月下美人にさよならを

麻根重次

月下美人にさよならを

「月下美人はね、一年のうち一晩だけ、コウモリに恋をするの。その夜だけは、自分の一番綺麗な姿を見せるんだよ」


 美夜子が時々語っていた言葉を、冬樹は何度も頭の中で反芻していた。

 その手には一枚の紙が握られている。美夜子との別れを告げるそれは、とうに冬樹の手の中でくしゃくしゃになっていた。


 美夜子が家を出て行ってから、もう1週間が経つ。冬樹は鏡に映る自分の姿を見て、ふ、と自嘲した。

 酷い顔だ。婚約者が消えた人間は、誰しもこんな顔になるのだろうか、などと下らないことを考えながら、真っ赤に腫れた目を擦る。それからその日何度目かもわからない大きな溜息をひとつつき、冬樹は再びパソコンへと向かった。


 消えた美夜子の手がかりがあるとすれば、これしかない。

 冬樹の目の前のモニターには、一枚の写真が映し出されていた。3日前、美夜子がいなくなった後になってSNSに投稿した写真だ。

 暗い部屋の中で、鉢植えの白く可憐な花がひとつ、照明に浮かび上がるように幻想的に咲いている。月下美人。美夜子の好きだった花。いつか自分でも育てたいな、と言っていた、儚い幻のような花。


 冬樹も美夜子の影響で月下美人について調べていたから、おおよそのことは知っていた。この花は年に一度か二度、夜に花を咲かす。しかしそれは一晩で萎れてしまう。原生地であるメキシコでは、その一晩のうちにコウモリたちが蜜を吸いにやって来るのだという。

 日本では株によって花が咲くタイミングはバラバラだ。それはつまり、3日前に咲いた月下美人も、全国に数えるほどしかないということになる。


 美夜子はきっとそこにいる。

 会って訳を聞かなければ、絶対に納得できない。

 冬樹はスマートフォンを取り出し、画面に表示されている番号をプッシュした。



「お願いします。僕の大事な恋人なんです。連絡先だけでも教えて貰えませんか」

「しかしねえ……。私から個人情報が漏れたなんていうことになると――」

「管理人さんから聞いたってことは決して口外しません。もし彼女が僕と別れるつもりなら、トラブルに発展する前に潔く手を引きます。このままじゃどうしても納得できないんです。だからどうか」


 冬樹が頭を下げると、しばらくの間沈黙が支配した。

 初夏の裏山からはヒグラシの合唱が聞こえてくる。不思議と郷愁を誘うその声が、二人の隙間を埋めるように部屋の中に響いていた。


「……わかりましたよ」


 やがて男は、根負けした、というように溜息と共に吐き出すと、一枚のメモ用紙を差し出した。

 冬樹は何度も礼を言いながらそれを受け取る。それに目を走らせると、コウモリのアイコンの人物のものらしい名前と住所が書かれていた。


 月下美人の愛好家たちが集まるサークル「Queen」に、条件に当てはまる株の持ち主がいることを突き止められたのは、執念の賜物だった。

 冬樹は美夜子の写真についていた多数の「いいね」の履歴を片っ端から辿っているうちに、Queenのサイトに行きついた。そしてそこのメンバーのSNSを順に見ていく中で、ある人物が美夜子と同じタイミングで開花した写真を投稿していたのを見つけたのである。

 コウモリのアイコンを使っているそいつは、美夜子のアカウントと友達登録しているのも確認できた。


 果たしてこれがただの偶然だろうか。いや、そんな筈はない。この発見に冬樹の心臓は高鳴った。間違いない。美夜子はこの人物と一緒にいる。

 そうして冬樹は、すぐにQueenの管理人と連絡を取り、どうしても会って話がしたい、と約束を取り付け、その日のうちに直接出向いたのだった。


「くれぐれもトラブルだけは避けてくださいね」

 気弱そうな管理人が別れ際に発した言葉は、しかし冬樹の耳には殆ど届いていなかった。

 渡されたメモには、「木下依人」という名前が書かれている。

 男の名だ。勿論想定していたことではあった。だがこうして目の前に突きつけられた現実に、冬樹は眩暈を覚えた。


 ――月下美人はね、一年のうち一晩だけ、コウモリに恋をするの。


 美夜子の言葉がまたしても頭の中で反響する。


 早鐘を打つ心臓を鎮めようとゆっくりした呼吸を意識しながら車に乗り込む。メモに書かれた住所は隣の県だ。すぐに出発すれば日暮れには到着するだろう。

 冬樹がアクセルを踏み込むと、微かにタイヤを軋ませながら車は国道へと走り出た。



 どこの地方都市にでもあるような、古ぼけた小さな2階建てのアパートの一室で、冬樹は息を殺して立ち尽くしていた。


 目の前にはあれだけ探し求めていた愛する女が、木下という男と手を繋いだまま、並んで寝ている。あられもない恰好の二人の身体に、窓から差し込む満月の月明りが微かな陰影を作り出している。

 太陽と見紛うばかりの明るい光は、ワンルームの決して広くない部屋の中を隅々まで照らし出し、昼間に籠った熱気を冷ましているようだった。


 鍵がかかっていなかったとはいえ、木下の部屋に無断で侵入したことに始めは良心の呵責を感じていた。しかし最早この光景の前では些細なことだった。

 冬樹は己の犯した罪を無理やり正当化しようと言い聞かせた。自分を捨てた婚約者が、今こうして別の男のところにいる。その罪と比較すれば、どうでもいいことじゃないか。

 頬を一筋の泪が伝う。しかし冬樹はそれに構わず、音を立てずに喉の奥にこみ上げる熱い塊を飲み込んだ。


 改めて部屋の中を見回す。

 月下美人の鉢が3つ、窓際に並べて置かれているのが目に入った。

 ひとつは既に萎れた花がついている。これが美夜子と木下がそれぞれ写真に撮った花だろう。またもうひとつの株には、まだ成熟しきっていない蕾がついていた。


 そして最後のひとつ。

 その株についた花は、今、この瞬間、まさに咲き誇っていた。


 月光に照らされ、たった一晩の麗しい姿を晒す青白い花。

 それは舞台に立つプリマ・ドンナであり、戦場に舞い降りたワルキューレであり、シルクのヴェールを纏った花嫁だった。


 その花を眺めながら、冬樹は段々と昂っていた感情が落ち着いていくのを感じて狼狽えた。この儚い美しさを前にして、自分がどうすればいいのかわからない。

 美夜子は確かにこの部屋にいた。

 だがどうすればいいのだろう。連れて帰る? それとも――。


 冬樹は静かに深呼吸をして、目を閉じた美夜子の横顔を見た。

彼女の切れ長の目に、すらりとした鼻に、少し厚みのある形の良い唇に、満月は満遍なく降り注ぎ、白い肌が微かに煌めいている。


 そうだ、彼女は月下美人そのものだ。


 この美しさをどうやって留めておけばいいのだろうか。残酷な時の流れは、あっという間に彼女を醜く変貌させてしまうだろう。月下美人が散るように、彼女もまた少しずつ散っていくのだ。誰もそれを止めることなどできない。

 それでも今、この瞬間に、疑いようもなく彼女の美は極致を迎えている。

 冬樹にはどうしても、この美しさを乱すことができなかった。


 しばらくそうしていた後、冬樹はスマートフォンを取り出すと、カメラを起動して美夜子に向けた。

 彼女が花をそうしていたように、僕もこの芸術をせめて写真に収めておこう。

 それから少し考え、静かに月下美人の鉢を美夜子の顔の傍へと移動させ、たっぷりと時間をかけて1枚の写真を撮影した。

 淡い光の中で、美夜子はまるで花に口づけるようにして横たわっていた。


 やがて満足した冬樹は、結局声を掛けることなく静かに部屋を去ることにした。眠っている者を起こさぬよう、そっと玄関のドアを閉める。


 美夜子、さよならだ。


 口の中でそっと呟きながら、写真の収まったスマートフォンを大事に抱え、冬樹はアパートを後にした。


 振り返れば、美夜子の眠る小さなアパートに、満月はいつまでも柔らかく降り注いでいた。



「続きまして、ニュースです。今月18日にN市のアパートの一室で、この部屋に住む木下依人さんと、その交際相手である花房美夜子さんの2人が遺体で見つかった事件で、警察は昨夜、市内に住む会社員、東郷冬樹容疑者を、殺人の容疑で逮捕しました。被害者の花房さんは以前からストーカー被害を訴えており、安全のため自宅を離れて交際相手である木下さんの家に身を寄せていたとのことです。また、東郷容疑者には、花房さんに対する接近禁止命令が出されていました。東郷容疑者は逮捕の際、被害者の花房さんと交際していたのは自分であり、接近禁止命令は不当だというようなことを何度も叫んでいたということで、警察では詳しい動機に繋がるとみて捜査を進めて――」


 午後の業務の開始を告げるチャイムが鳴り、警部がリモコンを操作してテレビを止めた。N警察署の刑事課の部屋は閑散としている。

 どうやら警部と俺を除いて、全員が外回りに出ているらしかった。

 俺も大きく伸びをして立ち上がると、自分のデスクに戻り、先ほどの取り調べで作成した東郷の供述書に改めて目を通した。


『SNSの投稿履歴から花房美夜子の居場所を特定し、現場である部屋へと向かった。部屋の玄関には鍵はかかっていなかった。そこでこっそりと部屋の中へ侵入したところ、裸で寝ている木下依人と花房美夜子を発見し、ほとんど躊躇することなく台所にあった包丁で二人を刺した。それからしばらく部屋の中にいて、被害者の写真を撮影するなどしており――』


 供述書の内容には特に疑問もない。検死の結果も、鑑識の捜査結果とも、特段矛盾はしなかった。

 接近禁止命令を逆恨みした妄想癖のある男による、ストーカー殺人。世間はそれで納得するのだろう。


 しかし――。


 俺は書類の最後、動機に関する部分を読みながら、東郷の思考をトレスしようと試みる。


 ――僕は、彼女の最も美しい瞬間を、永遠のものにしたかっただけです。


 取調室で東郷がぽつりと呟いた言葉が、いつまでも俺の耳に残って離れない。

 目を閉じると、美しい死に顔の隣に一輪の萎れた花が置かれている光景がありありと思い出され、俺は首を振って午後の仕事に取り掛かった。

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