとします。加減をしらない幼子の力は予想以上に大きいもので、学くんの手は容易く彼女の腕から離れてしまいました。その隙をついて、妹は更に奥へと進みます。今度は捕まらないように、ふらふらと走ったり、そばの木に隠れたり。まるで、鬼ごっこか、かくれんぼです。

 言うことの聞かない妹に、学くんは途方に暮れましたがいよいよ意地になって、ちょろちょろと動き回る妹を追いかけ回します。妹のゆいちゃんはそんなお兄さんの様子が楽しいらしく、かわいらしい声をあげながら、もはや道の無くなった木々の間を動き回りました。奥へ、奥へと。


 さて――。


 一寸疲れた妹の手を捕まえた学くんが、はっと我に返り後ろを振り向くと、道といった道はなく、あの縄の張られた入り口から随分と奥へと進んでしまっていた事に気がつきました。道を探そうと視線を彷徨わせますが、幼い二人を囲むのは鬱蒼とした木々の群れ、苔むした柔らかい地面、少し重たいような、湿っぽい空気だけです。空は梢に覆われ表の境内よりもうす暗く、少年の心をざわつかせるのに充分でした。

 学くんは思わず妹と繋いでいた手に力を込めます。その強さを感じ取り、妹が、おにいちゃん、と不思議がりますが彼女はどうしてお兄さんの顔が青ざめているのか、まだ理解するには幼すぎました。

 しばらく呆然と立ち竦み、どこかから聞こえる囀りを上の空で聞いていましたが、学くんは意を決して歩き出しました。きっと、こちらから来たに違いありません。だってその方向は、自分が背を向けていたのだから。

 

 さて、さて。二人はちゃんとお父さんとお母さんのところに帰れるでしょうか。


 どれほど歩いたでしょう。歩いても歩いても、同じような木々の群れが二人を囲んでいます。そろそろ妹も歩き疲れて、ぐずりだしてきました。学くんも妹を追いかけた上に、こうして森の中を歩き続けているのですから、疲れ切っていますし、いつまでたっても出口が見えてこないので、ぼろぼろと泣きたくなってきます。それでも、喉をつんとさせながら堪えるのは、妹の手前、兄の意地というやつでした。

 靴の裏から苔の柔らかさを感じながら、歩き続けていましたが、ふと上を見上げるとさっきよりも暗くなっているような気がしました。お参りが終わったのがお昼過ぎでしたので、この頃の日の沈みが早いことを考えても二時間か、三時間は経っていることになります。妹を追いかけていた時はそんなにかからなかった筈なのに、不思議なことです。

 思わず立ち止まってしまった学くんにつられて、とうとう妹はしゃくりあげ、わんわんと泣き出してしまいました。泣くなよ、と学くんは叱りつけたくなりましたが、彼も彼で泣きたい気持ちはあったので、黙りこくるのが精一杯です。

 泣き続ける妹と、途方に暮れる兄。二人は、すっかり動けなくなってしまいました。

 妹は歩く元気はありませんが、泣く元気が残っているようで、しゃがみながらいつまでも泣いています。その隣で喉も鼻もツン、とするのを堪えながら少年は俯いていました。このまま、ずっとここから出られなければどうしよう。もうお母さんとお父さんに会えないのではないか、ゆいちゃんがここに入らなければ、こんなことにはならなかったのに。そんなことをぐるぐると考え続けながら、緑の柔らかな地面を、じっと、睨みつけているしか出来ません。

「おや、幼子がこのような所に」

 しゅる、と不思議な音と共に声が降ってきて、学くんは肩を跳ねさせました。ばっと顔を上げれば、今日お参りをした時のおじさんに似た和装をした人が、立っているのでした。声からして、男の人でしょうか。その人は頭を薄い布ですっぽりと覆っていて、顔が分かりません。

「迷い子だろうか、禁足地に来て、帰られなくなったのだね」

「きんそくち」

「入ってはならないという意味だよ。なるほど、札が読めなかったか」

 和装の人は肩を揺らします。しゅ、しゅ、と不思議な音が布の下から漏れているのが、学くんには不思議です。この人は一体誰だろう、自分たちを探しに来たのではないことは、確かでした。

「しかし困ったな。あまり例外を作りたくないのだが、ふむ。幼子か」

「い、妹が疲れて、泣いちゃって」

 かろうじて手を繋いでいた妹は、泣き疲れたのかうつらうつらとしています。それに気がついて、学くんは彼女の身体を支えながら、目の前の人をどうすればいいのかを聞きたげに見つめました。

「妹を大事にするのは良いことだ。君が見せた親身の情に免じて、妹はご両親に返してあげよう」

 和装の人は優しく学くんに告げましたが、学くんにはそれが少し、奇妙に思えました。だって、妹は、と彼が言ったのです。では、僕は、どうなるのでしょうか。

「ここに入ったものは、私のものだ。そういう〝ことわり〟なのだよ。故に、私は少なくともどちらか一つを手にしなければならない……なに、心配いらない。丸呑みにするというわけではないよ。丁度、神使が入り用だった」

 和装の人が話す言葉の意味を、学くんはちっとも理解が出来ません。しかし、ヒトの底にあるなにか、本能のようなものが己の行く末の未知を察し、学くんの身体をカタカタと震わせていました。

「では妹はすぐにでも返そう。そう決まった以上、ここに長居はよくないのだ。今生の別れだ。よく顔を見ておくのだよ」

 今生の別れ。学くんは別れというものをあまり経験したことはありませんでした。今この時も、あまり実感がわきませんでしたが、和装の人が促したので、妹の眠たそうな顔をじっと見つめ、こわごわと頭を撫で――次の瞬間には、妹は影も形も、失せていました。

「では、君は私のものだ」

 しゅう、と音が鳴ります。その音を聞き、何か甘ったるい匂いを感じ取った途端、学くんは瞼がゆるゆると閉じていき、天地もなにも、分からなくなりました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いろくず 舎まゆ @Yado_mayu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ