対岸の夢

 お客さんが来てるんだね、と空が言った。俺のベッドの端に腰かけて、足をぶらぶらと宙へ遊ばせながら、少し上向けた顔をわずかに右へ傾けて、目を閉じている。それは、この部屋の外で動いていることを聞いているのだろう。足音が忙しなく動き回っている。ふすまを開け閉めする音に、何かを言い交わす声。ドアを閉ざしていても、耳を澄ませばそれらの音は聞こえてくる。俺にだってそうなのだから空には当然聞こえているのだろうし、もしかすると俺が聞いている以上のことが空には聞こえているのかもしれない。時々、俺よりも沢山のことを空が知っている理由を、それぐらいしか俺は思いつかない。

「亜子さんの友達が来てるんだって」

「薄明(はくめい)さんじゃなくって?」

 空が俺を向いて、ゆっくりと瞬きする。不思議そうに口に出された名前は、俺に限らず家族の皆によく聞き覚えがあるものだった。聞き覚えだけではなくって、見覚えだってある。だから、さっき階下で一瞬見かけた人影が、その名前の人のものでないことぐらいは分かった。首を横に振る俺に、それじゃあ、と兄が尋ねてくる。

「来ているのはだれ?」

「空だってきっと知らないよ」

「分からないよ。理人が知らないだけで、俺は会ったことがあるかもしれない」

 空の言うことはもっともではあった。俺がこの家へ来たの、つまりそれが亜子さんと暮らし始めた時期ということになるのだけど、それはほんの三年前の春のことだ。空はそれより前の三年間も亜子さんと付き合いがあって、しかも、俺よりも親密な付き合いをしていたはずだから、一年の差とはいえ、亜子さんについて知っていることに差があったって、おかしくはない。

「亜子さんの、大学の後輩なんだって。去年のパーティーにも来てたよ」

「へえ。そんな、仲の良い人なんだ」

「きっと、そうなんだろうね。あのパーティーの写真を取りに来るんだ、って、亜子さんは言ってた」

 昨日の夜、夕飯の後に亜子さんがしてくれた説明を、ほとんどそのまま伝える。俺が勝手に言ったのは、空が挟んだ質問への答えぐらいだ。俺にこれを伝えるとき、亜子さんはひどく申し訳なさそうにしていた。ごめんね理人君、騒がしくなるかもしれないけど、と控えめな声で亜子さんは言ったけれど、実際にはとても気を遣われていることは、目を見れば分かった。俺が、大丈夫ですよ、と頷くと、亜子さんの表情は一気に安堵に緩んだのだから、俺は自分の推察の間違いなさを確かめたのだ。

 大体の俺の人間関係において、家族も友人もそうでない顔見知りも広く含めて、共通して認識されているところといえば、きっと「他人(ひと)嫌い」というところなのだと思う。亜子さんも恐らくそう思っていて、だからこそ、休日の昼間の来客について、けい兄の次に俺に話をしにきたのだろう。誤解のようなそうでないような理解に基づいてそう聞きにきてくれることに、俺は申し訳なさを覚えもすれば、確かに安堵を感じてもいる。見知らぬ他人(ひと)というのは、未知であるという以上の理由で俺を脅かし得る。誰に言っても信じてもらえないだろうが、俺にとってはそうだった。

「だから理人は、今日ずっと部屋に居るんだね」

「そうだね」

 空へ返事をする自分の声が、ぎこちなく聞こえた。でも空は、俺の返事に何か違和感を覚えた様子もなく「珍しいと思ったんだ、そんなこと」なんて、ひどくうれしそうに口にして、笑っている。いつも笑顔を浮かべてはいるが、今日みたいにはっきりと、感情まで読みとれるのは珍しい。小さな笑い声まで、喜びに満ちているようだ。それを聞いて、俺はまた、申し訳ないような気持ちになる。そう感じていることが表情に出ないという自信はなかったから、空に背中を向けるようにドアの方を向く。ちょうど、床の上には参考書が放り投げてあって、俺はそれを拾い上げ、目を通すふりをしてページをめくる。機嫌良さそうな空の鼻歌が聞こえてくる。その空の声に、そして、振り返ればきっとまだそこにあるだろう空の姿に、俺は、他人(ひと)にそう感じるのと同じように、途方もない恐怖のきざはしを感じ取っている。もう何年も一緒にいるのに今更、いや、もう何年も一緒にいるからこそ、なのか。ともかく、空がそこに居ることから逃げ出したいのだと思う。開いている本のページに、文字が書いてあることは分かっても、書いてある内容までは分からない。空の鼻歌がふと、止む。

「誰か、こっちに来てる」

 急に冷たくなった声が短く告げた。本から顔をあげて、ドアを見る。耳を澄ましてみれば、ほんのかすかにだが、階段をのぼってくるらしい足音が聞こえてくる。空の言うとおりだった。空の方を振り向くと、脚を揃えたままじっとさせて、肩を強ばらせながら、ドアを見つめている。ベッドに突いた手の指先が、白くなっている。

「よく、聞こえたね、空」

「聞こえるよ。勝手に、あっちから聞こえてくるんだから」

「怖いの?」

「どうして?」

 俺が尋ねたのに質問で返して、空はまた笑顔になる。脚をぶらぶらさせながら、なだらかになった肩にくっつけるように首を傾げて、俺を見ている。手は股の上に自然に重ねて置かれ、シーツには一切の乱れもない。そんな風に前にいられると、俺は、空に尋ねた根拠を見失ってしまう。さっきの一瞬は、確かにそれが本当であるように思ったのに。

 何でもない、と言って、自分の言ったことを誤魔化してしまうことも出来る。ただ、どうして、と言った空を裏切れないと思った。「どうしてだろう、そう思った」と正直なところを答えると、空は可笑しそうに目を細める。声は出さなかった。出せないのかも、しれないけれど。

「理人がそう思ったんなら、そうなのかもしれないね。俺はきっと、自分が怖いと思ってることも分からない」

「そんなこと、ないよ」

「本当にそう思う? ねえ、」

 理人、と俺を呼ぶ声と、ドアがノックされる硬質な音が重なった。ほとんど反射的に、「はい」と返事をして、ドアの方を振り向く。視界を横切ったベッドの端には、誰も腰掛けてはいない。それに安堵している自分をどうにかしたくて、奥歯を噛み締めながら、ドアがゆっくり開くのを見ている。

 開いたドアの隙間から、亜子さんが、遠慮がちな様子で顔を覗かせる。眉尻を下げた、うんと申し訳なさそうな表情と、後ろに誰かを隠しているような気配に、今度は自分の肩が強ばるのが、分かる。

「ごめん、理人君。ちょっといい?」

 断るという選択肢は、実のところ俺の中にはない。けい兄と結婚をして、俺達の家族になってくれた亜子さんを、俺達は亜子さんが考えている以上に、好きでいる。多少厄介な頼みごとだってすぐに頷く用意が出来ているぐらいには、俺もちゃんと亜子さんのことを好きでいる。

「大丈夫です」と言った声がまったく緊張を伴っていなかったとは思わないが、それでも、亜子さんの表情を緩めるには十分だったらしい。「ありがとう」という声も、幾分か柔らかくなっている。

「今日来てる、僕の……研究室の後輩なんだけど」

「ああ、はい。今日のお客さん」

「それが、話してたら、理人君と同じ学校の出身らしくって」

 亜子さんの言ったことを自分の中で反芻して、一度、頷く。高専から、理学部の宇宙物理学科。かなり珍しい気はするが、有り得ない話ではない。そういう人を聞いたことはないが、居てもおかしくはないのだろう、という納得を込めて頷いておく。俺の反応を確かめたからか、亜子さんは唇を閉じずに、続けていく。

「それで、そいつが理人君に会いたいって言い出して、理人君も進路のことを考えてるって言ってたから、良い機会かなあと思ったんだけど、どうかな」

 そうして亜子さんが続ける声は、次第にまた、亜子さんの感じているだろう申し訳なさを、少しずつ滲ませてくる。語尾と一緒にわずかに傾けられた首の向こうには、地に足着いていない不安が透いて見える。亜子さんが俺に頼んでいることというのは、亜子さんが考える俺の嫌なこと、だから、そういう風な態度になるのかもしれない。亜子さんの推測は確かに間違っていなくて、俺は、知らない他人と会うことを、人より過敏に躊躇する性質ではあるけれども、俺の感じる躊躇が亜子さんからの頼みごとを上回るかはその時にならないと分からない。そして今日はといえば「良いですよ、お会いします」と、我ながらぎこちない風に答えるぐらいの気分だった。さっきまでは空とふたりだった、ということがあるかもしれない。あの、息苦しさに比べれば、こんな逡巡はさしたる障害でもない。亜子さんが、驚きにだろうか、眼鏡の奥の目を、大きく瞬かせる。すぐに「ありがとう」と言って、気を取り直したように笑みを見せると、亜子さんはゆっくり息を吐いて、ドアを大きく開ける。亜子さんの隣に立っている人の姿が、俺にも見えるようになる。

 亜子さんと同じぐらいの背の高さをして、亜子さんより幾分か広い肩幅をしている。黒い髪は柔らかそうに、違和感のないぐらいに長い。いかにも柔和そうな面立ちは、普通なら、相手に警戒心を抱かせないのに役立つのだろう。ストライプのシャツと綿パンという出で立ちも同じ、ごくごく普通の学生を思わせる。

 それだけを一瞬で観察して、けれども、その人と目が合ったときに、言いようのない厭な感じが、俺の爪先から頭の天辺までを貫き通す。鳥肌が立っているのが、肌に直接触れなくても分かった。目の合った相手は、何を考えているのかは分からないが、まったく平然とした様子である。この感じは、俺だけが一方的に受けているものなのか。

 怖いの、と空の声がどこからか囁いている。怖いんだね、と続ける声に、いや、まだ分からないよ、と声には出さないで答える。まだ、分からない、ともう一度返事をしたのに、それへの答えはない。「それじゃあ」と亜子さんが言い、俺と自分の隣のひととを順に見た。「自己紹介でも」と亜子さんが続けて、隣のひとを俺の部屋の中へ招き入れる。背中の中心を、悪寒がぞわり撫でた。声をあげそうになったのを、頬の肉を噛んで耐える。俺は普通の顔を出来ているだろうか。おそるおそる顔をあげてみるが、亜子さんもその隣のひとも、訝しむような素振りはなかった。それに安堵するような隙もなく、浅く息を吸う。

 ほら、と亜子さんに促されたそのひとが口を開き、何かを言い掛けたのにかぶせて、「亜子ちゃんー! ちょっと、こっちきてー!」とドアの向こうから高い声が叫ぶのが聞こえてくる。くう姉の声だ。亜子さんが目を瞬かせる。自分の後ろを一瞬見やってから、俺を見る。戸惑っている亜子さんに、行ってください、の意味を込めて頷く。亜子さんは、また申し訳なさそうな表情になって、「ごめん、ちょっと」と小さな声で言う。それから「今、行きまあす」と、後ろへ向けて大きな声で言い、隣のひとの肩を叩いた。

「ササヌマ、ちょっと待ってて」と早口で言うと、その人の返事を待たずに、亜子さんは俺たちの方に背を向ける。すぐに歩き出して、見えなくなった。仕方がない。仕方がないとはいえ、一抹の不安が胸を過ぎる。この、厭な感じを与える人と部屋にふたり。俺は、それをやり過ごせるだろうか。ふたりじゃないよ、という空の声が言う。どこからしているのか分からないし、俺の頭の中からかもしれない。

 開けっ放しのドアのところに、ササヌマ、と呼ばれたひとは立ち止まったままでいる。俺が何も声をかけていないから、当然なのかもしれない。どう、声をかけたものだろう。考えながら、ドアのところに居るひとをじっと見上げるが、そうそう思いつかないし、そのひとと目も合わないから、無理矢理に近いきっかけだって与えられない。そのひとの視線は、じっと固定されている。俺の部屋の奥、丁度、ベッドの端の辺りに向いたまま、動かない。そのことに気が付いてまた、肩が思わず震えるような怖気が全身を巡る。

 まさか、という疑念が浮かぶ。これまでに起こらなかったことが、起こっているのだろうか。だから俺はこんなにも、このひとに対して厭な感じを覚えるのだろうか。俺の部屋の奥にいる何かをじっと見つめているらしいまなざしは、やっぱり、じっと動かない。

 ゆっくりと息を吐く。空っぽにした肺に、力を抜いた途端、空気が送り込まれる。もう一度、ゆっくり息を吐く。震え始めている指先を折って、強く握り込む。爪を切ったばかりなのは残念だ、少しぐらいの痛みがないと耐えられる気がしない。それでも、もう仕方がない。肺が充分に空気に満たされた後で、息を止める。そうしながら、ゆっくりと後ろを振り返る。ササヌマというひとの視線をたどりながら、止まってしまいそうになる体を叱咤して、後ろを向く。

 ササヌマの視線の固定された先、俺のベッドの端。そこに、空が笑顔で腰掛けて、膝から下の脚を、宙にぶらぶらと遊ばせている。青白い肌も真っ黒な髪も、俺を見るやわらかなまなざしも、間違いなく空のものなのに、俺はぎょっとする。本当に息が止まってしまいそうなほどに。

「ほら、ふたりじゃない」

 さっき聞こえたのもこの空が言ったのだと、言外に告げている。そのときから空はそこに居たのだ。そのとき、ササヌマはどこを見ていた? それとももう、空が居るのを見ていたのか。

 ゆっくりと体を動かす。細く細く息を吐きながら、速くなった心臓の音を感じながら、後ろを向いていく。さっきたどった視線を逆にたどって、見上げる。そのひとは、ドアのところにたったままのひとは、間違いようもなくベッドの端を、そこに腰かける空のことを、呆然と見つめている。

「おまえ、誰だ?」

 間抜けな声がそう言った。そんなの、俺が聞きたい。

 空だけがひどく可笑しそうに、小さく笑っている。


「真島、第一志望どこの大学?」

 前の席に座ってこちらを振り向きながら、津守が言った。俺の机の上には、一言だけ記入した「進路希望調査票」。すぐにそれを見つけたのか、津守が目を丸くする。

「『未定』」

「ああ、うん」

「お前、車の設計するならやっぱり進学かなって言ってたじゃねーか」

 何故だか責めるように津守が言うが、そうされる謂われが一向に思いつかなくて、首を捻る。津守は不服そうに、机の上のわら半紙を睨んでいる。おそらく、これまでの誰よりも真剣に、俺の「進路希望調査票」を見ている。薄い筆圧で書かれた、たったふた文字を、何のつもりか、繰り返し繰り返し、なぞっている。

「何か面白いか?」

「……面白くねーよ、これ写したら俺まで怒られんだろ」

 ため息の後投げやりに津守が言ったことで、ようやく魂胆が明らかになる。確かに、そんなつもりだったなら俺の書いたのを見て落胆もするだろう。しかし、そんな津守の嘆きよりは、言われた中であっさりと決めつけられていることの方が気にかかった。

「怒られるかな」

「怒られるだろ、真面目に考えろって」

「真面目に考えた結果がこれです、って体でも」

「それでも……いや……」

 口元に手をやって俯き、眉間にしわを寄せている。俺の言ったのを検討しているのだろう、妙なところで顔を出す、多分それが本来の津守であろう、真面目な態度が面白い。「どーだろな」と締めくくるのに、まだ、言葉の通り迷っているらしく、首を傾げている。視線の先に、未定、のふた文字があるのは確実だ。

「どっちにしろ、お前が怒られるのは確実そうだな」

「……そうだよ! 絶対、真島なら書いてきてると思ったのに」

「書いてきてても、それ丸写しならばれるだろ」

 俺がそう言うと、津守はいよいよ観念したように、口をきつく噤んで、眉間に皺を寄せる。唇を尖らせながら、「そりゃそーだけどよー……」と言い訳めいたことを言うが、それ以上には続かない。結局のところ、このやりとりが不毛であって、自分は自分で考えなければならないことを、津守も分かっているのだ。それなのに、今こうしてじゃれついてきているのは、何なのか。津守を見る自分の口元が緩んでいるのが恐らくは答えだ。

「まあ、いいや。明日考えよう」

「そうか」

「そうだよ、明日出来ることは明日する。今日はもう帰る!」

 高らかに宣言して津守は立ち上がる。俺もそれにつられるように、立ち上がる。机の上の「進路希望調査票」は、教壇の上に裏返して重ねておく。まだ机の前で悩んでいるクラスメイト達の仲間入りをする気は、津守にはさらさらないらしい。出入り口の扉のところに立っている津守へ、恨みがましい視線が向けられている。堂々と締め切りをやぶって、悪びれもしないのだから、当然か。

「お前も書けよ」

 廊下側の前の方の席に座る奴が、機嫌悪そうな声で言う。それを聞いたつもりは、何故だか自信たっぷりに胸を張って「イヤだね」と言ってみせる。

「今日のまんま出してもどうせ怒られるし、それなら今日は出さずに帰って、一晩考えて明日の朝怒られる方がマシ。明日出したら怒られないかもしれんし」

「屁理屈だろうが。真島、お前からも何か言ってやれよ」

「何かって言われても」

 唐突なクラスメイトの振りにいささか困惑を覚えつつ、首をひねる。津守に言いたいこと、は、もう大体言ってある。まだ他にもあるだろうか、と考えつつ、逆側に首を傾けると、クラスメイトの口から大きなため息が吐かれる。

「マイペース共め」

「ああ、うん。それは否定できない」

 素直に頷いておくと、何故か津守が噴き出す。クラスメイトが怪訝な顔をして、何か言おうと口を開きかけるのに、津守は彼が声を出すより先に、走り出す。追いかけなければいけないのが、面倒くさい。思わずため息を吐けば「帰り道、事故んなよ」とクラスメイトが言う。片手をあげてそれに答えてから、津守の行った方に向けて、走る。


 駅前の広場は知らない人で賑わっているのに、その人が来たのはすぐに分かった。人ごみの向こう側の誰かと目が合った瞬間に、この間と同じ、得体の知れない怖気が肌を撫でた。

 ゆったりした歩幅で、改札の方から歩いてくる。柔らかそうな黒い髪、違和感のない程度に長い髪の毛先は、白いシャツの襟に引っかかっている。穏やかなまなざしは、青白い頬の上に乗っている。光をめいっぱい集めようとしているみたいに、大きな目だった。昼間なのに、夜の下に居るみたいだ。

 ふと、「あ、空に似ている」と思った。

 確かに、そうだった。彼の持っている色も、やわらかいまなざしも、空の持つそれに酷似している。違うところがあるとすれば、彼が明らかに俺よりも年上であるということか。しかしそれすら、もしも空が成長をしていたら、なんていう想像を働かせるための材料にしかならない。

 彼は俺の前に立ち止まる。柔和そうな面立ちはこの間と変わらないのに、随分と機嫌が悪そうに見えた。不機嫌そうに細められた目にじっと睨みつけられれば、こちらだっていい気はしない。もうとっくに鳥肌の立っている肌の上を、上塗りするように悪寒がゆっくりと撫でていく。

「本当に、似てるな」

 彼が言う声も、この間は気付かなかったが、空の声によく似ている。ただ、年数を重ねればきっとこうなるのだろうと予想されるぐらいに、落ち着きを増している。そんなことばかりが気になって、低く安定した声が、ほとんど聞き取れないぐらいの大きさで、そっと告げたことの中身が入ってくるのに時間がかかる。似ている、とは誰と誰のことだろう。自分自身と空のことはまさか言っていまい。ということは、彼の視界に入っている人物と誰かここに居ない人を比べて言っているのだろう。そして、彼の見ている相手はどうやら俺らしい。

 どうも、同じことを考えているようだった。俺は彼に、彼は俺に、ここには居ない誰かの像を重ね合わせてはっとしている。

「——改めまして、俺は、ササヌマソウジ。笹の葉の沼地に宗教が二つで笹沼宗二」

 彼は初対面であるみたいに挨拶を投げかけてくる。確かにこの間、うちに来たときにはする間もなく彼が帰ってしまったけれど、さっき呟いた短い言葉はなかったことにされたみたいだった。

「真島理人です。真実の島に理性の人。あの、」

 名前の説明を言い終えて、閉ざすはずだった唇が勝手に、呼び水を口にする。いや、このまま唇を閉じてしまえばなかったことにできるのだが、とっさに止めた呼気を肺の中に留めておくのがひどく難しくて、声になってしまう。

「あなたには空が見えてたんですね」

 そうして実態を得た言葉が、彼のだけでなく自分の鼓膜をも震わせる。そうして聞いてみて、ようやく実感めいたものが生まれてくる。彼は、笹沼という人は、俺の部屋のドアの手前に立ちながら、部屋の奥、ベッドの端に腰掛ける空を見ていた。

 笹沼は少し目を見開いて(そうしたときの表情がまた、空に似ている)、息をゆっくりと吐く。「あいつは、空っていうのか」と、俺の目を見ながら笹沼が言う。あいつ、というのがベッドに腰掛ける空のことを指しているのはすぐに分かったから、ゆっくり頷く。俺がそうした後、笹沼は何故だか、ほっとしているようだった。

「青白くて、ひょろっと細くて、笑ってるやつを見た。ベッドの端に座って、あれが、空、なんだな」

「そう、そうです」

 突拍子もないような話をしているのに、笹沼の受け入れは良いみたいだった。あからさまに疑うことも、異論を挟むこともなく、淡々と、俺の言ったことを自分の中で確かめている。少し俯いた視線は、足元ではなくてもっと別な場所を向いているように、焦点があっていなかった。ロータリーの方から、バスのアナウンスが喚いている。どのバスかが発車するのだろう。走る足音、ドアの閉まる音、エンジンの動力がタイヤへつながって、バスが動き出す音。それらの音を後ろに聞きながら笹沼を見る。少しずつバスが遠ざかっていくのと一緒に、笹沼の目がはっきりとしてくる。はっきりと俺を見ていることが、分かってくる。

「暇?」

「はい」

「ちょっと、一緒に来ないか」

 新手のナンパ、にしては率直な誘いだ。断る理由もないから、頷いておく。頷いてから、悪寒が急に背中を走った。この人はやっぱり、俺に厭な感じを与えてくる。その理由も、厭な感じのはっきりとした正体も分からないけれど、ここにぼんやりと突っ立っているよりは幾分かマシなような気がした。

 笹沼が歩き出す、後ろに着いていく。コンパスの長さを十二分に活かした歩調に合わせるのに、普段より幾分か早足になる。空と歩くときはこんなことはなかった、兄や姉たちの誰と歩くときもこんなことはない。ただ、わずかずつ開いていく距離を、俺も焦ろうとは思わなかったし、笹沼も気にする様子はなかった。駅前の通りを向こうへ渡る横断歩道の、行き交いを規定する信号が、歩行者用から順に赤になる。黄色い凸凹のあるブロックを避けて笹沼は立ち止まる。俺もその後ろに立ち止まる。カッコウに模した電子音が鳴いている。目の前を車が横切っていく、そこに俺が飛び込んでも、或いは笹沼の背中を押しても、大差なく事は終わるだろう。真っ黒な車体の後ろに、いやに絢爛に飾り立てられたコンテナを鎮座させた車が通りがかる。ナンバープレートを読もうとするのに、小さすぎて見えない。まばたきをしている間に、もっと遠くへ車は過ぎてしまう。カッコウの声がやんだ。

「死にかけたこと、あるだろ」

 顔をあげれば、笹沼が俺を振り向いている。真っ直ぐな視線に、しかし、今度は何も感じ取らない。見られたのをまっすぐ見つめ返して、ただ、それだけ。とおりゃんせが流れ始めて、笹沼は前を向いて歩き出す。俺はその後ろを、少し間を空けてついていく。しかし、俺は歩調を変えないのに、笹沼の背中との距離はどんどん縮まって、ぶつからないようにと右に避けたら、並んでしまう。他に横断歩道を渡っている人たちから、自分たちはどう見られるだろう。兄弟、にでも見えるだろうか。

「俺はある。五つの頃だ。実家の近くの川で溺れた。別に増水もしてないし、流れが速い川ってわけでもなかった。川底の藻で滑って、頭を岩で打って、気絶してたんだ」

 言いながら、笹沼は自分で可笑しそうにしている。聞いているこちらとしたら、少なくとも面白くはない。「ここあたりに、まだその時の傷がある」と笹沼が後ろ髪をかきあげる。ここ、と言うのがどれだか、傷があるのかないのかも分からない。返事をしないでいると、「浅い水だったけど、どれくらいそこに居たんだろうな」と、笹沼は続きを話す。

「三途の川を見た、俺はそう信じてる」

「三途の川?」

 あまり現実的でない単語を、思わず、オウム返しに尋ねてしまう。笹沼はこちらを向いて、嫌みったらしい猫のように笑うと、うん、と頷く。

「水はなかったけど、深い深い谷があって、向こう側に別な国が見えた。だからあれは三途の川だったんだろう」

「水もないのに川なんていえますか」

「水があれば川って呼ぶものなら、無くたって川でいいじゃないか。……いや、見えなくてもきっと水は流れてたんだ、ずっと水音はしてたんだから」

 笹沼の言うことへ、口を挟みたいところは他にも色々とある。別な国って何だとか、いや水がなけりゃ川じゃないとか、水音は実際に聞いていたものじゃないかとか、いくつもあげられるのに、もうどれを尋ねる気にもなれなかった。耳の奥に、小さなせせらぎが聞こえる。決して激しくなく、しかし静か過ぎもせず流れる、どこか遠くの川の音。それは谷底に流れる川だ。深く広い、赤茶けて荒涼とした谷。谷の向こうには、暗がりに点々と、明かりが灯っている。俺はきっとこの川を渡れない、と思う。

「真島は?」

 名前を呼ばれて、脳裏の景色が霧散する。笹沼の行くままに着いてきて、路地に入ったからか、辺りはしんと静かだった。

 尋ねられたことは分かっている。努めてゆっくり瞬きをする、目蓋の裏にまた別な景色が浮かぶ。本当に見たものなのか、人づての記憶を俺が再構成したものか、未だに分からない、夏の眩しい日射し。蝉の声、焼け焦げた匂い。割れたガラスとひしゃげた天井、重力の方向がおかしくて、血まみれになった大人がふたり、そこに居る。俺はそれを見ている。何をすることも出来ずベルトに体を固定されて黙ったままじっとふたりの大人が息絶えていくのを見ている。

 ゆっくり息を吐きながら、目を開ける。いつの間にか立ち止まっていた。笹沼は二、三歩行ったところに居る。その目が俺を見ている静けさはやっぱり空のそれに似ていた。

「ありますよ」

 俺が答えれば、笹沼は「そうか」と頷いて、歩き出す。はぐれないように、その後を着いていく。ここには水の流れる音もなかったし、四月だから蝉の声だって聞こえなかった。それは分かっているのに、やっぱり、ふたつの音は聞こえてきそうになる。耳を塞いでも無駄なのだろうと思う。だって、その音は鼓膜の外側で震えているわけじゃない。

 笹沼が電信柱のある角を左に曲がる。姿が見えなくなる、一瞬で過ぎると分かっているのに、不安が高じる。少し早足になって、笹沼の曲がった角を過ぎると、そこで笹沼は立ち止まってこちらを見ている。俺を待ってるみたいだった。目が合えば、笹沼はまた歩き出す。俺はそれへ着いていく。カルガモの親子の図をふと思いついて、可笑しくなる。

  あまり行かないところで笹沼は立ち止まる。築年数の古そうなアパートの前だった。

「俺の家」

 ちらりとこちらを見て、笹沼は言う。この建物すべてが笹沼の家、というわけではないだろうから、どれか一室のことを指して言っているのだろう。さてどれのことか、考える間もなく、笹沼はひとつのドアの前に歩み出る。階段をのぼらない、一階の、四つ並んだドアの左から二つ目。表札には「二〇三」と奇妙な数字が書いてある。金属製の窓の格子の塗装はところどころ剥がれて、錆がむき出しになっている。

 笹沼は、ポケットから取り出した鈍く光る鍵を鍵穴に差し込んで回し、鍵を抜いた手でドアノブをひねって手前に引く。「ただいま」と、部屋の中へと声をかけながら、笹沼は玄関へ足を踏み入れる。ドアを開けたままそこで立ち止まって、こちらを振り向く。視線が、俺を招き寄せていた。いつの間にか止めていた息を吐いて、ゆっくりと息を吸いながら、足を踏み出す。消え去っていた怖気が、地面に着いた踵からまた這い上がってくる。

 それでも、俺は笹沼の家の玄関へ足を踏み入れた。狭い玄関の三和土には、さっきまで笹沼が履いていたスニーカーと、サンダルとが並んでいる。スイッチの入る音と一緒に部屋が明るくなる。玄関のすぐ横には台所があって、その奥の部屋に至るまでに仕切りはない。いわゆる、ワンルームというやつなのだろう。確か、昔けい兄が住んでいたのが、似たようなつくりの部屋だったように思う。

 電灯の傘の下に、笹沼が立っていた。こちらを向かずに奥の方を向いている。部屋の奥の壁には大きな窓があって、レースのカーテンがかかっている。いかにも型の古いブラウン管のテレビがアルミラックの上に置かれて、その下に小さい掃除機が収まっている。手前には、まだ布団のかかったこたつが置かれている。その横の壁際にはベッドが置かれている。寝具の置きっぱなしになったベッドの横の絨毯の上に、子どもが座っている。小さくて痩せた子どもが、曲げた膝を抱えて座りながら、俺を見ている。

「ただいま、一(はじめ)」

 笹沼が言う。子どもの視線が俺から外れる。短い髪、日焼けした肌、半袖のシャツと膝の見えるズボン、裸足なのにちっとも冷たそうじゃない。笹沼を見上げた子どもはうれしそうに笑って「おかえり、にーちゃん」と言う。それだけだった。立ち上がろうとすることもなかった。笹沼が子どものそばに寄って、絨毯の上に座り込む。ふたつの人のかたちを比べると、まるっきり、大人と子どもだった。大人の方はやっぱり空によく似ていたし、子どもの方は、何故だか、俺によく似ているようだった。

 子どもの目が笹沼から逸れて、俺を向く。確かに目が合っている。呆然としながら見つめる先で、子供は不思議そうにしながら、首を傾げる。

「おにーちゃんは、だれ?」

 あどけない声音で子どもは言う。答えることは簡単なはずの質問なのに、どう答えて良いのか分からなくて、俺は、後ろ手にドアノブへ手を伸ばした。


 くすくす、小さく笑う声がする。本当に可笑しがっているだけにも、どうしようもないから仕方なく笑っているようにも聞こえる。目を開ければ、定位置に腰かけた空が、宥めるように俺を見ている。ベッドの端に腰かけて、脚をぶらぶらと、宙に遊ばせながら、柔らかく笑んだまなざしが俺を向いている。

「逃げ出したんだね、理人は」

 責めるような響きは一切なかった。笹沼に着いていった先でのことを語る俺に向けられる空の目は、あくまでも親しげな好奇心に満ちているだけであったし、口元は微笑を浮かべてすらいた。だというのに俺が、空に非難されているように感じているとすれば、理由は俺の側にある。その正体を、俺はうすうす感づいている。

 空の座るシーツには皺一つ残らず、照明もカーテンのあわいから射す橙がかった光も、空の影を床へ落としたりはしない。俺がいくら見上げていたって、空は瞬きもなしにずっと俺のことを見つめ続けられる。

「怖かった?」

 きっと、笹沼でない、空でない、あの子どもに会ったときのことを言っている。ベッドの横に膝を抱えて座り込んでいたあの子ども。今、視線を下げてみても、そこにあるのは空の青白い裸足だけだ。目を伏せて、ゆっくりと、首を縦に振る。そっか、と相づちを打つ空の声だって、穏やかなままだった。

「怖いものから逃げるのは、大切なことだよ。自分の身を守るために」

「だから空は死んだの?」

 あくまで穏やかに空が言ったのに、思わず口を突いて出た俺の問いかけが、不釣り合いに緊張感を伴っていた。今まで聞いたことがなかった、でもいつかは聞きたかった問いかけが、不意を突いて表へ出た。

 空は、困ったような、悲しそうな、曖昧な笑みを浮かべて、首を傾げている。しばらくして、逆の方へ首を傾ける。

「分からないよ。分からないんだ、理人。それに、俺が分からないことを一番よく知ってるのは理人じゃないか」

「だったら、どうしてあの人は空を分かったの? どうして、俺はあの人の家で子どもを見たんだ」

 語気が荒くなる。自覚して声を飲み込むように小さくしたが、頭の中でうごめくものはまったく落ち着かない。心臓の音は速くなっているし、呼吸は浅い。狭く、暗くなった視界の真ん中で、空が俺を見ている。大きな目、黒い目、真っ直ぐで痛々しいほどの目。笹沼と、よく、似ている。

 理人。

 空が俺を呼ぶ。ゆっくり、ゆっくり息をして、と落ち着いた声が続ける。目を閉じて、その声へ従おうと、唇を薄く開く。鼻からゆっくり息を吸って、腹の底まで、そこからまたゆっくりと、口から息を吐く。数を数えながら、三秒で吸って十秒で吐く。熱せられていた頭の中が、少しずつ冷えていく。目の奥で何かがうごめいているのは変わらないが「そう、そうだよ」と言う空の声を自分の外側に聞けている。

「ゆっくり、息をしていて、理人。俺の言う事なんて聞いてなくたっていいから。理人はゆっくり息をしてるだけでいい、そうは言っても、理人には俺の声は聞こえるんだろうし、それは仕方のないことだね。

 俺は、どうして俺が死んだかなんて、本当に分からないんだよ。だって死にたかったのはずっとだもの。そうなるのはいつだって良かったんだし、そうする理由なんてどうでも良かった。ただ、許してもらえたんじゃないのかな、俺は、俺がそうすることを。だから、今までだらだら生き長らえてきたのにそうしたんだろうと思うよ。

 でも理人、それを判ってどうできる? きっと俺は消えないし、かといって俺は戻らないし、俺が何者かなんて分からないよ。理人、理人の欲しいことは全部、取り返しのつかないことだよ」

 空の声が止まる。不意打ちに、ノックの音。顔をあげてそちらを向くことも出来ずに、努めて深い呼吸をしている。ドアの開く気配の後、「理人、」と慌てた声と足音。足音は俺の隣に立ち止まって、しゃがみこんで俺の背中に手を当てる。

「発作か?」

 けい兄が心配そうに尋ねてくるのへ、首を横に振る。けい兄の尋ねているのは過換気のことだろうけど、その気配は遠ざかっている。 それよりも、目を開ける度に流れたりとどまったりする、熱い涙の方が問題だった。顔を上げてちゃんとけい兄を見ることも出来ない、訳を聞かれたらうまく答えられる自信がないから、俯いたままでいる。

「大丈夫なんだな」

 俺の背中をさすりながらけい兄が言う。それに頷きながら、ゆっくりとした呼吸を続けながら、目元を拭う。「大丈夫」と、自分に向けて言い聞かせてみる声は、なんとか震えずに済んだ。顔をあげれば、俺を心配そうに見つめるけい兄と目が合う。ゆっくり一度頷けば、けい兄はどっと息を吐いて、絨毯の上に胡座で座り込み、肩の力を抜いたようだった。その様子に何だか申し訳なくなる。わけを聞かれても本当のことが言えないと、分かっているからだ。

「亜子から電話があった」

「帰り、遅くなるって?」

「ああ。それと、お前に謝っといてくれってさ」

「何を」

「週末のことだろう。僕がついとけなかったから、って、えらく凹んでたが」

「別に、亜子さんのせいでなんてことは何もないけど」

「それにしちゃ、焦ってたがな」

 これで話は終わりらしい、けい兄は絨毯に手をついて、「よいしょ」と小さなかけ声に合わせて立ち上がる。一度布をはらえば、着物の裾がまっすぐに落ちた。

「夕飯には降りてこいよ」

「分かってる。今日はくぅ姉だよね、当番」

「そうだな」

 俺の質問に答えて頷いたけい兄の目が、ふと部屋の奥を向く。ベッドのある方。今は誰も座っていない、きっとけい兄には何も見えていない、空がいつも座っていたその場所を見てから、けい兄は「じゃあ後で」と俺に背中を向ける。俺は「うん」と頷いて、けい兄が部屋から出て、扉を閉めるのを見ている。閉じた扉の内側、部屋の中には俺ひとりきりだ。

 きっと、今振り返ってみても、ベッドの端には誰も居ないだろう。たとえそうであっても、空の声だけは聞こえている。ごめんね、理人、とかすれて泣き出しそうな声が、俺にだけ聞こえている。


 机の上には、付箋の貼られたわら半紙が一枚置かれていた。「進路調査票」と印刷されている右半分を隠している黄色い付箋には、赤ペンで走り書きがしてあって、一応でいいから具体的に書け、ということが書いてある。未定、という正直は通用しなかったらしい。

 それを待って座っているのが小一時間も経つと、いよいよ面倒さが勝ってくる。前の席に座る津守は、最初は随分と途方に暮れた様子だったのに、同じ目に遭っている同級生がひとり、ふたりと帰っていき、教室に残されたのが俺とふたりになってからは、机に突っ伏して眠っている。帰るのを諦めて学校に泊まる気なのかもしれない。それもありかもしれない、と考える俺は、多分疲れている。

 こんな紙に書く文字が本当に俺の人生を決めることなどあり得なくて、だから書かなくても良いだろう、なんていうのは通用しない言い訳に過ぎない。世の中の仕組みというのは意味のないことで成り立っている、ということはみんな知っていても口に出さない、守られていなければならない秘密だ。

 文字を隠している付箋を剥がして机に貼り付け、シャープペンシルを紙の上に転がす。クリップを下にしてペンが止まったのと同時に、机が震えた。シャープペンシルのせいでも、紙の横の消しゴムのせいでもなく、原因は、机にかけた鞄の中にあるようだ。鞄を持ち上げて、膝の上に乗せて中を探ってみる。確かに震えているものに指先が触れた。それを取り出してみれば、黒い携帯電話のサブディスプレイに、見知らぬ電話番号が映し出されている。迷惑電話だろうか、と思ったのに、電話を開いて通話ボタンを押し、耳に当てるまでを躊躇いなくしてしまう。きっとこれも、言い訳のひとつなのだろう。

「もしもし」

「ああ、真島か?」

 尋ねてくる声が一体誰のものか、すぐには分からない。ただ、その声と一緒に、水の流れるかすかな音を聞いたような気がした。

「笹沼さん?」

 同じ音を伴っていた人、週末から数えて二度ほど、顔を合わせた人の名前が口をついてでる。それはどうやら間違いではなかったらしく、肯定も否定もない代わりに「ムロ先輩から番号聞いた」と説明が続く。ムロ先輩というのはたぶん亜子さんのことだろう。俺と笹沼の共通の知り合いは亜子さんしか居ないのだし、亜子さんの旧姓は三室崎というのだったから。

「今、大丈夫か」

「ああ、はい。丁度暇したかったところなので」

「学校にでも居るのか」

「そうですよ。教室に居ます、南校舎の三階」

「へえ。懐かしいな」

 笹沼の言うのに、彼が俺に紹介されたわけを思い出す。俺と一緒の学校の出身、そういうことだったはずだ。笹沼が俺の言ったことへ何を思い出したかは定かでない。ただ、懐かしい、と言えるだけの距離を持って、笹沼はこの場所の何かを思い出しているのだろう。果たして、俺もそうあれるのだろうか。学校、という場所に限れば出来る気がした。そもそも懐かしく思い出すほどの何かを、俺はここにもっているのか、という疑問はあるが、それは離れてみてからでないと分からない。懐かしさに距離は必須だから。

「——どうして、電話なんか」

 あんまり笹沼が黙っているもので、俺の方から切り出す。はっと息を吸う音がした。ああ、とか、うん、とか、言葉になっていない声を続けた後、笹沼は「悪かったな、と思って」と、しおらしく呟いた。「悪かった?」と聞き返した自分の声が勢いづいているようだったのは、気のせいだと思いたい。

「いきなり一(はじめ)を見て、驚いただろうから」

「それ、もっと早く考えられますよね」

「だって、本当にお前に見えると思わなかったんだ」

 苦笑しているように笹沼が言う。そう言われたことは、俺にも確かに身に覚えのあるところだったから、何も答えられず口を閉ざす。

 俺にしか見えない空。俺しか居ない部屋にだけ姿を見せる空。俺以外の世界とあらゆる関係を切り取られてしまったようにそこに居る空を、まさか他に見られる誰かが居るなんて、思いもしなかった。笹沼のまなざしが確かに空を向いている、と思った後でも、言葉で尋ねなければ確信は出来なかった。そして、笹沼には確かに空が見えていた、と認められた後でも、何か形にならないものがまだ残っている。

「——一は、俺の弟でさ、十ぐらい年は離れちゃ居るんだが、あの年の時に死んだんだ。あいつは何にも悪くない、って俺は今でも信じてるけど、信号無視の車にはねられた。

 それで、どれぐらい後だったかな。ようやく仏壇がきた頃だったかな。部屋のベッドの横に、一が座ってるのが見えるようになった。確かに、生きてるときの一はいつもそこに座ってたんだ」

 笹沼の言葉の描くものと、俺が実際に見たものとを、重ね合わせながら思い起こす。俺が見た子供はベッドの横の床に膝を抱えて座っていた。それは間違いようもない光景だった。だが「あなたが家を離れても、一、は、まだそこに居るんですか」

 俺が尋ねれば、笹沼は息を止めたようだった。耳に刺さるような静けさが電話口の向こうに広がっている。「そうだ」と返事をした声はぎりぎりと絞り出したように苦しげで「一は俺の住むところに居る」と続く声はそれでもどこか緩んでいる。その緩みはきっと安堵から来ているものだろう、と思う。笹沼がどんなことを思って俺に返事をしているのか、俺には何となく分かる気がした。

「何だか、はじめに思ってたのと違う話ばかりしてるな」

「俺とですか?」

「ああ。だって、本当に親切心と、興味だけだったんだ。世間は狭いんだなと思って」

「進路の相談にでも乗れれば、でしたっけ。確かに、関係ない話ばかりですけど」

 まだ未定の文字を消してもいない、わら半紙に視線を落とす。ここに書いたもので本当に俺の将来が決まるわけではないということは誰でも知っている。だが、この紙切れ一枚を埋めることが、自分の心を決めるのに役立つということは、俺も分かっていた。

「役には立ちました」

「本当に?」

「ええ、はい」

 答えながら、シャープペンシルを手にとって、未定の二文字の上に線を二本引く。真ん中に書いてしまったからスペースは狭いが、文字の右側の余白へ、ずっと考えてはいたことを書き付ける。ぎりぎり一文字だけが枠の外側にはみ出してしまう。シャープペンシルを紙の上へ置けば、少しだけ転がって止まる。

「ありがとうございました」

「礼を言われることはしてないけど、どういたしまして。真島、」

 笹沼の声が途切れる。何を躊躇しているのだろう、 と不思議に思う。一番、言うのを躊躇われるだろうことはもう明るみに出ているのに。思いはするものの、躊躇っている相手を急かすのも悪いような気がして、黙ったままでいる。浅い呼吸の音の後、「お前も三途の川を見たか?」と、小さい声が早口に言った。

 水の流れるかすかな音。赤茶けた地面と谷間。対岸のぽつりぽつりとした明かりは遠い。すべて、笹沼の話から借りたイメージだ。これを以て、三途の川を見たというのは、嘘になるように思う。

「そのときに見てはいません。でも、笹沼さんの話を聞きながら、見たような気がします」

 俺がそう言うと、電話口の向こうで長く息を吐く音がした。それもまた、安堵のため息のように思われた。その音を聞きながら、きっとこの答えで良かったのだろう、と俺もまた安堵する。ゆっくり息を吐く、吐ききったところでゆっくり息を吸う。

「そうか」

 そう言った笹沼の声は幾分か明るかった。何となく口元が緩む。ふと前を見ると、津守が身じろぎして、起きあがろうとしていた。電話をしているのを見られるのは少し面倒だ。何で俺にはかけてこないんだとか、面倒なことを言われる。

「じゃあ、笹沼さん、これで」

 やや早口でそう伝えれば、笹沼はああ、と相槌を打って、息をする。

「あるかどうかは分からないけど、またな」

 その後に続いた言葉が、何故だかとても、得難いものであるような気がして、このことを忘れてはいけない気がして、うん、と頷く。

「ええ、きっと、また」

 伝えても、返事はなかった。それでも、不思議なことに、ちゃんと伝わっているという感じがあった。通話を切ってしまうのは名残惜しいけれど恐ろしくはなくて、携帯電話を耳に当てたまま、電源ボタンを押す。無機質な電子音が一定の間隔で鳴っている。それを何度か確かめてから、携帯電話を耳から離し、折りたたんで、机の上へ置いた。津守が、椅子に座ったままで大きくのびをしている。あくびをしながらこちらを向く。眠たそうな目がこちらを見た、かと思うと、すぐに下を向く。視線の先をたどると、今し方俺が書いた文字がある。

 津守の顔を見ると、眠たげだった目が少しずつ開かれて、丸くなった後、瞬きを繰り返す。そして、顔をあげて、丸くした目のままで、俺を見る。

「京都」

「うん」

 俺がそこに書いた地名を、驚きながら口にした津守へ、頷いてみせる。まだ寝ぼけているんだろうか、それでもまだ、津守はどこかぼんやりしたまま、俺の方を見ている。

「真島、京都に行くのかよ」

「そうだよ」

「なして」

「ずっと考えてはいたんだ。……決心がつかなかっただけだよ、色んな理由で」

 俺が本当のところを言えば、津守はまた、瞬きを繰り返して、それから急に顔を歪めた。悲しんでいるようにも、悔しがっているようにも、腹を立てているようにも見えた。何か、納得のいかないものがあるのだということは分かったが、それらの区別はつけられない。ただ、「悩んでたんなら何で相談してくれねえんだよ。寂しいじゃねえか」とふてくされて言う声に、大体のところは分かったような気がした。

「ごめん、まさか津守がそんなこと言うなんて思わなかった」

「思えよ。本当に、寂しいぞ」

「遊びに来ればいい、俺が京都に行けたら」

「そこは心配しなくてもどうせ行けるって。あーあ、俺だけ置いてけぼりかよ」

 やりとりをするうちに、少しずつ普段の調子に戻っていく津守の声に、口元が緩んでふっと息が漏れる。津守はまた気を悪くしたようで、前を向いたかと思うと、ひらりと一枚の紙を掲げた。まだ、空白のままの用紙。そうだ、と津守が何かを閃いたみたいにぱっと言って、紙はまた机の上に戻されたらしい。机の上に紙がこすれる音と、紙を折り畳んで折り目をきれいにする音。しばらくその音が続いたかと思うと、津守はいきなり、できた、と声をあげて、立ち上がる。何かを右手に持っている。それを持ったまま窓の方を向いて、左手で窓を開けるとそこから身を乗り出す。高く持ち上げた右手を、勢いよく、外に向かって振る。手の中から白いものが何か、宙に舞った。紙飛行機だ。材料は、考えるまでもない。津守の顔を見上げると、何故か満足そうにしていた。

「……お前、馬鹿だなあ」

「知ってる」

 呆れて言うと、笑い混じりの声が返事をした。紙飛行機はまだ地面に落ちずに、何とか宙を舞っている。橙色の果てに向かっているように見える。思わず、ため息が出た。かすかな電子音の後、チャイムの音がスピーカーから流れ始める。


 ようやく笑うのをやめて、空が俺の方を見た。空はいつだって笑顔しか見せないけれど、こんなに大笑いをするのは珍しい。目元を手で拭いながら「津守くんって、本当、楽しい人だね」と言う声も、まだ少し笑っている。

「いいやつだよ、津守」

「それは分かるよ。でも、ばれたらまたもう一回、書かされるんじゃない?」

「それは分かった上でのことなんだから、良いんだよ、きっと」

 とは言ってみるものの、きっと、書き直しを命ぜられた津守が愚痴愚痴とうるさいのに、明日から付き合わされる、それを思うと少しばかり憂鬱ではあった。はじめ、津守の行動が予測できたときに止めに入れば良かったのかもしれないが、その方が、津守はふてくされるような気がした。

 浮かべるのが苦笑いになるのは自分でも分かる。空が、にこにこと楽しそうにしながら、俺を見ている。白く、細い首を傾げて、口を開く。

「それで、理人は京都へ行くの?」

 そうして空が復唱するのは、俺があの紙に走り書きした決意についてだった。空は尋ねながら、まだ笑っている。不安も恐怖も、かといって安堵も活気も、感じられない奇妙なやり方で、空は笑っている。どう答えるのが正解、だろうか。分からない。分からないから、黙り込もうかと考えるが、そうではないような気がする。

「ずっと、迷ってたんだ」

「うん」

「京都は、俺の生まれた土地で、両親が死んだ場所だから。避けてた気もするし、そうでもなかった気もするし、でも、行くことはやめてた。怖かったから」

「もう、理人は逃げないんだね」

「そう……そうだね」

 頷く声にはまだどうしても躊躇いが残る。でも、ここで是と言わないと、どこへも行けない気がした。口にした言葉はちゃんと、自分が心を決める助けになってくれる。

 空は笑顔を浮かべていたけれどどこか悲しそうで、それは俺の心がそう見せているのかもしれないが、そう見えたならそういう風に触れるしかない。

「寂しい?」

 尋ねると、空はその笑顔のままで首を傾げる。また逆向きにしばらくそうしてから、何も言わずにまた逆向きへ首を傾げる。

「さあ、わからないや」

「津守は寂しいってさ」

「そりゃあ、津守くんはそう言えるだろうけど」

 そこまで言うと空は目を閉じて、ぶらぶらと遊ばせていた脚の動きも止めた。じっと、肩を狭くしながら、傾げた首を元へ戻す。閉じていた目をゆっくり開いて、空はまっすぐ俺を見る。大きな黒い目、やわらかいまなざし。やっぱり、空と笹沼はどこか似ている。

「理人」

「何」

「俺も、一緒に連れていってくれる?」

 空の言ったことを、俺は静かに聞いた。数日前の自分なら、とても落ち着いては聞いていられなかっただろうことを、こうして空の目を見つめ返しながら聞けているのは、笹沼とその弟というふたりに会えたからだ、と思う。それでも、空へ答えるのに緊張は免れ得なくて、努めてゆっくりと深い呼吸をする。息を吐ききって空っぽの肺に、少しだけ息を入れてから、声を出す。「それは、」と俺が言うのに、空が瞬きをして鼓動が跳ねた。

「それは、空が決めれば良いことだよ」

 ゆっくりと、はっきりと、空にそう伝える。空は軽く目を見開いた後、口元をわずかに笑ませて、目を閉じながら軽く俯く。それは、頷きの途中の動作にも見えたし、単にうなだれているだけにも見えた。「そっか」と言う声は、笑いを含んでいるようにも、今にも泣き出しそうにも聞こえた。色んなものがない交ぜになっているのだろうけれど、何かを決めるときというのはきっとそういうものだから、仕方がない。

「空」

 俺が呼ぶと、空はゆっくりと顔をあげる。黒い目と正面から視線がぶつかったと思った瞬間、後ろからノックの音がする。振り向きながら「はい」と答えて、一瞬だけ後ろを見ると、そこにはもう空は居なかった。遠慮がちにゆっくりと開いたドアの隙間からは、亜子さんが顔を覗かせている。

「ごめん、理人君。邪魔したかな」

「いえ、別に。大丈夫です」

「そう? 誰かと話しているように聞こえたから、電話中かと」

 部屋の中に入って来ながら亜子さんはそこまで言って、口を噤む。縁なしの眼鏡の奥の目を少し細めると、申し訳なさそうにしながらまた口を開く。

「そういえば、笹沼から電話って」

「ああ、ありましたよ。ちょうど今日」

「何か、理人君に失礼なことをしたかな。あいつ、ひどくしょげながら僕のところまで来たから」

「いいえ、そんなことは何も」

 俺が首を横へ振ると、そこへしゃがみこんだ亜子さんは、不思議そうに首を傾げる。笹沼はよほど切羽詰まって亜子さんのところへ行ったのだろう、と想像がついた。亜子さんは、俺の答えが本当に予想外だった、という風な表情をしているから。

「ただ、いい助言をもらっただけですよ」

「本当に? 気を遣ってない?」

「全く。亜子さんこそ、よっぽど心配なんですね」

 亜子さんがあくまで怪訝そうにするのが少しおかしくて、口元を緩めたまま、言ってしまう。亜子さんは、一瞬目を見開いた後、肩を落として息を吐きながら、少し俯いた。

「まあ……可愛い後輩だしね」

 だから仕方がないのだと諦めているような調子で言うと、亜子さんはどこにも手をつかないで脚の力だけでその場へ立ち上がる。亜子さんもまた、少し口元を緩めていた。

「そうそう。夕飯だよ、理人君」

「分かりました、行きます」

 俺が頷いて返事をしたのを確かめて、亜子さんは開けたままのドアから廊下へ出て行く。スリッパを履いた足音が遠ざかって小さくなり、聞こえなくなる。それを確かめて、俺もゆっくり立ち上がる。

 ドアを開けたまま、後ろを振り向いてみる。そこには誰もいなかったし、誰かが居た名残もなかった。寝具の位置は歪んでいないし、シーツはいっさいの乱れなくぴんと敷かれている。

 それでも俺は、そこに空が居ることを知っている。

「それは、空が決めることだよ」

  無責任のようなただの雁字搦めのような質問を口にしてみるが、返事はない。当たり前のことを、いつものように少しだけ寂しく思って、ドアの方を向く。照明のついていない暗い廊下に出て、ドアノブを引く。ドアの閉まりきる間際に振り向いてみた、そこにはやっぱり、もう誰も居なかった。

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箱庭療法 ふじこ @fjikijf

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