第5話 会社社長の死

 若松(と思しき)人間の死体が発見されてから、二週間が経とうとしていた。正直事件はあまり進んでいない、何しろいまだに被害者が特定できていないのだ。幸いなことに、福島がいた警察署に、若松の指紋が残っていたので、死網称号の結果、まったく違う指紋だと分かり、その時点で、被害者が若松ではないことが判明した。

 ここまでは早い段階で判明したのだが、

「では、この被害者が一体誰なのか?」

 ということになると、まったく分からない。

 福島にとって因縁の男、若松が被害者ではなかったということが分かり、本人は複雑な心境だったに違いない。もちろん、被害者が福島で、誰かに殺されたのだとすれば、人情として、

「なんで、俺を陥れたこんなやつを殺した犯人を、この俺が捜査しなきゃいけないんだ? 礼を言いたいくらいなんだぜ」

 という感情があってしかるべきであろう。

 だが、実際に被害者ではなかった。どこかでのほほんと生きているのかと思うと、それも腹が立つ。

「殺しても殺したりないくらいのやつなので、このまま生かしておいては、何をしでかすが分かったものじゃない」

 という思いもあり、それが警察官として危惧を抱く理由にもなっているのだ。

 今、今回の事件の捜査には、主に四人で関わっていた。桜井刑事と福島刑事のペア。そして、同警察署の別の刑事の二人だった。とにかく、手掛かりらしいものは何もなく、いたずらに時間だけが過ぎていく。

 実は、被害者が特定されてからの操作方法はすでに決まっていた。二手に分かれる方法で、まずは、被害者の足取りや、過去を洗うという仕事であった。さらに、もう一つは、被害者と整形手術を施した秘密結社と見られる組織との関係である。被害者から組織を解明し、そこから一網打尽に、彼らの組織を叩き潰すくらいの考えを持っていた。

 そうでもなければ、今はマスコミに伏せているが、いつマスコミに嗅ぎつかれるか分からない。

 そうなると、秘密結社のことが世間で話題になり、かたや、

「警察は何をしているんだ」

 と非難されることになり、威信は失墜してしまうだろう。

 さらに、我々が行っている捜査が、マスコミにバレバレになってしまい、秘密裏にお乞わなければならず、時には内偵も進めなければいけないものが、マスコミの、いわゆる

「表現の自由」

 という名前の捜査妨害が行われないとも限らない。

 そうなると、捜査はやりにくくなり、すべてが後手後手に回りでもしたら、ますますマスコミの餌食になり、世間から警察はまったく信用されなくなる。ましてや、

「警察は何もできない税金泥棒」

 などという誹謗中傷を浴びせられるのは目に見えていて、これを、

「マスコミが先導した、世間による警察に対する言葉の暴力」

 と言わずして何と言えばいいのか。

 とにかく、まだ何も分かっていない今は、完全にマスコミには情報を与えてはいけない。警察署に部では、完全に緘口令を敷いていたのだ。

 幸いマスコミも、今のところ騒いでは内々。だが、この殺人事件がまったく進んでいなければ、被害者が別人であることもバレてしまう。とりあえず、警察は被害者は別にあるのは分かっているが、若松という男だということを、限りなく確定した形で、マスコミには言わなければいけない。何と言っても、整形を受けているところから、隠さなければいけないのだからである。

 マスコミはいいとしても。思うように捜査が進まないのは、捜査員を苛立たせた。

「どうして、被害者を特定できないんだ?」

 と、松田警部補は苛立っている。

「死体が見つかった場所のあの風俗店、被害者があの顔になってから、そして、本当の若松と思しき人物があの場所に行っていただから、あの店が何かの秘密を握っていることは確かなんだろう? 何か情報はないのか?」

 と、松田警部補は言った。

 もちろん、そこに一番の重点を絞って捜査をしていたので、やつが贔屓にしていた女の子に、何度も話を訊いていた。その女の子というのは、普段は大学生だというので、少しビックリはしたが。

「そんな女の子、結構いますよ。ショックなことがあったら、買い物依存症、とでもいうんでしょうか? ギャンブルに嵌る人のように、カードやネットで衝動買いをしてしまうんですよ。それで、借金がかさんでしまって、こういうお店で働くことになった女の子も少なくはないでしょうね。あとは、これは昔からいると思うんだけど、ホストに嵌ってしまうというやつ、うまく嵌められちまったというところだろうね」

 と言っていた。

「なるほど、後者の話は、ソープとホストを一緒に経営しているところだと、一石二鳥だというわけだ」

 と、福島刑事はその女の子に言った。

「ところで、若松という男はどんな客だったんだい?」

 と聞くと、

「おかしな人だったのは間違いないだろうね。私も今回のことで知ったんだけど、あの人は最初から自分を若松だって言っていたんだ。普通、こういうお店に来る人は、ネットなどと同じように、偽名だったり、ハンドルネームのようなニックネームを使うので、若松というのも、どうせ偽名だと思っていたんだけど、まさか、本当だったとはね。でもね、あのお客さんはいつも秘密主義で、自分のことをほtんど喋ららなかったんだよ。もちろん、人によるとは思うんだけど、こういうお店に来てくださるお客さんは、何かしら、人に自分の気持ちや立場で苦しんでいる状態を誰かに話したいと思っているものなのさ、だから、利害関係のない、時間で恋人気分が味わえる私たちに愚痴や何かを言いに来ているんだよ。私たちも人が苦しんでいるのはよく分かる。自分も大なり小なり苦しんでいるわけだからね。だから、いろいろ愚痴ってくれるのは嬉しいんだよ。私に話すと気が楽になったなんて言ってくれるお客さんは、本当にいとおしいって思っちゃう。サービスに力だって入るし、クライマックスになると、本当にこの人を愛してるんじゃないかなんて気分にもさせられたりする。だから、私はこのお仕事嫌いじゃない。でも、あのお客さんは、そういう弱みを一切見せなかった。苦しんでいるのは見ていてよく分かるんだけどね。だから、そのうちに話をしてくれるんじゃないかって思っていたんだけど、一向にそんなことはなくて、途中で急に人が変わったようになったのよね。この間も言ったけど、首筋が冷たかった頃からね。そんな彼なんだけど、やはりそれからも、一切悩みを話してくれない。しかもまるで人が変わったかのようになった。来る回数も減ったし、私のことを指名はしてくれるんだけど、以前にもまして、他人のような感じがする。私もついには、ただの一見のお客さんという程度にしか見なくなった。もちろん、言葉ではまた来てくれたことを喜んではいるんだけどね。もう、彼に対しての関心もほとんどなくなってしまっていたのよ」

 というのだった。

「そうなんだね。でも、何か気持ち悪くなかった? 同じ顔の人が急にまったく別人のようになるなんて、普通は考えにくいと思うんだけど」

 と、福島がいうと、

「ええ、それは確かにそうなんだけど、ここにきているお客さんは、いろいろな人がいるのよ。ほとんどのお客さんは優しくて、でも、世間の女性が相手にしてくれないからここに通ってきているかのようなそんな雰囲気の男性ね。でも、私たちは思うのよ。自分たちに接してくれているような感じを表で出せば、きっともう少し持てるんじゃないかってね。でも、それは私たちが、一般の女の子を知らないからなのかも知れない。確かに私たちはお金をもらって商売をしている関係には変わりないんだけど、純粋に相手の男性を見ようとするのよ。短い決まった時間だけに、存分に満足して帰ってもらおうと思ってね。男性って、女性と違って、果てちゃうと、急に我に返ったりする人が多いっていうじゃない。つまり、お店を出てから、急に自己嫌悪に陥る人が多いらしいのよ。何かお金を無駄に使ったという感覚でね。それが私たちは一番つらく思っているのよ。だから、そんな思いをしなくてもいいくらい、お店を出たあとも、私のことを覚えてくれているように接しているの」

 というではないか。

 その話を訊いて、福島は彼女に同情を感じていたようだ、

「うんうん、僕もその気持ちはよく分かる気がする。正直、今まで風俗嬢というものをよく知らなかったので、君には悪いと思うんだけど、正直偏見を持っていたのは事実なんだ。でも、今の君の話を訊いて、風俗嬢であっても、いや風俗嬢だからこそ、他の女性よりも男性に対して、素直に、真正面から接しているんだろうなって思うようになったんだお」

 と福島は言った。

「ありがとう、刑事さん、優しいのね。私、なんだか涙が出てKちゃいそうよ」

 と言って、本当に涙を流しているようだ。

 この涙は、今まで犯罪捜査をやってきて見る涙とは種類が違っていた。刑事が見る関係者の涙というのは、そのほとんどが悔し涙であった。

 騙されて悔しがっている涙。自分の大切な人を奪われたことでの、その人に対しての望郷であったり、走馬灯のようによぎる記憶の一つ一つに送り涙。刑事としては、やり切れない気持ちになるものばかりだった。

 しかし、今回の涙はそんなものではなかった。

 純粋に男女の仲を深いところで垣間見たその涙なのだ。今までは嫉妬であったり、悔しさの涙との違いを感じると、女性というものがいかに歳暮と呼ばれるものを頭に描くことができるのかを思い起こさせた。

 今までは、

「そんな聖人君子のようで、聖母マリアのような女性が、こんなよどんだ世界の中に存在するわけはない」

 と思っていたが、そうではないということを教えてくれるのが、風俗の女の子だとは思ってもみなかった。

 そういう感情を抱くこと自体、風俗嬢に対しての差別的な感情なのかも知れないのだろうが、福島はそうは思わなかった。

 相手に対して抱く差別というのは、世間一般でいうところの差別と、自分が感じる差別とでは隔たりがある、世間一般に差別だと言われることでっても、自分の中で違う、これが差別ではないと思うことは、本当に差別ではないと思うようになった。それを教えてくれたのが彼女であり、よく考えてみれば、警察官の自分に、よくそこまで話をしてくれたことに、感動している言ってもいい、

 基本的に、風俗嬢というものは、警察を嫌いだと思っていた。何しろ、警察がやってくるのは事件があった時か、店を摘発する時、そんな時、自分たちが、いかに警察の取り調べで、吐き気を催すほどの嫌な思いをしているのか、取り調べの警察官は分かっていないのだろう。

 ただ、相手は社会正義に逆らっている連中という目でしか見ていないというう思いがあることで、彼女たちは、警察を嫌いであり、さらに敵視していると言っても過言ではない。

 それなのに、よくここまで語ってくれたという思いも、福島が彼女たちを見ていて涙ぐんでしまう一因であったのだ。

「ねえ、君はどうして、そんなに僕に本音を言ってくれるんだい?」

 と聞くと、

「だって刑事さん、私たちを見る目が違うもの。特にあなたの場合は、お客さんによくある目をしている気がするの。私が何とかしてあげたいという気持ちになるというんでしょうか? 失礼だとは思うんだけど、私をそんな気持ちにさせてくれた刑事さんのためなら、私が分かっていることは何でも話したいって思ったのよ」

 というではないか。

「ありがとう。僕にもその気持ち、伝わっているよ。だから、君の話には信憑性を感じるし、分かっていることをすべて話してくれているんだなって思うと、余計なことも聞かずに済みそうなきがするんだ。僕は刑事としてはまだまだなので、こうやって相手に聞き取りをしている時でも、相手を傷つけているんじゃないかって思うのよ。だから、それを思うと、いつも自分自身が自己嫌悪に陥るんですよ。さっきあなたが、お客さんに自己嫌悪にならないようにと思っていると言っていたでしょう? あれはまさに私のことを言ってくれているんじゃないかと思うんだよ」

 と福島は言った。

「それはね、私も何度もこの仕事をしていると、自己嫌悪になることがあるからなのよ、サービスが終わって、お客さんを送り出すでしょう? その時に、その人が座って嫌場所や、一緒に何かドリンクを飲んだ後の暖かさが感じられるのよ。その時にふっと思うのよ。私に使うお金で、何かおいしいものを食べたり、ほしいものが変えたんじゃないかってね。それなのに、ここを出てから、自己嫌悪に陥ったなんてことになると、私、まったく救われないじゃないですか。それがとても嫌なんですよ」

 という。

「その気持ち分かる気がする。自分も、田舎から出てきているんだけど、田舎で好きだった女の子と別れてまで、警察官になったんだ。その時、彼女、正直泣いていた。その時は私もその理由が分からなかった。僕が一方的にフッたから、悲しんでいるんだって思ったけど、そういう感情論だけではないんじゃないのかって、今なら分かる気がするんだ。そして僕のその気持ちを代弁してくれたのが、今の君の言葉だったんだよな。そういう意味では、僕は救われた気がする。本当にありがとう」

 ここまで話をしてしまうと、すでに、事件のことは頭の中から消えていたような気がした。

 実際には、捜査に必要な内容はすでに聴取は終わっており、本当なら、彼女を解放してあげなければいけないところなのだが、どうしても、彼女との時間の心地よさから、このような時間の遣い方になってしまった。

――これは反省しないといけない――

 と思い、店を出ることにした。

――きっと、店を出てからも彼女のことが頭から離れないに違いない。なぜなら、すぐに頭から離してしまうと、自分も彼女もどちらも陥りたくないと話したばかりの自己嫌悪に陥ってしまうからだろうーー

 と、福島は感じていた。

 それからまた新たな殺人事件が発生したのは、それからすぐのことだった。その日、刑事課で通報を受けて現場に向かったのは、浅川刑事と河合刑事だった。

 二人は、担当していた事件も無事に済み、検察官が起訴したことで、二人は時間がちょうど空いていた。すかさず松田警部補から言われるまでもなく、二人はコートを片手に部屋をすぐに出ていった。

「通報は、住宅街の奥にあるさらに高級住宅ということのようですね?」

 と、河合刑事が訊くと、

「ああ、殺されたのは、電機会社の社長さんらしい。B電器というと、全国区ではないが、F県では地元ナンバーワンなので、それなりの社長さんなんだろうな」

 ということであった。

 B電器というのは、F県が、中央の影響を受けていないことで、地場企業が今まで成長してきたという特徴がF県にはあるが、その傾向をいかにも表しているのが、この会社ということであった。

 B電器は昭和の時代からあった企業で、県庁所在地であるF市中央区に大きな自社ビルを構え、ワンフロア―で、一つの種類全体を賄っているという感じだ。一階では、ケイタイの売り場があり、二階では、テレビコーナーがあったりなどという感じであった。都会の一等地で一つのビル全体がその企業としてやっているところはさすがに珍しい。どれだけ地場として、影響力が大きいのだろう。

 そんな会社の社長が殺されたという一方が県警本部から入った。一一〇番への通報であろう。

 やはりこの時もいたのは倉橋巡査だった。河合巡査とは一緒に勤務をしていた周知の仲なので、緊張した中にも河合刑事がいてくれたのは、安心だった。

 また河合刑事としても、久しぶりに先輩である倉橋巡査を見れたのは嬉しかったようで、本来であれば、成長した自分の姿を見せられればいいのだろうが、まだ刑事になってからヒモ浅いこともあり、その思いは達成されることはないだろう。

 浅川刑事はさっそく、倉橋刑事に連れられるまま、犯行現場に赴いた。

 鑑識官はさっそく、写真を撮ったり、状況把握に余念がなかったが、その様子を邪魔しないように後ろから見ていたのが浅川刑事だった。

 犯行現場は寝室で、その広さから、主人の寝室であろうことは分かっていた。寝室の上にまるで大の字にでもなったかのように、大きな男性が仰向けで倒れていたが、その大きさは錯覚であることに浅川は気付いていた。

「この人が、この会社の社長さん?」

 と、浅川刑事が倉橋巡査に訊ねると、

「ええ、B電器社長の中西登氏です。社長としては二代目だったんですが、先代と一緒に、昭和の終わりからのバブル崩壊を乗り越えて、その状態から、他の企業を吸収合併することでやっと、先代が認めてくれて二代目社長になったということでした。それを思うと、二代目社長も結構苦労されたのだって思いました」

 と、言った、

「ところで、誰が社長の死体を発見したんですか?」

「いつもは、もう起きてくるはずの時間なので、内線を入れたんですが、誰も出てこなかったので、おかしいと思って、娘さんに許可を得て中に入ったそうです。でも、お父さんが倒れているのは分かっていたような気はして覚悟をしていたそうですが、まさか胸にナイフが刺さっているとは思えなかったので。娘さんはそのまま気絶して、まだお話ができる状態ではないようです」

「じゃあ、ハウスキーパーの人は意識はあるんですね?」

「ええ、先ほどまで私の聴取を受けていただいていました。刑事さんがお話を訊きたいだろうから、あちらで待たせています」

 と、倉橋巡査は言った。

 社長の目は閉じていた。胸を刺されたのだから、カッと目を見開いているものだと思ったのだが、娘がショックを起こすほどの酷さだったことで、キーパーの人が気を遣って目を閉じさせたのではないだろうか。

 鑑識官が忙しく動き回っている姿を見ながら、浅川刑事は部屋のまわりを見渡した。確かにこの広い部屋を見ていると、一人では無駄なくらいの広さに、

「本当に、財を尽くした家なんだって思うよな」

 と浅川刑事は言った。

 それを聞いて河合刑事は溜息をついていたが、その気持ちがどこから来るものなのか想像がつかなかったが、河合刑事は気が弱いところがあるというのを分かっていただけに、浅川刑事とすれば、その溜息はあまりいい気分ではなかった。このギャップ感を分からないのが河合刑事で、刑事としてはまだまだだと思うのだった。

 ハウスキーパーの人に話しを訊く前に、まず鑑識官の分かったところから聞いておいてから、第一発見の場面を訊いた方がいいと感じ、まず鑑識官に分かる範囲でいいからと聞いてみた。

「死因は、胸に刺されたナイフですね。死後三時間くらいだと思います。ナイフに指紋は被害者のもおのだけですね。ひょっとすると、刺されてから苦しくて抜こうとしたけど、それができずに力尽きてうしろに倒れ込んでしまい、そこにベッドがあったことで、ちょうど大の字になるかのような体勢になったのかも知れません」

 ということであった。

「部屋は密室だったんですよね?」

 と訊かれた鑑識官は、

「ええ、そうです。それぞれのカギの部分も念のために指紋を取りましたが、入り口以外の窓などは、被害者の指紋しかありませんでした。元々の入り口は、第一発見者のハウスキーパーさんと娘さんの指紋がついていたんですが、そこは、合鍵を使ってさっき入ったということだったので、ついていても仕方のないことなのですが、当然のごとく指紋は二人の分はありました」

 と、いうことであった。

 浅川は桜井の事件を気にしていて、その時の犯罪の話も聞いていたので、鑑識官に聞いてみた。

「ところで、この死体には、整形をした痕はないのかね?」

 と訊かれた鑑識官は、

「いえ、この死体には整形の痕はありません」

「ところで、この間桜井君たちが担当した例の川辺で発見された死体だがね。あの時にも君はいたのかな?」

 と訊かれて、

「ええ、あの時も私が担当させていただきました」

「じゃあ、あの時と今日の死体とではまったく違った様相だと思っていいのかな?」

「ええ、状況も違うし、関連性は感じられません。しいて同じだというのは、刺殺ということくらいでしょうか? それも限られた殺害方法の中だというので、同じというのは、偶然という範疇じゃないでしょうか?」

「なるほど、鑑識の目から見て、関連性はないと思うのかな?」

「そうですね、もう一つ言えば、どちらも、胸に凶器を残したままだということでしょうか? 前の殺人は、他で殺害された可能性が高いということもあったので、ナイフを抜かなかったのは分かる気がします。血があちこちについてしまって、せっかく他から運んできても、血液から分かってしまう可能性がありますからね。場所まで特定できなくとも、運んできた身体から落ちた血で、運んできた車を特定できるかも知れない。どこに車を止めたのかが分かれば、監視カメラの映像を解析し、車を特定できますからね。犯人はそれを恐れたおかも知れない。でも、今回の犯罪は少し違っています。ご覧の通り、この場所は完全な密室になっていました。個人の部屋ということもあるので、防犯カメラもあるとは思えません。どこから入って、どこに逃げたのか、正直、この部屋の通常入り口からであれば、指紋の残った二人のうちのどちらかがということもあるでしょうが、それも考えにくいような気がします。それよりも、まさかと思われるかも知れませんが、自殺ということもないとは言えません」

 という話を訊いた浅川刑事は、

「その根拠は?」

 と訊かれて、

「根拠というほどではありませんが、今浅川さんの言われた前の事件で、もう一つ気になることがあったのですが、その時、被害者は何かの薬物で眠らされていた感じだったんですよ。でもですね、今回は眠らされた痕がない、いきなり胸を突き刺されたんでしょうね。争った跡が見当たりませんからね。そういう意味で、自殺というのも不自然ではないように思うんですけどね」

 というのだった。

「しかし、昔の人が自害するわけではなく、介錯もなしに、自分の胸を刺し貫くというのは、できることなんでしょうかね? しかも普通のナイフですよ。日本刀を使っての割腹自殺ではないんですからね」

 と浅川は言った。

「そうなんですよ。状況から考えれば、自殺もありえなくもない。だけど、現実的に考えると、不可能だと言ってもいいくらいなんですよ。そこが、桜井さんたちの事件と大きく違うところではないでしょうか?」

 と、鑑識官は言った。

 なるほど、彼のいうことにも一理ある。とりあえずは、死体の状況以外の被害者の近況をしるためには、まずハウスキーパーへの聞き取りと、気が付いてからになるが、娘からの聞き取りということになるだろう。

 何と言っても、会社社長が自宅の寝室でナイフに夜刺殺死体で発見されたのだ。尋常な犯罪とは言えないだろう。

 しかも、密室での犯行。どう解釈すればいいというのだろうか?

 まず浅川刑事は、ハウスキーパーが控えているという応接室にいった。

 すると、そこには倉橋巡査一人がいて、

「あれ> ハウスキーパーさんは?」

 と訊かれた倉橋巡査は、

「ちょうど、お嬢さんの食事を作る時間なということなので、ちょっと中座しています。たぶん、あと十分くらいは席を外されているのではないかということでした」

「それじゃあ、しょうがないね。お嬢さんの方はまだ意識が回復されていないのかい?」

「目は覚まされたようなんですが、まだ話ができるところまでは行っていません」

「分かった」

 ということなので、その間に、浅川刑事は、話を訊く前にせっかくなので、倉橋巡査の知っている範囲で、この家の事情を教えてもらうことにした。逆に誰かに訊かれていない今の状況の方が都合がいいのかも知れない。

「さっそくだけどね。私がずっと不思議に思っているのは、ここの奥さんはどうしたんですか? いないようだけど」

 と聞くと、

「それがですね。五年前に離婚されまして、今は後妻ももらわずにお一人なんですよ」

「社長はおいくつなんですか?」

「六十歳になったところだと聞いています」

「お嬢さんは?」

「そろそろ三十歳になるくらいじゃないでしょうか?」

「娘さんはまだ独身なんでしょうね?」

「ええ、そうですね。ここの社長には、息子はいなかったので、次期社長は、娘婿ということになるんでしょうが、今のところは候補者がいないということでしょうかね」

「ええ、そのように聞いています。社長もまだ六十歳くらいなので、自分でもまだまだと思っていたんでしょうか? そのあたりは、娘さんに聞いてみないと分からないと思いますよ」

 と、倉橋巡査は言った。

「じゃあ、この家には、ヘルパーさんと、娘さんと社長の三人しかいないということなのかい?」

 と訊かれた倉橋は、

「いいえ、もう一人おられます。秘書の男性が一緒に暮らしているということなんですが、ちょうど二週間くらい前に、秘書から実家で母親が病に倒れたので、至急、帰ってこいという連絡があって、急いで帰ったそうです。ただ、どうもそれから連絡が取れないということになっていたらしいですが、実は社長も娘も、会社の人間も、秘書の人の実家の連絡先が分からないというんです。ケイタイに連絡を入れても、音沙汰はない。電話に出る様子もなければ、折り返してもこない。何かあったのかと思って、警察に捜索願を出そうかと思っていた矢先だったそうです。私が知っているのは、そのあたりまででしょうか?」

 というものだった。

 倉橋巡査は結構入り込んだ話を知っていた。ひょっとすると、浅川が訊く前に、自分から聞いてみたのかも知れないと思った。

 そのうちに、ホームヘルパーの女性が食事の用意をして、いつでも食べれる用意までしておいて、浅川刑事の待っている応接室に戻ってきた。

「ご苦労様です」

 と言って、頭を下げたハウスキーパーは、年齢としては、娘よりも少しだけ年上であろうか、三十代前半に感じられた。

「お待たせいたしました。お嬢さんの支度の方は済みましたので、どうぞ事情聴取をなさってください」

 と自分から言い始めた。

 なるほど、社長宅に派遣されたハウスキーパーだけのことはある。しっかりしたものだった。

「それではさっそくですが、いくつか伺っていきますね。その前に、あなたがこちらの倉橋甚さにお話しいただいた分を少し聞いております。家族構成の件であったり、秘書の方も一緒に住んでおられるが、二週間くらい前に家族が危篤だということで、秘書は実家に帰っただけれど、それから音信不通になった。実家の連絡先を知らないということもあり、連絡もつかないまま、そのうちに捜索願を出すつもりだったというところまでは伺いました」

 と浅川がいうと、

「なるほど、そこまで分かっているのであれば、後は、今日の話がメインになるでしょうね」

 と、彼女は言った。

 さすがに、冷静とは言いながら、その喉はカラカラに乾いているようで、声がまともに出ていないかのようだった。

――完全に臨戦態勢に入っているのかな?

 と感じた浅川だった。

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