〈二〉



 わたしが初めて聞いた声は、わたしをはらに宿した母でも、膨らんだそれを撫でた父でもなかった。声、というには曖昧すぎたかもしれない。でもわたしはたしかにその音を声だと認識したのだ。

 それはいつ響いても、とにかくとてもよろこんでいた。そしてわたしのことをいつも褒め、わたしの誕生を心待ちにしていた。





 外に出ると必ず、おいで、と手招きする女の腕が泉の中から誘ってきた。おいでなさい、愛し仔よ、はやくおいで。それは、わたし以外には誰にも見えていなかった。


 この世に生まれ落ちて声はさらに大きくはっきりとわたしを欲するようになった。今思えばよく怖がらなかったものだ。招かれるもとへ行きたくとも、行くまでにはまだ歩けず背丈は足りず、母親や世話役が常にわたしをおぶって抱えてそのまま働くものだから、ただじっと、水面の光を透けさせる手の動きを目で追っていた。でもわたしは『彼女』にいつ食べられるのだろう、いつ食べてもらえるのだろうと、それを当然だと思っていた。

 物心ついて周囲の大人や同年代の子供の言葉も理解出来るようになると『彼女』の声は掻き消され、泉の手にも出会わなくなった。そうなると無性にさびしくなり焦った。ひどい頭痛がして眠れず、高熱を出して何日も寝込んだ。


 錯乱し暴れ回るようになったわたしを尋常ではない、手に負えない、と巫師ハワにたらい回しにされた両親はついに王城の祭司シェンを訪ねた。そして初めて判明した。わたしに話しかけわたしを欲し、わたしの足の下にいつも見えないとぐろをうねらせる存在が一体何なのかを。


「あなたは次の報魂師レウルンです」


 シェンたちのなかでいちばん偉い大祭主シェンラプが占い、齢四つのわたしにそう告げた。


「我らアニロンの国土神ユラ大龍女リンモがあなたを伴侶に望んでおられるのです。これは覆りません。あなたは魂でもって、その身朽ちるまでリンモにお仕えしなければならない」


 はじめ、両親は泡を食ってなぜ自分たちの娘なのか、どうしても断れないのかと騒いでいた。とくに母親はかなり衝撃だったようで泣いていた。

 わたしはというと、いつも地面や泉の中から呼びかけられる声の主が誰なのかがやっと分かってすこぶる嬉しかったのを覚えている。心にぽっかり空いた穴に断片がぴたりとはまったようにすっきりとして、謎の解明に大いに満足してしまった。


 アニロンにひと世代に一人現れるかいなか、というレウルンはこの地を守護するユラ・リンモと契りを交わした御用聞き、はたまた、なだめ役のような者だった。

 リンモは人間が存在する前から土と水を司る太古の神で巨大な蛇の姿をもつ。尾の先が届かない場所は無いと言われるとおり、アニロンにはどの谷にも豊かな草木が生え澄んだ水が湧いている。


 この国の守護神に嫁ぐ。それは祝福された栄誉だが、同時に世俗と切り離された人生を送るという意味だ。母が号泣したのはそのせいだった。長らく子ができず、やっと身篭ったのがわたしだったから愛着もひとしおだったろう。

 でもわたしに迷いは無かった。この世に生まれる前から慣れ親しんだ存在であるリンモと共に生きること、それは最初から予定された天命だからだ。




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