謝罪は受けない

 居酒屋の個室で、二次会をすることになった。本当はもっと早くにふたりで話したかったのだけれど、先輩の歓迎会があり、話すことができなかったのだ。上司にはセクハラすれすれの接待を強要されていたし、同僚達にも彼女は引っ張りだこだった。まぁ、先輩の歓迎会なんだから、当然のことだ。

 私はそんな彼女をどうにかふたりっきりになろうと、歓迎会から抜け出して、個室の居酒屋に駆け込んだ。先輩もそれに合意した。お互いに秘密を持っているとこういうときに、妙に協力的になれる。

 そして―

「…」

「…」

 注文した唐揚げやたこわさやビールに手をつけずに沈黙する。

 …。

 今更、どんなことをして―先輩と向かいあえばいいのか分からない。

先輩が屋上から飛び降りたあと、私達は一度も会っていない。私の両親がそれを禁じたのだ。私もそれに逆らわなかった。たとえ逆らったとして、先輩とその親族の許しが得られてのやら。

 けれど、同じ職場になる以上、お互いの歩み寄りは必要だ…と思う。先輩がそれを望んでいないのかもしれないけれど。

「…とりあえず…乾杯…?」

 私は勇気を振り絞ってビールジョッキを持って、先輩の前に差し出した。

「…かんぱい?」

 先輩もビールジョッキを持って、私のそれに当てる。カン、と冷たい音がした。

 けれど、その後なんのアクションもなく、ただ、目の前にある料理をお互い黙々と食べる。その雰囲気に比べれば、まだお葬式の方が明るい。お葬式は故人の話でも盛り上がることがままあるからだ。けれど―私達の場合、故人になれなかったからここにいるのだ。

「…元気…だった?」

 故人になっていなければ、まぁ―こういう質問が来るのだろう。

「…それなりに…元気でしたよ。先輩は…」

「まぁ…まぁ…かな。そもそも元気な人は―心中なんてしないけどさ」

 皮肉を言えるだけ、多少はマシなんだろうな、と思う。

 けれども学生時代の、現実に対しての憎しみや恨みなんかの感情は抜けているように感じる。まるで、炭酸の抜けたコーラのよう。あるいは、ワサビの入っていない寿司でもいい。ともかく、刺激や攻撃性がなくなった―そんな印象を受ける。

「先輩…変わりましたね…」

「そうかな?」

 少し首を傾ける。それから、ふふっと笑って

「それだけのことをしたからね」

 と、自嘲気味に言った。

「わたしからすれば―貴女もそう見えるけど…?」

「それだけのことをしたんですよ…多分」

 と返答したが、自分が半分くらい八つ当たりで言ってしまっていることに気が付いて、自己嫌悪しそうになる。

 先輩に当たるんじゃなくて―私がしないといけないのは、謝罪なのに。一言謝るだけなのに…。なのに―それがとても難しい。

「ははっ…。そういう返しもされるだろうね…」

「先輩はあれから―どうしてたんですか?」

 今黙ってしまうと、もう二度と先輩は口を利いてくれなくなってしまいそうだったので―気になっていたことを、無理に口に出した。

「どう…ね。わたしにも色々あってね…」

「なんにもない人は―心中なんてしません」

 また―私は先輩に棘のあることを言ってしまった。

「そう言われると―なにも言い返せないなぁ…」

「ごめんなさい」

 そうは言ったけれど、これはまだ私の言いたかった『ごめんなさい』とは異なる。

「気にしなくていい。いや―皮肉じゃなくて本当にさ。話を戻すと、いや、わたし達が屋上に行く前の話なんだけど、ここから話すね。まず、関係が破綻寸前だった両親が離婚した。そして―母が自殺した」

 先輩の過去なんてはじめて聞いた。高校生だった彼女は、自分自身の話なんてしたことがない。

「もう家はひどい状態だった。洗濯物はたまってるし、掃除はしてないし。父もお酒におぼれて…。それで、文学の世界に現実逃避をしててね…」

 自分でも意外なことに、驚かなかった。高校時代の先輩は斜に構えたような、厭世的な感じだった。その原因は―そういう家庭環境にあったのと妙に納得した。

「そんな中で―貴女に会って…。一緒に心中しようと誘ったの」

 なんだかそれは―私に謝っているみたいな言い方だった。けれど―謝りたいのは私なのだ。あのとき裏切ったことを―謝りたい。けれども―先に謝ったのは先輩だった。

「ごめんね。あのとき…屋上に連れていって…」

 ―なんで、先輩が謝るんだろう…。

 だって、あのとき裏切ったのは―私。

 私が―悪いのに…。

「その、一緒に死のうなんて言って…ごめんなさい」

 先輩は頭を下げた。私はそれを眺める。

「えっと…先輩に謝られる理由が分からない…です…。謝らなきゃいけないのは―私ですし…」

 そのための7年間だった。

 先輩は頭を上げて、私を見た。その視線は―哀れみと同情を含んでいる。そんな目で―見ないで欲しい。

「貴女の謝罪は―受けないよ」

 私は、舌打ちをしそうになった。じゃあ―これまで7年間の罪悪感はなんだったんだろう。それが、無に帰ってしまいそうになって、今までの思いをムダにされたようで―悔しい。

「だって―貴女…死にたいんでしょ?」

 だから、そんなもの―見抜いて欲しくなかった。


 「なんだろう…。貴女の言葉を借りるなら…甘い希死念慮…かな」

 甘い希死念慮―先輩との会話で何回も使ったし、それについての談義を何回もした。現実から逃げるために―死にたいと思うこと。それが私達をつなぎ留めていたんだと思う。

「懐かしいこと言いますね…」

 高校生の頃に戻ったみたい。けれどもそれは、楽しい思い出でも、嬉しい思い出でもない。陰湿で、暗い過去という感じだ。

「さっきわたしに謝りたいって言ってたけど…。貴女…それでどうしたいの?」

「さっきからのそれ…やめてください」

 私は今日、この人に名前呼ばれていない。後ろめたいのか、怒っているのか。どっちも関係ない―やめてさえくれれば。

「で―どうしたいの…」

「それは…」

 この人は…いつの間に気付いたのだろう?

 私が―死にたいと思っていることに。

「わたしが気にしてたのは…。貴女が―死のうと思ってるんじゃないかってこと。そう―わたしが心中しようとしてから、貴女にそういう考えを植えてしまったんじゃないかって。そう思ってた」

 …。

 言い返せなかった。

 だって、先輩を裏切ってしまったんだから―その罰として私は死ぬべきだ。ずっとそう思ってきた。

 謝ったら―死ぬべきだ。

「わたしの自殺で―貴女の希死念慮を…完全なモノにしてしまったんじゃないかと思ってたの。そういう―罰だから死ねばいいみたいな価値観を」

「…否定はしません」

「それがもう…甘い希死念慮じゃない?現実から逃げるための―希死念慮。罰っていう現実から逃げるための…ね」

 耳が痛い。そう―私が死にたいという思いは、高校生のときより、今の方が大きいし、強いのだ。

 先輩をひとりで屋上から飛び降りさせた。そのことから何回逃げだそうと思ったか分からない。そんな現実を受け入れられない。だから―死にたい。

「なんなら―その罰さえ…甘いよ。なんと言うか…自分が死にたいと思うための―方便みたいな感じかなぁ…。まぁ…わたしが偉そうなこと言えないけどね…」

 先輩はそう言ったが、私もまた―先輩に強く出ることができない。図星だし、正論だ。そして、一方的に悪いのは―私。

 そして―私はなにをするべきなのだろう…。

 先輩に謝って―死ぬことができない。それを今―拒否されたのだから。

なら、もう謝罪することに意味がない。多分―受け止めてくれないだろう。

「だから、自分が死ねばいいみたいなことは言わないで」

「なら―私はどうすればいいんですかね…」

 諦めたようなニュアンスで言った。

 なんだかショックだった。

 …なぜショックなんだろう?

「分からないよ…。さすがにね…。でも―死ぬのはよくないかなぁ」

 ああ、そうか…。

 先輩が私の知っている先輩じゃなくなったから…。

 昔の先輩ならば―ほぼ間違いなく、心中しようって言ってくれる。

 けれど―そんな先輩はもういない。一緒に死んでくれる先輩はいない。甘い希死念慮に囚われた先輩は―もういない。

 そうだね。今、甘い希死念慮に囚われていたのは―私。先輩じゃなくて―私。

 先輩の言うとおりだった。

「…先輩からそんなこと言われるなんて―驚き」

「そう…?」

「でも…。現実を生きていけるほど…私は強くないです…」

 だって―今までそのためだけに生きてきたのだから。それより先のことはできない。もうゴミみたいな上司の説教に耐えることも、同僚の悪口に耐えることもできないかも―できない。

 だって―死んでもいいと思ってたんだから。耐えられた。その前に少し―やらなきゃいけないことがあっただけ。そういう血の通った現実から逃げるための―甘い希死念慮なんだから。

 それを今―取りあげられたのだ。これ以上―私に頑張れるとは思えない。

「これ以上―生きていける気がしないです…。我慢できる気がしない…」

 だから―謝ってとっとと死のうとしたのに…。

「血の通った現実に生きていける気がしない…」

 先輩は―私をジッと見て言った。

「ねぇ…。海里…。お願いだから―死のうなんて思わないでよ」

 実に―7年ぶりに先輩は私の名前を呼んだ。懐かしくて、でも、昔みたいな氷でできたナイフのような切れ味はない。もっと優しい、響きを持っていた。

「わたしもね―血の通った現実は嫌いだよ…。今でもね」

 私は目を見開いて―その言葉を聞いた。意外だった。もうとっくに先輩は―そういう考えから逃れているものだと思っていたから。

「この職場の上司はセクハラしてくるし、人間関係だってそんなによくなさそうだしね」

 先輩はまだよく分からないけどね―と続けた。

私は死のうと思っていたので―それでよかった。けれど―そうでないのなら私の職場はあまりよくはない。もっとも―部署によって違うだろうけれど。

「わたしだって―血の通った現実にひとりで生きていける気がしないよ」

 それは―屋上のあのときの言葉とは真逆のセリフだった。あのときは死のうとしていたけれど―今は生きようとしての言葉だ。

「だからさ…一緒に生きよう」

 血の通った現実よりも甘い希死念慮に逃避するほうが楽だ。そして、先輩は前者を選択している。後者を選んだ昔を捨てて。

 なら―私も変わらないといけないのかもしれない。先輩が甘い希死念慮をすてたように。血の通った現実を生きようとしているように。

 そんなこと―私にはできない。今更生き方を変えろ、なんて無理な話なのだ。甘い希死念慮は―捨てられない。


 けれど―私は二度も先輩を裏切れない。


「…努力はします…」

「そう…ならよかった」

 そう簡単に切り替えられるものではない。正直―まだ死にたいと思っている。現実からは逃げたいし、生きていたいなんてこれっぽっちも思っていない。

 けれど―この人を二度も裏切れない。それだけで―私は、生きていけると思いたい。

 ある意味先輩の思いを今でも裏切り続けているのかもしれない。それでも―生きることを望まれたら、そうするしかない。死ぬことを望まれて―死ねなかったのだから。


 居酒屋を出たとき―私はすっかりといい気分だった。アルコールのせいだけではないだろう。

 周囲のビル群を見渡す。東京の西部とは言え、それなりの高さがあった。屋上から飛び降りれば死ねるくらいには―高い。

「…」

「どうしたの―海里?」

「いや…。高い建物が多いなって」

「そうかな…。もっと高いビルならいくらであるよ…?でも―そんなこと気にしない方がよくない?」

 先輩は不審そうに尋ねる。それはそうだ。さっきまで、自殺する、しないの話をしていたのだから。

「私は…先輩。高い建物を見たらそこから墜ちるべきだと思ってたんです…。けど…」

「けど…?」

「今は―そうでもないかもしれないですね」

 そう―少なくとも積極的に飛び降りようとは思わなくなった。それだけでも―私はマシになったのかもしれない。

 現実は辛いけれど―希死念慮は少し忘れてもいい。今は、そう思える。

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甘い希死念慮は消えてた方がいい 愛内那由多 @gafeg

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