キャッチ-22

「あ」と声をあげたのは私と彼とほとんど同時で、声をあげるタイミングだけでなく目まで合った気まずさに、帰ろうかと思った。けれども、机の上のアイスティーはほとんど残ったままの飲みかけだったので、やっぱり席に着くことにした。何より、彼はまったく動じていないのにここで私が帰ったら、怖じ気づいて逃げ帰ったみたいで、誰もそうは思わないだろうけれども、私がそれを嫌だった。

 彼の斜向かいの席へ何食わぬ顔(をしたつもり)で腰かけて、肩に掛けていたカバンを背中の後ろへ置く。顔を上げて向かいを見れば、彼は私にも周りにも興味なさげに、大きく口を開けて欠伸をしているところだった。ほとんどオレンジ色に近いけれど、正確には何色と言ったらいいのか迷う、敢えて言葉を選ぶなら、明るい茶色の髪。男性では滅多にない長さに伸ばしたその髪を、彼はサイドで一つにまとめている。首筋に幾らか、明るい色の髪がまとわりついている。

「何でそんなにこっち見てんの? 機嫌悪ぃの?」

 彼が言う。ただただ不思議そうだった。そんな様子で指摘されて、自分の表情が険しくなっていることにはじめて気が付く。そっと触れてみた眉は、ひどく強ばっている。そっぽを向いてため息をつきつつ、眉間に親指を当て、円を描くように圧を加える。また、ため息が出た。

「亜子なら、さっき笹沼に呼ばれて出てったところ」

「……だれよ、笹沼」

「研究室のコーハイ」

 こともなげに彼は言ってみせるが、それがまた腹立たしい。どうしてあなたが、彼女の周りの有象無象の人たちのことを、いちいち把握しているの。そんなことわざわざ聞かなくたって答えは分かっていて、彼が彼女の年季の入った親友だからだ。私が望んだってなれないものだからだ。けれど彼は、その位置の貴重さも慮らないで、あくまで呑気に、うとうとと、目を閉じかけている。ふたりきりで机を囲むということの不自然さを感じているのは、まるで私だけのようだった。

「亜子は、どれくらいで戻るの」

 私が尋ねると、彼は閉じかけていた目を半分ぐらいまで開いて、私を一瞥し、首を左右へ交互に曲げてから、大きく首を傾げる。

「さあ? 十分で戻るかもしれないし、一時間はかかるかもしれねーし。分からん」

「あなたはそれでも待つの」

「まあ、待ってろって言われたしな」

 そうして、彼はまた大きく口を開けながら欠伸をする。目元を手のひらの根元で擦ると、ぱたんと目を閉じて、腕を組み俯く。私と居ることを拒否しているというよりは、単純に眠気に抗うのが面倒になっただけのように見える。彼を夢の世界へ見送って、ひとり現実に残された私に出来ることといえば、彼と同じように俯いてため息をつくことぐらいだった。

 足音が近づいてきて、目の前の机に水の入ったガラスのコップがそっと置かれる。顔を上げると、トレイを小脇に抱えた、エプロンを着用した女性が、「ご注文はおきまりですか?」と、にこりと笑みを浮かべながら私を見ている。メニューは机の端に立ててあった。まだ、開いてもいない。けれども、メモを構える女性の方を向いて、私は口を開く。

「温かい飲み物で、一番量があるのを、お願いします」

 そう伝えると、女性は幾度か瞬きを繰り返した後、「ええと」とつぶやいて視線を持ち上げる。視線がそのまま上向いて、しばらくふらふらとさまよった後、彼女は私を向いて「少々、お待ちください」と軽く会釈し、回れ右をする。エプロンの紐のリボン結びが、腰のあたりで小さく揺れていた。


 壁の時計が、オルゴールの音を鳴らしている。来てすぐの、飲み物を待っているときにも聞いたから、今のが二回目だ。

 運ばれてきたカフェ・オ・レが入っていたのは、両手で持たなければいけないぐらいの大きさのボウルで、それに入っていたカフェ・オ・レの量は実際かなりあったはずなのに、もう器の高さの三分の一ほどしか残っていないし、残っているカフェ・オ・レも、そうしようと思えば一気に飲めてしまうぐらいの温度まで冷めてしまっていた。

 まだ、亜子は戻ってこないし、向かいに腰掛けた彼は俯いて眠ったままだ。手元の本はとっくに最後まで行き着いて、最初のページに戻ってきてしまった。赤茶けたページの上に記されたタイトルは、「星の王子様」。

 本の中身とは関係なく、そのタイトルだけで、何となく亜子を思い出す。王子様、というなら、亜子の見た目はまさしくそれだ。短く切りそろえられた清潔感のある髪型に、すっと通った鼻梁、どちらかといえば切れ長な目に、薄い唇。白い肌にわずかに赤く色づいた頬。低く落ち着いた声。話しぶりも立ち居振る舞いも、「王子様」に相応しい。ただ、そんな印象だけで惹かれて、亜子に近付こうと思っても、決してうまくいきはしないのだ。私は何度もそういったことを見ていたし、手引きしたことさえあった。ライバルが減るならそれはそれで良かったのだ。

 ただ、目下のところ最大のライバルは私をそうとも思わないで眠ったままだし、それ以上の敵かもしれない相手はそもそも私を知らないから、私がしてきたそういう努力は、ただの無駄にすぎないのかもしれない。

 正面の席で眠り続けている相手を見ると、次第に腹が立ってくる。沸々と煮えくり返りそうになる腹のうちを自覚するたびに目を逸らすが、いい加減、効き目も薄れてきているような気がした。ちょっと、出会うのが早かったからって、ちょっと、過ごした時間が長いからって、当然みたいに亜子の隣に座っているのが、腹立たしいし、羨ましい。言ったって詮ないことだから、奥歯を噛みしめる。

 それから深く息を吸って、止める。ゆっくりと吐き出そうとした瞬間、「薄明さん?」と呼ぶ声が後ろからして、息が詰まった。

 声の方を振り向けば、四人グループと思しき男性たちのうちのひとりが、こちら、というか、明るい茶髪の彼の方を見て、目を丸くしている。視線を注がれている彼の方に顔を戻せば、身じろぎをしたかと思えばゆっくりと顔をあげ、細くした目で相手を睨んでいる。

「タチバナ」

 低い声でそうとだけ呼びかけるのだから、それが相手の名前なのだろう。苗字かも分からなかったが「珍しいですね、ここで」と、他の三人とは別れた様子で言葉を続けるからには、その呼び方で馴染んではいるのだろう。

「三室崎さんが居ないのに」

「だから、亜子は研究室。笹沼にヘルプ呼ばれて」

「律儀ですよね、あの人も」

 タチバナ、と呼ばれた相手は、彼と言葉を交わしながら、さりげなく彼の隣、ソファベンチの方へと席を入っていく。見上げた風貌が——髪の長さや、目鼻立ちが、どことなく亜子に似ているような気がした。

 彼と少し離れた位置、テーブルの角に近いところに浅く腰掛けて、タチバナとやらは机の端のメニューに手を伸ばす。それを見ながら、彼はじとりと目を細めた。

「お前、さっきの連れは」

「いいんです。ただの友人なので」

「大事だぞ、友人」

「薄明さんに言われても」

 くすくすといかにも可笑しそうに、朗らかに笑う様子が、本当に亜子に似ていた。そのせいなのか、どうしてなのか、彼は何も言い返さずにそっぽを向くと、不機嫌そうに眉根を寄せている。そんな彼を見て、タチバナとやらはやっぱり可笑しそうに笑みを浮かべながら、自分の体を少し彼の方へ寄せた。細い首の色白いのがまた、亜子と似ている。そんなことを考えながらまじまじと見つめていたせいか、メニューから目を外したタチバナとやらと、目があった。ついさっきまで朗らかだったまなざしが、鋭く私を睨んでいる。「おい」と彼が呼ぶまで、ほんの数瞬の間だけだったのに、私の手のひらには嫌な汗がにじんでいる。

「そいつは亜子のオトモダチ。俺のじゃねーよ。互いに願い下げだ」

「……そうでしたか。すみません」

 彼の険しい声に、タチバナとやらは一瞬しおらしくなってみせる。しかし、すぐにころりと、いかにもうれしそうな笑顔を見せて「昼間から堂々と浮気かと」と、彼に話しかけている。恐ろしい嫌疑を掛けられていたらしい彼は、さして焦る様子も怒る様子もなく、眠たげな目元を擦って欠伸をしていた。

 しかし、タチバナとやらはの言葉に引っかかりを覚える。浮気。それじゃあまるで、彼とふたりが恋仲にでもあるかのようじゃないか。

「失礼しました。古谷立花(ふるやりつか)といいます。古い谷に立つ花、と綴ります」

「ああ、それでたちばな……」

「薄明さんしか呼ばないですけどね」

 私の呟きに、古谷立花は即座に言い返す。私は何をしようとしたわけでもないのに、牽制されているような気がした。古谷はあくまで、朗らかな笑みを浮かべたままであったが。

 少し視線をずらして彼を見やると、呆れたような表情で、すぐ隣に腰かける古谷を見ていた。開きかけた唇はすぐに閉ざされて、改めて開いたそこからはため息だけが吐き出される。不意に私の方を向いたまなざしは、面倒くさいと語るのを隠そうともしていなかった。

「こいつ、俺の同居人。で、笹沼のトモダチで、漁(いさり)先輩の高校の後輩。亜子とは……顔見知りか?」

「はあ、まあ、互いに顔も名前も知ってますし、話もしますけど、ふたりで遊びに行くような間柄じゃないですね」

「だとよ」

 私に向けられたままの視線が何を語っているかは分からないが、状況から、求められていることは推測できた。名乗られたら名乗り返すのは常識だろう。

「世紬糸(よつむぎいと)です。そこの大学の卒業生。修士課程に通いながら、博物館の臨時職員やってます」

「へえ、すごいですね。仕事も学校もだと忙しいんじゃありませんか?」

「今日は休館日なので」

 意識した愛想笑いで返せば、古谷もそれに応じるように似たような笑みでもって頷いている。茶番だなあと考えるが、こういう無駄こそが潤滑剤になるのが世の常だ。我関せず、の態度でいる彼が妙に腹立たしく羨ましく思える。

「世紬さんは三室崎さんと待ち合わせを?」

「ええ。待ち合わせのはずだったのだけど……亜子は戻ってこないし」

「ああ、なるほど。それで薄明さんと一緒だったんじゃ、困りますね」

 状況を聞いて、古谷が、小さくだがいかにもおかしそうに笑う。隣にいる彼は、またも腕組みをして、俯きながら目を閉じかけていたが、古谷の手がごく自然な様子で彼の髪を撫でた。彼は閉じかけていた目を開いて、苛立ちをむき出しに不機嫌そうな表情をしたが、古谷の手はその間も彼の髪を撫でていて、また、そうする古谷はあくまでうれしそうであった。彼は、ため息をつきながら目を閉じる。抵抗をすべて諦めてしまったように。しかし、その様子には明確な拒否や嫌悪は感じられない。

 そんな彼を見ていると、無性に腹が立ってきた。さっきこらえていたのよりも、流してしまうのは難しそうな、より激しくて、より入り組んだ怒りが、腹の底から沸き上がってくる。

 言葉では説明しがたい衝動を落ち着けるために、テーブルの上の残り少ないカフェオレのボウルに手を伸ばす。冷めてしまった、やさしい味のカフェオレを一気に飲み込むと、ほんの少しはおさまりがついたような気がした。

 古谷が彼の髪から手を離す。自分の指先と、彼の頭のてっぺんとを交互に見比べると、目元と口元が噛み合わないような、どこかぎこちない笑みを浮かべながら、自分の手を膝の上へと引っ込める。私の方を向いてもまだ横の彼のことを随分と気にしているようだった。

「……無理に話をしなくてもいいのよ。ただ、互いに別々の目的があって、偶然、行き遭っただけなのだから」

「そうですね。そうかもしれないです。でも……三室崎さんと待ち合わせをするのがどんな人か、には興味があります」

「あなた、彼の同居人なんでしょう?」

「だからこそ、です」

 答える彼の声音は真剣で、目を逸らすことはためらわれた。亜子の親友の彼の同居人が、亜子と友人の私のことを気にするというのは、まず間違いなく彼のためだろうと思われた。亜子と親しいということは彼とも親しいと、古谷は思っているのだろうか。それともまた別な理由だろうか。いずれにせよ、私に面倒のない範囲の興味であれば、暇つぶしがてらに付き合うのも悪くはない。私だって、彼と一緒に暮らすという古谷に、若干の興味はある。

「一緒に暮らすといったって、四六時中そばに居る訳じゃありませんから。互いに忙しいですし」

「ああ、そうなんだ……学部も同じなの?」

「ええ、まあ、一応。」

「一応って、なあに」

 謙遜しようとしたのか何なのか、古谷の言いぐさが面白くって、思わず笑ってしまう。古谷は私の反応に気を悪くした風でもなかったから、続いて「こんなのが医者になるなんて、世も末だ」なんて、調子に乗ったことを言ってしまう。しかし古谷は怒るどころか、「全くですね」と同意してきたのだから、私だけが驚いた。彼はこのやりとりが聞こえているのかいないのか、うつむいて目を閉じた姿勢のまま、じっとしている。

「薄明さんにまともに医者なんて無理ですよ、頭がいいだけなんだから」

「……ごめんなさい、私から言い出したことだけれど、あなた、随分ときついことを言うのね」

「ずっと思ってることだし、言い続けてますから。薄明さんは、学校だけとっとと卒業して、誰かのヒモでもやってるのが似合いです」

「誰かのヒモ」

 どちらかといえば上品な古谷の雰囲気にも面立ちにも似合わないことを赤裸々に語られて、情報の処理が追いつかない。出来ることといえば古谷の言ったキーワードを繰り返すぐらいだったが、そうすることで古谷は照れくさそうに笑って、口を開く。

「それが僕なら良いなあとは思ってますが」

 さっきの言葉を自ら回収してみせる手技は、なるほど華麗なものだったが、中身はそれと見合わず、泥臭い。剥き出しになった感情が綺麗に飾りたてられる訳もないのだが、それにしたって、裸にも程がある言葉を初対面で聞かされるのは、牽制が行きすぎている。

 私は言葉に詰まって、古谷は清々しそうに、対面して黙り込んでいれば、自分のことなのに我関せずと黙り込んでいた彼が、ようやく目を開ける。大きく背筋を伸ばしながら欠伸をしたかと思うと、天井に向けて大きく伸ばされた腕が、古谷の頭に向けて振り下ろされる。間違いなく、彼の手は古谷の頭に、意図を持ってぶつけられて、それから胸の前で腕組みをしたのに、古谷は軽く頭をさするだけで、彼に文句を言おうともしなかった。「すみません、薄明さん」と、むしろ古谷の方が謝っていて、彼は腕組みをしたまま、面倒くさそうなまなざしで、古谷を一瞥してため息をつく。

「お前も何なの。どうしてそんなに苛ついてんの」

「そう見えますか」

「見えますかっつーか事実だろ、自分で自分のことも分からんとか馬鹿かお前」

 私より古谷より、彼が一番辛辣だった。私から見たって分かるほどあからさまな好意の発露へ、返すものは照れ隠しなど一片も感じられない率直な暴力と吐き捨てるような言葉。それでいてよく、古谷は笑顔を保ったままで居られるものだ。

 腹立たしい。古谷ではなく、恐らく彼の態度が。傲慢にすら思える彼の態度が腹立たしいのだと思うが、それ以上に、腹立たしさの矛先というのは自分自身の喉元へと向いている。それに気づいて、馬鹿馬鹿しいと思ってなお、おさまりがつかないのは、正面に座るふたりこそが、自分に向けられた切っ先の根本だからだろう。

 ゆっくり、椅子を後ろに引いて、立ち上がる。辺りを見回してみても、私の待ち人の姿は見あたらなかった。もう充分に待った、ここらが潮時だ、と声に出さずに言い聞かせて、机の上の伝票を握る。

「おい」

「急用を思い出したわ。亜子によろしく」

 呼び止めてくる彼の方を向かずにそう言って、引いた椅子を元へ戻す。それからレジの方へ歩いていくのに、背中を目で追われているような気がした。彼ではなくて古谷なのだろうと考えるうちに、少しずつ気が収まってきて、列の一番後ろへ並べば、ふと、腹立たしさ以外のものが心臓を握りしめていることに気が付く。ああそうかと納得がいくと同時に涙がでそうになるほど、みじめな気分だった。


 ローテーブルの上に置いた携帯電話のサブディスプレイが淡いピンク色に明滅している。着信があったか、メールがきたかどちらかだろう。

 髪を拭いていたバスタオルを肩にかけて、クッションの上に座る。テーブルに突っ伏しながら手を伸ばして、携帯電話をつかむ。顔だけを上げて、開いた画面を見てみれば、不在着信と新着メール、両方の通知が画面の真ん中に表示されている。

 先に着信の方を選択すると、よく覚えている電話番号が大きく表示される。私がお風呂に入った頃にかかってきているから、タイミングが悪い。となると、メールの方も大体検討がつくもので、メールボックスを開けば、一番上の未読メールの差出人は「三室崎亜子」と、見慣れた五文字が並んでいる。

 メールを開くよりも先に、保護をかける。「今日は、」という件名の横に南京錠のマークがついたのを確かめて、メールを開く。

「今日は、ごめん。また後日に」

 たったそれだけで、絵文字も顔文字も勿論使われていない簡素なメールに、自分の頬が緩むのが分かる。また、後日。それをメールで決めるのも構わないが、どうせだから、亜子がしてきたのと同じように、電話をかけて、直接声を聞きたいと思う。携帯電話の画面の上、小さな時刻の表示は、まだ九時を少し回ったぐらいで、まだまだ、亜子は盛んに活動している頃だ。

 着信履歴から番号を選んで、通話のボタンを押す。携帯電話の受話口を耳に押し当てれば、すぐに呼び出し音が鳴り始めた。一回、二回、三回と音が鳴るのを数える。十回鳴っても出なかったら諦めよう、というのが私のいつものやり方だ。

 放っておけばそのまま、九回、十回目の音が鳴る。あ、今日はダメかな、と思ったら、十回目の音が途切れて、浅く息を吸う音がした。

「もしもし?」

 電話の向こうの声は、少し焦ったように跳ねている。それでもまだ十分に低く落ち着いた声が、続いて「糸?」と私の名前を呼ぶ。それだけで頬が緩んだ。自分は、現金だと思う。

「遅くにごめんね、亜子。忙しかった?」

「うん、いや、ああ、大丈夫。僕のせいじゃない」

「何かあったのね」

「笹沼が、研究室の後輩が、ちょっとね」

 昼間も聞いた名前がまた出てくる。その名前に、何者だお前は、と疑念が募るが、それを追究しても仕方がない。それよりは、疲れた声でため息をつく亜子に、「お疲れさま」と声をかける方が、よっぽど建設的だった。

 亜子が小さな声で笑う。きっと意識せず、自然と出た声に違いない。随分と柔らかくて、可愛らしい声だもの。「ありがとう、糸」とやさしく私に呼びかける声よりも、ほんの少し高かった。どちらも、聞けたことはうれしくて、そっと目を閉じる。こうしていれば、忘れないで済むような気がした。

「僕が電話したから、かけ直してくれた?」

「うん、メールでも良かったけど、どうせなら声が聞ければいいなって」

「そっか。僕も、話せてうれしいや。しばらく会ってないものね」

「そうね……春以来?」

「かもしれない。僕の方もばたばた忙しかったから」

「今日は残念だったけど、次はどうしよう」

「……本当にごめんね、今日は」

「ううん、別に、私はいつだって構わないけれど」

「僕もそう言いたいところなんだけど……」

 亜子の声が尻すぼみになる。途切れた声の後に何が続くのかと思ったら、心底困った様子の、重たいため息だった。「ちょっと、明日から遠出になってね……」と、言葉が続いたと思ったら、また、ため息。よほど不本意か、難儀な事情によるものなのだろう。大丈夫、という言葉もかけにくくて、黙って亜子の次の声を待つ。機械の動く音が微かに聞き取れた。

「すぐに帰れると良いんだけど、ちょっと、分からない」

「研究室の関連? そんなの、先生に任せておけば良いんじゃないの?」

「星河先生、授業があるからさ……万が一、長引いたときに僕の方が都合が良いんだ。授業はない、って意味で、暇人だからね」

 声だけで、亜子がどんな表情をしているのか、大体予想がついた。迷惑、でも、仕方がないなあと、自分の都合を殺して、諦めて笑っている。しかも、相手には一片の恨みもないのだ。よくあることだった。よくあることへいちいち膿まずに、大きく受け入れていられるのが、亜子の良いところのひとつだ。

「事情がありそうなのは分かるけど、無理はしないでね」

「うん、それは重々。ありがとう」

「いいえ。……でも、今日の約束、どうしようか」

「そうだよね……出来れば、直接会って言いたかったんだけど」

 と言って、亜子はまた、ため息をつく。「それだと間に合わないかもしれないんだよなあ」と、困った様子で言っている。ならそれを助けるのは私の役目で、「電話で、今、聞こうか」と口から出たのはとても自然なことだった。亜子はすぐに返事をくれず、黙っている。たっぷり黙り込んだ後で、それでもまだ決めかねる様子で、低くうなっている。そこへ「勿論、亜子が嫌でなければ、よ」と言い足すのは、いささかずるい私のやり口だ。そうすれば、亜子の天秤が、相対する相手への申し訳なさへ傾くのは分かり切っているから。

「……じゃあ、言っておこうかな」

 亜子からそう切り出したのが、私の読みが当たった証拠だった。してやったりと緩んで笑う口元を隠す理由は特にないのに、少し俯いてしまう。テーブルの上には、私の髪から落ちた雫のせいだろう、小さな水たまりが出来ていた。

 亜子の息づかいが耳元に聞こえる。

「結婚することになったんだ。慧さんと」

 それに続いた言葉は確かに聞き取れたのに、数瞬、意味が分からなかった。聞こえた単語一つ一つの意味は分かるのに、それらをつなぎ合わせた文章としての意味を理解することが出来なかった。私の脳みそが拒絶しているのかもしれなかった。

 何を言っているのかは分からないが、亜子はいつもより高く、うれしそうな声で話し続けている。何か、私には理解できないことが起きている。

 亜子が結婚する。自分の脳裏で繰り返してようやく、その言葉の連なりの意味することが分かったけれど、携帯電話を握るのがやっとなぐらいに、指先から力が抜けた。


 昨日の夜、どうやって眠りについたのかは覚えていない。ただ、今日の私が寝不足なのは明白で、もう昼過ぎだというのに、まぶたが重たくて仕方がない。今朝は今朝で、目覚ましに気がつかずに、眠りこけていたし、身支度に五分も時間をかけられなかったから、先輩方に「事故にでもあったの?」と心配される始末だった。心境としてはそれに近いものがある。事故、突発的な予想外の出来事。ただ、本当の事故と違っているのは、何か壊れてしまったとか、失敗してしまったとか、そういう風に言えるものではないということだ。それを事故ととらえているのはあくまで私であって、当事者のふたりにしてみたら、いろいろの計画のもとに決まっていったことなのだから。

 欠伸をかみ殺して、フロアを見渡す。小中学生の夏期休暇も過ぎて久しい平日の昼間がこれだけ閑散としているのは、普段通りだ。こういう日にフロア担当になるのは幸なのか不幸なのか分からない。ただ、椅子にも座れず立ちっぱなしになるのだから、眠らずに済むという点では良かったが、疲労が溜まるという点ではよろしくなかった。スラックスの下、バレエシューズの靴裏に体重を支えられた膝より下の筋肉が、今にもストライキを起こしそうだ。休憩はまだだろうか。腕の内側、腕時計の文字盤を覗けば、短針がそろそろ「2」を示すところだった。

 持ち上げた腕をそのまま上へ伸ばして、背伸びをする。知らず知らずに丸まっていたらしい背骨が、正しい方向に伸ばされて、心地よい気だるさが半身を包み込む。吐いた息も心なしか軽くなっているような気がした。

 けれどもふと、昨日の亜子の声を思い出して、肩が重たくなる。結婚、というたった二文字に収められる現象が、途方もない質量を伴って、私を押しつぶしにかかっているようだった。

 とても突然のことであるように思う。けれども、亜子と相手の間では随分と前から合意が為されていたことだったのだろうし、私だってそれに薄々気がついていたように思う。そうでなければ、隣人であるとか、下宿先の大家であるとか、様々に肩書きを変えて亜子に関わっていたあの人を、どうしてだか嫌ってしまうことに、説明がつかない。私たちより幾分か年上で、その年よりもまた更に落ち着きを重ねたような人。亜子と並んで歩いているその人を見たことがある。亜子が自然に手を繋いでいた。買い物袋をその人だけが持つことに、亜子は何も言わないでいた。それがもう答えだったのだと思う。

 俯けばため息が出た。けれどすぐに、そんな暇は許さないとでも言いたげに、足音が近づいてくる。慌てて顔を上げたところで、思わず息が止まった。昨日初めて出会った男の子がそこに居た。

「どうも、こんにちは。昨日ぶりですね」

 そう笑って少し首を傾げる。私を見つけて、声をかけて立ち止まる。それまでのひとつひとつが、実に感じの良い仕草だった。ただ、惜しむらくは、私の気分と彼の感じとが比例しないことだろうか。ゆっくり息を吐きながら、自分の気分がぐんぐんと降下していくのが分かる。古谷は変わらず、微笑みながらそこへ立っている。

「世紬ちゃん」

 名前を呼ばれて、救いを求めるような気分で振り向いた。先輩が小さく手を振っている。丁度、フロアの交代をする相手だった。しかし、今は間が悪い。何故だか私に会いに来たらしい男の子が、そこにいるのだから。

「交代するから、お昼食べておいで」

「まだいいです」

 私がすぐにそう言うのに、先輩は目を丸くして「何言ってるの」と言い継ぐ。私をこの持ち場から追いやる気満々、といった様子だ。私も十二分に知っていることだが、彼は好い人が過ぎて、お節介なぐらいなのだ。「朝から立ちっぱなしなんだから、そろそろ休憩してきんさいよ」と続けられた言葉だって、心からの好意で言っているものなのだ。そうと分かっているから、先輩には言い返せない。開きかけた口を閉じて言葉に詰まっていれば「お昼、まだなんですか」と、古谷が本当にただ驚いた風に言う。その驚きが喜色に彩られていることは、振り向かずとも分かった。先輩の目が、私の後ろの古谷を見つけたらしい。怪訝そうに細めた眼差しが、恐らくだが、感じの良い青年を精査しようと上へ下へと動いている。そして私は瞬時に悟る。ここへ長居をしている方が厄介だぞ、と。

「じゃあ、ありがたく行ってきます」

「いや、ちょっと待って。やっぱり待った、世紬ちゃん」

「待ちません。行こう、古谷」

 軽く礼をしてから、追い縋るように声をかけてくる先輩に背を向けて、丸い目で私を見ている古谷に目配せして、早足で歩き出す。背を向けたまま先輩の声を振り切って、後ろに古谷が着いてきているのを耳で確かめながら、目指すは館の入り口の自動ドアだ。追い立てられるような速い調子で歩きながら、折角のお昼休み、なのに、全くもって心が安らぐ気がしなかった。


 古谷と同じく、感じの良い店だった。こぢんまりとした店内は三方の窓から差し込む日の光に柔らかに包まれて、どこかノスタルジックな雰囲気を醸し出している。出窓に置かれた一輪挿しには、ピンク色の花が活けてある。このさりげなさは決して私の視界や思考を妨げるようなものではない。けれど、斜向かいの古谷へ視線を向ける度に、胸の内が晴れない奇妙な靄が急に感じられて、喉が詰まった。古谷はそんな私の躊躇など知りもしないだろう、さっきから、目が合う度にほほえみ返してくる。これが、同じ年頃の女性に向けられていたなら、さぞかし魅力的だろう。いや、私もその範疇にはいるのだが、如何せん、昨日見た光景が、古谷という人物の見方を大きく決定づけてしまっている。

「あなたは、東が好きなのね」

 花弁のピンク色に目を向けながらそう言ってみる。二回、三回、深い呼吸をしてから古谷を見れば、驚いたような表情で、私の方を見ていた。その古谷の表情はまったく予想外だったけれど、間の抜けた様子が可笑しくて、少し、気分がよい。だから「見ていたら分かったわ、昨日」と、無駄な言葉を付け加える。古谷はその蛇足でようやく正気に戻ったように、一度目を伏せると、長くため息をついた。

「……俺はそんなに分かりやすかったですか」

「さあ。そうかもしれないし、私が敏感だっただけかもしれない。けれどあなた、東が言っていたみたいに、苛立って不用意だったのじゃない? 仲がよい同居人にしたって、言い過ぎな部分はあったもの」

 つい昨日のことを思い返しながら話せば、古谷は気まずそうに唇を曲げて、眉をひそめると、視線を窓の方へ向ける。白いカーテンがかかった磨り硝子だから、向こう側は見えない。光だけが柔らかく差し込んでいる。

「帰ってからも薄明さんに怒られました。お前は、思い込みが過ぎるって」

「思い込み?」

「あなたと薄明さんがどうかしたのかと」

 態度のしおらしいのとは反転、躊躇の欠片もなく古谷はそう言った。私と東がどうかなるだなんて、それは「ありえないわね」

「と、薄明さんにも言われました。ちゃんと見ればそういう話でないと分かるだろうと、怒られました」

「うん、全くだ」

 言葉の上と動作でもって古谷の言葉を肯定しつつ、彼と昨日向かい合ったことを思い出す。拭い去れない違和感が机を挟んで差し向かいながらあったのだし、私は確かにそれに居心地の悪さを感じているのに彼は平気そうだというのも、まったくいつもらしかった。私と彼は亜子を通じて単に知り合っただけの仲に過ぎない。それ以上なんて互いに考えているはずもない。彼と私の間で意見の合うことがすればそれぐらいのものだろう。

「でも、あの人が、三室崎さん以外の誰かと二人で居るなんて、俺はびっくりしたんです」

「ごくまれに、あるよ。でもどれも、亜子が絡んでいるときだから。私だって、東だけに用事がなんてないもの」

「あくまで、三室崎さん経由だと」

「そうだよ。東も言ってたでしょう」

「願い下げ?」

 恐る恐るの体でゆっくり動いた古谷の眼差しが、私を向く。何をそんなに怯えることがあるんだろうと思うが、頷いてその恐れを解いてやるのは嫌ではない。少し緊張の緩んだ目元が、息を吐く唇が、やっぱり所々亜子に似ている。そのせいかもしれないと思った。

 視界の端に、エプロンを掛けた店員がこちらへやってくるのが映る。口を閉ざしたまま待っていれば、店員は私たちのテーブルの横に立ち止まり、日替わりランチの方は、と私と古谷を交互に見る。私が胸の前で小さく手を挙げると、店員は私に笑顔を向け、お待たせいたしました、と言い、大きな丸皿を私の前へ置く。それとは別に、カップに入ったスープと、少な目に盛られた白いご飯のお茶碗が置かれる。そして古谷の前には、コーヒーカップだけが静かに置かれる。多分私たちより年下だろう店員は、伝票らしきものと机の上を見比べて頷くと、裏返した伝票を机の端へ置き、軽く礼をして厨房の方へ戻っていった。

 日替わりランチとやらのメインディッシュは海老フライで、こんな学校近くの安い定食屋なのに、有頭の海老が出てくるなんて思わないだろう。美味しそうなきつね色に揚がった海老にはタルタルソースがたっぷりと添えられていて、食欲をそそる。たっぷりと盛り付けられたサラダの野菜も、見るからに瑞々しい。つまり、非常に美味しそうなランチだった。

「とりあえず、食べても良い?」

「勿論、どうぞ」

 許可を取るものでもないだろうが一応尋ねてみて快諾を得る。箸立てに入れられた、ビニール袋に入った個包装のお手拭きを自分の前と古谷の横に置く。自分の分の袋を破いて、分厚くて柔らかい紙で手を拭いてから、箸立てから今度は箸をとる。いただきます、の意味を込めて手を合わせてから、まずはスープカップに左手を伸ばす。コンソメの香りのするスープの底には、細かく切られた具材が沈んでいる。箸先でそれらをかき回してから、カップに口をつける。見た目の色よりも強い味をしていて、胡椒がよく効いている。具材は柔らかく煮込まれていて、ほとんど噛まなくても飲み込めた。

「じゃあ、話はお食事の後で」

 古谷がそう言う。顔を上げれば、コーヒーカップを窓の側へと追いやって、古谷はどこからか取り出したペーパーバックを自分の前へ広げている。その視線はもうとっくに本の紙面へ向けられていて、私の方へは少しの注意も払われていないようだ。

 その気遣いはちょうど良い。気付かずして入っていた肩の力が抜けたようで、そうすると余計にお腹が空いてかなわない。スープのカップを机へ置いて、さあ次は何を食べようと皿の上を見る。どれから食べても美味しそうだが、温かいうちにメインを食べないのは失礼にあたるだろう。

 海老フライの、頭の根元に箸を入れる。少し固いが、所詮は肉だ。箸を入れたところから身は裂けて、白くて良い香りのする肉の断面があらわになる。海老フライの中ほどを箸でつかんで、タルタルソースをたっぷりつけて口に運ぶ。噛みきるときの食感がまた心地良い。海老も衣もタルタルソースも、全部が一緒になった美味しさが口の中に広がる。おいしい食事は良いものだ。家で、自分一人ではそういうものを作る気にはなれないが。

 彼と古谷は一緒に暮らしているのだ、と食べるのを続けながら考える。彼と古谷と、ふたりで居たら、きっと食事を作るのは古谷の方なのだろう。いや、それだけでなくて、ありとあらゆる家事は彼の方が担っているのじゃないだろうか。彼はそういうことは苦手なのだと、亜子から聞いて知っている。昨日、古谷が言っていたんだったか、彼は「頭がいいだけ」で、生活するには随分と事足りないのだと、私は亜子から聞いて知っていた。彼が亜子の側にいるのはそういう理由もあるのだろうと思っていた。もっと正確に言うなら、彼が呑気にしている端で、亜子がいつも過不足なく彼に注意を払っているのは、ということにでもなるだろうか。私が初めて彼と会ったときから、彼は亜子に連れられて、死んでいるのか生きているのか分からないような目をしていた。今とは少しばかり違う。今の方がもう少しはっきり「生きている」と言い切ることが出来そうな気がする。だから私は彼が気に食わないんだろうか。

 箸先がかたいところに当たる。皿の上を見れば、考えている間も無心に食べ続けていたせいだ、空っぽになっている。スープのカップと茶碗も、同じく空になっている。美味しいと思いながら食べれたのははじめの一口、二口だけだったか。少し落胆しながら、箸を置いて手を合わす。ごちそうさまでした、を頭の中で唱えて、目を閉じていたのを開けるが早いか、「もう良いですか」とせっかちな言葉が正面から聞こえる。ゆっくり目を開けてそちらを見れば、古谷のコーヒーカップの中身ももうほとんどなくなっていた。

 どうぞ、と声を出す代わりに目を伏せて頷けば、古谷は「ありがとうございます」と口にする。古谷は随分と察しのいい男であるらしい。それを苦とも感じずにしているのだろうなと思う。

「俺は、昨日も言ったとおり、薄明さんと同じ家に住んでいます。し、あなたに指摘された通り、薄明さんのことが好きでそうしています」

「うん、分かった。分かったけど、私には関係がない」

「でも、あなたは三室崎さんが好きなんですよね?」

 古谷の、わざとらしさの欠片もなく不思議がる声が、私に刺さる。まるでさっきの仕返しだ。きっと古谷にそんな気はないのだから、私が感じているだけ。隠しているつもりの中身を簡単に言い当てられて、驚いて動揺しているのだ。

 硝子のコップに手を伸ばす。透明なコップを傾けて、水を一口、二口。一瞬で妙に渇いた喉を潤して、落ち着いて深めに呼吸をする。

「そうよ」と喉から出た声は、自分で予想していたよりも滑らかで、安堵する。けれども、自分で紡いだ自分の声のはずなのに、ぎこちなさを覚える。「私は、あの子が好きなの」

 そう続けた声までもが、自分から遠くであるように、夢を見ているかのように、私の口の中で響く。古谷は笑って私を見ている。自分の問いと私の答えと、どちらにかは分からないが満足げな様子に見えた。

 それ以上、続けるべき事項が分からなくて、口を閉ざす。横からやってきた店員が、失礼します、と会釈をして、白い手が、机の上から空になった食器を取り下げていく。空っぽになったものを取り去るのは、まるで簡単みたいだった。

「でも、それこそあなたに何の関係があるの?」

 はっと思い出したように、私の声はそう古谷に尋ねる。古谷は困ったときにする表情、眉根を寄せて首を傾げる、というのを私にやって見せた。

「分かりません」

「分からない?」

「ただ、あなたと仲良くなれるんじゃないかとは思いました」

 そう言いながら、古谷は自分の言葉に半信半疑であるというか、自分の言葉が誰か他の人のものかであるかのようにしているというか、とにかく、自分の言ったことなのに、その言葉へ自信なさげな様子だった。なら、それを聞いている私が、どうしてそれに返事が出来るだろう。まだ困ったような表情で、今度は逆へ首を傾げる古谷に、向けるまなざしが険しくなったのは、仕方がないことだ。

「ずいぶんと、無責任なことを言うのね」

 さっきよりもなめらかに流れ出た言葉は、さっきまでのそれよりも、自分のものであるみたいに感じられた。古谷の表情が歪む。唇を動かすのは何か言い返したいからなのか、けれども、意味のある声は発せられずに、古谷の唇はまた閉ざされる。そうしたら、私がしゃべりだす他にしょうがなかった。

「私は出来たらあなたと話したくない」

 古谷の目が数度、瞬く。その目が続く言葉を見つける前に、私は浅く息をして、口を開く。

「あなたと話してると、私、自分で自分を殺したくなる」

 続いた言葉は自分で思っていたのより幾分か、いや、相当に過激で、古谷の目が丸く見開かれたのも仕方がないだろう。けれど、言ってしまった言葉を取り消すことは出来ない。目を逸らしたのはせめて、古谷の丸いまなざしから逃れるためだ。逸らした先では、ピンクの花が私を見ていた。物言わぬものに責められているような気がするのは、自意識過剰もいいところだ。どうしてそんなこと言ってしまったの、と責める声を外側にして、私は私を守ろうとしている。仕方がない、仕方がないことだ。だって、古谷は彼のことが好きなんだから、どうして仲良くなんか出来るだろう。そうして口にすることで、考えている言葉というのはどんどん現実になっていく、ような気がする。

「そんなに嫌な思いをさせて、すみませんでした」

 低く落ち込んだ声がそう言って、頭が小さく下げられる。まったく素直な反応じゃないか。古谷はまるで、私の気分を害したことを本気で反省して、私に向かい合っているようだった。それを見て私の溜飲が下がれば、あるいは、鋭すぎる言葉を向けた後悔が私の胸を覆えば、もしくは、憤慨が度を超してしまえば、この場に相応しい反応が出来たのかもしれない。けれども私は押し黙って、わざとらしく作った笑みを古谷に向けながら、小首を傾げて見せるだけだった。やっぱり、私は古谷と相容れない。古谷という個を認めて、関係を作る気にならないのだ。古谷がどれほど素直でよいこだったって、私の気持ちは変わらないだろう。今の古谷自身がもうちょうどそれなのだから。

 いよいよ耐えかねたのだろう、古谷が伝票を掴んで、静かに立ち上がる。「待って」とそれを呼び止めれば古谷の目が一瞬きらめいたけれど、「伝票は置いていって。払っておくから」と本題を続ければ、急にしおれて暗い顔をした。古谷は皺のついた伝票を出来るだけ広げて、机に置いていく。視界の端でとらえている古谷は、名残惜しげに伝票を見つめながら、まるで真新しい傷をつけられたように、目の端を潤ませているようだった。誰も掴んでいない後ろ髪を引かれているように、古谷は私の方に最後まで視線を向けていたけれど、ついにすっかり背中を向けて、出口の方へ歩き始める。ドアのベルの音が軽やかに響けば、店員の挨拶がそちらへ向けられる。とうに足音は聞こえなかった。私の心を煩わせるものはもうなかった。

 ただ、喉を締め付けられるような息苦しさが、まだ私の口を塞いでいる。刃物の切っ先が自分の喉元へ当てられている、冷たくて鋭利な鈍く光る重たい刃物の切っ先が、肌を突き破ってしまわないぎりぎりのところで留まって光っている。そんなイメージが脳裏に浮かぶ。彼と古谷が会話を交わしているのを見た、そのときにも同じように感じた。あのふたりは私にとっての凶器だ。

 ガラスのコップを手にとって、残っていた水を飲み干す。コップを降ろせば、二つ、三つ、底に残った氷がぶつかりあって音を鳴らす。そのまま砕けてしまわないだろうか、と考えながら空しい息を吐いて、目を閉じる。


 博物館の自動ドアは変わらぬ無機質さで私を迎え入れてくれる。換気扇の回るかすかな音が天井高くでしていて、その下を動き回る足音は私の分ただひとつのようだった。

 首から提げた名札を見せながら来た道を戻る。閑散とした展示場の隅っこに、欠伸をしながら先輩が立っているのがすぐ見えた。勤務中なのに、緊張感のないったらありゃしない。そう考えるとおかしくって、おかしくって、笑いが出そうになる。すんでのところで止めたはずの声は、代わりに、私の目の端から溢れ出た。熱いものが頬を伝って落ちていく。不意を打つ感触に立ち止まれば、靴底が大理石を打つ音が甲高く鳴った。

 ハンカチを取り出すのももどかしくて、手のひらの根元で目元を拭う。アイメイクが台無しだ、と考えるけど、そんなの構わないじゃない、と笑い出しもしたい。ただ、どう転んだとしても、確かに近づいてくる足音にどう言い訳をするかが、面倒ではある。

「世紬ちゃん?」

 些か慌てている声は、嫌なものではなかった。肩の触れない距離で立ち止まって、そっと様子をうかがっている。ちょうど良い距離から、見られている。自然とこういうことが出来るから、先輩みたいなのを、好い人というのだ。

 まだ濡れている目元を諦めて、手を降ろす。目が合った先輩が、目を見開いて「どうしたの」と続いて尋ねる。私を見つめるまなざしは、ただただ心配で満ちている。

「ひどい顔だよ」

「メイク、崩れてますもんね。そりゃそうだ」

 鼻をすすりながらそう言えば、先輩がもどかしそうに首を横に振る。「そうじゃなくて」と少し強い調子が言ったかと思うと、無骨な手が、私の乱れた前髪を、そっと額の横に避けた。その手はしばらく動かなかったけれど、私が先輩の顔を見つめ続けていると、ゆっくりと引っ込められる。

「あんまり辛そうで、美人が台無しってこと」

 普段なら笑い飛ばせる冗談混じりの言葉も、今はそうはいかない。先輩の目も、茶目っ気の欠片も見せずにまっすぐと、私を見つめている。あんまりまっすぐだから、耐えられずに視線を逸らすのは私が先だった。まなざしだけでなくって、先輩の言うことがちゃんと的を射ているのが悪い。

 やっぱり鼻をすすりながら、私が「好きな子の結婚が決まったんです」と、ついうっかり口に出してしまったのだって、そんな言葉とまなざしに、緊張が解けていたせいだ。それを言った後は口をつぐんで、鼻をすする。口にすれば少しは落ち着いたみたいで、涙も鼻水も、ましになってくる。

「そりゃ、悔しいな」

 しばらく私のみっともない音と、換気扇の回る音だけがしていたのに、先輩がまたそんな事を言う。言葉の通りを思っているような声だった。ゆっくり先輩の方をうかがい見れば、表情まで本当にそう思っているみたいだった。それを確かめて、何故だか、胸が軽くなる。まだ顔面はぐちゃぐちゃだったけれど、その原因は何故だか和らいだように、感じる。

 不思議だった。けれど「悔しいし、悲しいよな」と、眉根を寄せて眉尻を下げながら続ける声を聞いていれば、また、自分の胸や肩が楽になったように感じるのだから、先輩の言うことというのが、これを招いているのは間違いがなかったし、意識してゆっくりと呼吸を繰り返せば、先輩の言うことというのは、ゆっくりと繰り返してみても違和感がないほどに、私の内側にぴったりと馴染んでいた。「そうなんです」と言ってみた声はちっとも引っかからずに喉を滑り出していった。先輩はにこりともせずに私を見ているけれど、私は敢えて微笑みを浮かべて「本当に、そうなんです」とゆっくり繰り返す。そして先輩をじっと見つめていると、薄く開いた唇で二回、三回と呼吸をして、唇を閉ざすのと同時に笑みの形を作って、私に向けて見せる。眉はそのままだったから、随分とへたくそな笑顔になっている。それが可笑しくて、今度はこらえきれずに笑いが漏れた。先輩はそれには何も言わなかったけれども、「さっき迎えに来てたのがそう?」と的外れな質問を続けるので、首を横へ振っておく。

「いいえ、そんなわけありません」

「じゃあ、さっきの彼は誰」

「敵です、私の」

 そんな言い方は初めてしたけれども、口にしてみると存外に馴染む言葉だった。敵。私の埒外。決して相容れたくはない相手。思い出したくないほど、好青年だった。

「あの子と会うと、私、どうかなっちゃいそう」

 けれども口にすると彼が思い浮かんできてしまって、背中を走った怖気のために、そんなことを口にしてしまう。口をつぐんで、軽く腕を押さえながら深呼吸をすれば、皮膚の下を這い回る悪寒は霧散していく。ただ、その根っこは、まだ私のどこかに深くに、潜り込んでいるような気がした。

「じゃあ、もう会わなきゃいい」

 先輩があっけらかんと言う。「そんな厭な奴なら、会わなくたっていいし、忘れたっていいだろう」と続けるうちに、先輩の声は少しずつ強くなっていく。ほんの少し高くなりもする声は強く張りつめて、私の目を見た先輩は、何か続きを言うためにか、開いた口の形を変えたのに、空気を飲み込むようにゆっくり口を閉じた。肩が上下している。ゆっくりと、息に合わせてだろう。少しうつむいた先輩の目が、一度きつく閉ざされる。肩が下がるのと一緒に長く息を吐く、息を吐く音が止んだと思ったら、先輩は顔をあげて私を見た。

「とにかく、そういう相手のこと引きずる必要はないからな。……ほら、顔洗って、それから戻ってきなさいな」

 そう言いながら、先輩は私の肩に両手を置く。先輩の腕が無理矢理、回れ右をさせようとするから、足がもつれそうになる。なんとか無事に回れ右を終えて、先輩に背を向けても、先輩の手は私の両肩を掴んでいる。先輩の手が肩を押すままにステップを踏んでいれば、正面の奥に手洗いの赤いマークが見えた。その角度で、先輩の手は肩から離れて、私の背中を軽く押す。さっきの言葉通りにしろということだろうか。きっと、そういうことなのだろう。

 そう理解して、私は振り向かずに、背中を押された勢いで小走りになる。博物館が閑散とした、こんな時期で良かった。私のすることを咎める声も、まなざしもなくて、私の足音だけが、高い天井に響いている。


 昼間にあんなことがあったのに、帰る町並みはいつもと変わりがなかった。私の気分で世界や町が動いている訳ではないから、当然だろう。濃紺に暮れた空の西の端、地平線と接している辺りだけが、橙色の入り交じった赤色に燃えている。私は、空が燃えている方に向かって歩いている。

 顔を洗ってから仕事に戻って、午後を過ごせば気持ちは静まっていった。けれども、くすぶるものは確かに胸の端に残っていて、それを自覚もしている。きっかけがあればあっという間に燃え広がるだろうということも分かっている。赤く燃えている空を見ると、そこからこぼれ落ちた火の粉で、再び燃え上がるのではないかという気がしている。くすぶっているものをそうして燃やし尽くしてしまいたいのか、と訊かれると、そうではないような気がする。でも、このまま置いておくのにはあまりに据わりが悪いのも事実だ。つまるところ、どうしたらいいのかが分からなくて、持て余している。

 そんな胸の内を転がしながら、アパートの階段を上る。上りきったところ、二階の廊下の端で、私はすぐに立ち止まった。そうせざるを得なかった。先輩のしつこい誘いを振り切って、また今度、と早々にひとりで家路についたのに、その誘いを断ったことを、今、心から後悔している。膝を抱えて廊下に座り込み、私の部屋のドアに背中を預けながら、身動ぎひとつしない、残念ながら見知った相手がいる。特徴的な明るい髪の色は、少し暗がりでもよくその色味が目立ったし、それが適当にゆるく結われて、首筋にまとわりついているとなれば、尚更間違いなかった。

 なんのつもりでここにいるのだろう。真意を測りかねるが、どうせ聞いたところで理解は出来ない。理解する気もないというのが正しいかもしれなかった。彼の言い分を聞くのは、私には少し荷の重い作業なのだ。

 ただ、意図が分からないといくら文句を言おうが、嘆こうが、彼をどうにか退かさないと私が家には入れないというのは間違いようもない事実だった。俯いている頭を蹴り上げたいような気持ちになる。そうしたら少しは気分が晴れるだろうか。それと同じぐらいの後悔や罪責感でうなされるのが関の山だろう。私は悪役に徹しきれない。それが間違うことなく私の敵相手であっても。

「ねえ」

 彼の前に立って、少しきつくした調子でそう言ってみる。彼の頭がわずか動いた。左右に首が振れたかと思うと、結いきれなかった髪を押さえながら、彼がゆっくりと顔をあげる。本当に眠っていたのか目は半分ほどしか開いていない。気怠げなまなざしがゆっくり上向いて、私をとらえる。

「よう」

 まるで、親しい人にするみたいな挨拶をして、彼は大きく欠伸をする。目元を擦って、もう一度私の方を向くときには、彼の目はしっかりと開いていた。

「何か用、東薄明」

「用っちゃ用だが、来たくて来たんじゃねーから安心しろよ、世紬糸」

 彼と私と、どちらの言葉にも刺がある。彼と交わす会話というのはそれが当然で、彼も私もわざわざ相手を不快にさせないように、外面を取り繕う労力が勿体ないと思っている。彼のまなざしが次第に機嫌悪そうに細まっていくのもそうだし、私の方も、眉間に皺が酔っていくのは分かっているが、こういう風にしながらにらみ合うのが、彼と私の普通だ。

「だったら帰ればいいじゃない。普段は薄情者なのに、今日はやけに親切を引っ提げるのね?」

 私が言ってみると、彼はまたいっそう苦々しそうに、眉根を寄せて表情を険しくしてみせる。そっぽを向いて荒っぽく息を吐いたかと思うと「仕方ないだろう」と、ふてくされているような声が、低く押さえ気味に言った。拗ねているとも表現出来るのかもしれない。はじめて見る彼のそんな様子に、驚くよりも先に訝しさを覚える。こんな表情を見せられるほど、彼は私に気を許していただろうか。

 浮かんだ疑念が落ち着くよりも先に、彼がまた荒っぽいため息を吐いて、口を閉じないままで言葉を続ける。

「お前放っといたら、タチバナが凹んでうぜえ」

 そして彼の言ったことときたら、私の許容の範囲を越えていた。

 目の前が真っ赤になる。燃えているみたいに。けれど、私の指先も体の内側も吐く息さえも、すべてが冷えきっている。それでも冷えきらなかった私の中の煮えたぎったものが、私に腕を振り上げさせる。持ち上げたカバンを、彼に向かって思いきり、投げつけた。彼は目を見開いていたが、すんでのところで腕で顔をかばったようだった。舌打ちを隠す必要は感じない。彼が私のカバンを蹴り飛ばしながら立ち上がって、その拍子に携帯電話が廊下を滑っていった、それを視界の端にとらえてようやく、はっきりと沸き起こる怒りが、私の呼吸を荒くする。

「痛ぇんだよ、何すんだ!」

「そんなの、私が言いたい!」

 彼が叫んで、私が叫び返す。大きく開けた口の中に塩の味がした。目頭が熱くって、頬が濡れている、鼻が詰まる。それでも、肩を怒らせて叫ぶのを止めようとは思わなかった。

「何であんたなの? 何で私じゃないの? 何であんたはそんななの? だったら私に頂戴よ?!」

「うるせえ、知るか!」

 彼も、私に叫び返す。肌がひりついて、悪寒がした。外側と内側が全く一致していない。表皮は冷えていくのに、内側がぐらぐらと煮え立って、収まりがつかない。何で、どうして、そんなことばかりがぐるぐると回っている。

「お前が亜子を好きだとか、マジで俺の知ったこっちゃねーよ。関係ねぇ。それと同じで、亜子の親友が俺なのも、俺がタチバナと暮らしてるのも、お前にゃ関係ねーだろうが」

 私が睨みつける先で、彼が面倒くさそうに吐き捨てる。いつもは無関心な癖に、彼の言うことはひとつも間違っていなかった。それがまた、私の煮えたぎったこころを煽る。火のついた薪をくべられたみたいだ。

「関係ねえことにいちいち突っかかってくんな。放っとけ、うぜえ」

 止まらない彼の口先が続けた言葉は、まさに正鵠を射ていた。言い返す台詞が見つからない。何もしないで見過ごすことも出来そうになくて、でも、手元には何も残っていなかった。空っぽの拳を握る。短く切ったはずの爪が手のひらに食い込んでわずかに痛む。それっぽっちでは、冷静さを取り戻すには足りない。

「……帰って」

 手のひらの痛みにだけ意識を向けながら、やっとのことでそう絞り出す。彼はまだ言い足りない様子で私を睨んでいたけれど、大きなため息をついて「そうだな。頭沸いた奴とは話し合えねえ」と、険のある声を私に向けて、歩き出す。大股で、私の横をすり抜けていく。互いの肩がぶつかって、よろめいてしまう。彼は何も言わなかったし、私も何も言わなかった。階段を駆け下りていく足音が遠ざかって、聞こえなくなって、しんと静まり返る。明滅する蛍光灯に合わせて、虫の低く鳴くような音がしている。

 鼻をすすった。顔面がみっともなく濡れている。手の甲で拭うだけでは到底どうにもなりそうにない。ゆっくりと部屋の方へ踏み出せば、カバンから散らばった小物が足にぶつかる。定期券、化粧ポーチ、眼鏡ケース。それらを一つずつ、しゃがんでは拾う。ドアの前にくたびれているカバンを持ち上げて、拾った小物を放り込む。まだ向こうに、キーケースと携帯が転がっている。キーケースを右手に持ったまま、廊下の排水溝に引っかかった携帯を拾い上げる。サブディスプレイが、淡いピンク色に光っている。

 廊下の柵にもたれながら、携帯電話を開いてみる。新着メール一件、というウィンドウが、画面の真ん中に浮かんでいる。確認のボタンはもう選択されているのに、決定ボタンを押そうとする指が震えている。ゆっくりと息を吐きながら、ボタンを押し込んだ。画面が切り替わる。メールの差出人は、「続木先輩」。件名はなしで、本文には一言だけ。「大丈夫?」とあった。絵文字も何もないシンプルな文面で、だからこそだろうか、本当に、先輩に言われているような気がする。

「全然、大丈夫じゃないです」

 今ならそう言えた。こんなにぼろぼろで、もう、取り繕う場所なんてどこにもない。ひとりごとを言っただけなのに、拭ったはずの目元が涙で濡れていく。にじんだ視界を遮るためにきつく目をつむって、携帯を握りしめる。全然、大丈夫じゃなかった。心底惨めな気分だった。


 ベッドの上で寝返りを打つ。薄暗い天井が見えた。カーテンの隙間から射し込む光はない。きっと、外も夜なのだろう。どうでもいいことだ。もう、今は何にもしたくない。泥のように眠ることも出来ないけれど、敢えて起き上がる理由もない。どちらかを選ぶ気にもなれない。これじゃあ寝ているのか起きているのかもはっきりしない。でも、死んでいないことは確かだった。おなかは空いていないけれど呼吸はしているし、のどは渇かないけれど思考はここにある。何も生み出さず、膿んでばかりいる思考だけれども。

 こうして私が無為に寝転がっている間にも、きっと亜子は、どこかで星を見上げている。もしかするとその隣にあの人が居るのかもしれない。それだけなら、私は許せたのかもしれない、認められたのかもしれない。きっと、彼、は平気そうな顔をして、そんな亜子を見ているだろう。その隣には古谷が居るのかもしれないし、居ないのかもしれない。私はそれを見てこそ、自分の喉元に突きつけられた鋭い凶器を発見する。少しでも動けば、首から血を噴き出して、あるいは、気管にぽかりと穴を開けて、死に至るだろう。そういう状況に自分を置いてしまったことを発見する。逃げ出したいのに身動きがとれない。死んでしまった方がマシと思うのに死ぬのは恐ろしい。そして私は動けなくなる。肌の内側でマグマは煮えたぎっているのに、動けないままでも、そのうち、耐えられなくなった体が燃え尽きてしまうのが早いのかもしれない。

 私はひとを好きになっただけだ。みんながそうするのと同じように当然に、ひとを好きになっただけなのに、それはこんなにも悩ましく苦しいものなのだろうか。自分で自分を殺したくなるような衝動に駆られながら、身を切ってするものなのだろうか。他の人の答えなんて知らないし、分からない。でも、誰かひとりだけでも私の言うことに頷いてくれる人が居れば、救われるのかもしれない。

「本当に?」

 私のじゃない声がした。

 その違和感に気が付くまで少し間があってから、私は慌てて体を起こす。ドアは閉め切っている、窓は閉ざしている。それなのに私でない誰か別な人の声がすることはおかしいと、極端な阿呆でも気が付くだろう。

 体を起こして見た先に、ひとがいた。

 高校生ぐらいの男の子だ。決して華奢ではなく、けども骨ばった輪郭でそう思う。白い首筋が薄暗い部屋に浮かんで見える。白い顔も同じだった。血の気がなく、白いを通り越して青い。私を見ている目は黒く大きく、どこか作り物のように見える。瞬きをしているからそんなはずはないのに。

 白いカッターシャツと黒のスラックスを着たその男の子は、私のベッドの端に腰掛けて、膝から下をぶらぶら宙に遊ばせていた。

「本当にそうなの?」

 もう一度尋ねてくる声に、馴染みを思い出す。まだ、亜子が前のアパートに住んでいたとき。遊びに行った亜子の部屋の、となりに住んでいた男の子。亜子と結婚するあの人の弟、を名乗っていた、線の細い男の子。この男の子は、あの子だ。

 私はそう合点する。そうと気付いてから顔をあげると、男の子が途端に憎らしく思えてくる。私の、無為とはいえ必死の考えを笑われているのだから尚更だった。

「どうしてここにいるの」

 けれど、私の声はそう尋ねていた。掠れて震えていたのは、長いこと声を出していないから、というわけだけではなかった。ふたつの思考があって、確かにこの子の言うことへ怒りを募らせている私と、言葉の通りに戸惑い怯えている私がある。ゆっくりと吐く息さえ震えている。仕方ないじゃないか、だって、「あなた、とっくに死んでるじゃない」

 私が言うと、男の子は眉尻を下げて悲しそうに笑う。私の方を振り向きながら、頬はやっぱり青白いままで、この子がもう死んでいるという嘘みたいな本当をもっともらしくしている。だって、亜子が今のところへ居候を始めてすぐの頃だ、しばらく学校に来なくなった時期があって、ようやく、昼間のキャンパスに姿を見せた亜子は、心配を装って尋ねる私へ、「空が亡くなったんだ」と、多義的にとれる答えを返してみせた。空、というのがこの子の名前だった。

 男の子は、悲しそうな笑顔のままで口を開く。「きっとそうなんだろうと思うけど」と、本当に悲しんでいるように言った。

「それじゃあ俺はどうしてここにいるんでしょうね?」

「それは、私の聞くことだよ」

「ううん、そうかも。でも、俺に聞かれても分からないや。世紬さんの話を聞くなら出来るんだけど」

「私の話を聞く?」

おうむ返しにした言葉へ、男の子は小さな頷きを繰り返してみせる。私に向けられる笑みは少し明るくなっていて、自分の言ったことを、まるきり信じているみたいだった。たったそれだけを見てすら、腹の底のほの暗く熱をもった表面が、緊張に耐えきれずに破裂する。その勢いのまま、乱暴なことを口にしないで済んだのは、男の子の目が本当にまっすぐに私を向いているからかもしれない。その目を見つめ返していると、胸の内が少しずつ、冷えていくような気がした。

「多分、話したくないなら話さなくても良いだろうし……きっと、俺がここにいるのは何かの間違いには違いないもの。邪魔だったら放っといてくれたら、勝手に消えるよ」

「随分と勝手なこと、言うのね……」

 男の子は乾いた声で小さく笑った。枯れ葉が踏みつぶされるのに似ている。無為な音に乗せて、男の子は私を見つめているし、私も男の子を見つめ返す。弟といっても、あの人とはまるで似ていない子だ、と思う。少なくとも、あの人の持つ怜悧なまなざしと、今、私に向けられているまなざしは、互いにどこも似ていない。それなのに、あの人とこの子が兄弟であるということは、不思議と、疑いようがなかった。

「あなた、亜子が好き?」

 私が尋ねると、男の子はゆっくりと瞬きをして、はにかみながら口を開く。

「うん、好きだよ」

 男の子の答えには、不思議とかっとはしなかった。その後に「慧ちゃんと、ちぃちゃんと、春ちゃんと、くーちゃんと、さーちゃんと、アキと、理人と、那智先生のことが好きなのと、同じように好き」と、補足を加えられるのを、知っていたのかもしれない。男の子のあげる名前のほとんどを私は知らなかったけれど、はじめに言われたのがあの人の名前だったから、きっと他もこの子の兄弟たちや、あるいは、家族、と呼ばれる人たちなんだろうと思う。そういう人たちと同じように亜子を好きになれるなんて羨ましい、と思う。同時に、私には絶対に出来ないことだ、とも。

「好きってなんなのかはよく分からないけど、俺にとってあっちゃんはそういう人だよ」

「そう」

「うん。世紬さんにとっては?」

 明日の天気を尋ねるみたいな声だった。それも私には分からないけれど、男の子が実際に聞いていることの方が難解で、易く開きかけた口を閉じる。私はどんな表情をしているだろう。男の子は「好きなんでしょう、あっちゃんのことが」と私を追いつめてくる。自分で思ったことなのに、今、聞かされると、耐えがたいズレがその言葉の中にあるような気がする。

 私は、亜子のことが好き。

 それだけで良いはずだった。

 どうして?

 私と同じように亜子を好きだったはずの彼のことがふと浮かぶ。彼は、自分のとなりに古谷という子を置いて、不機嫌そうに立っている。不機嫌そうなのに、その手は古谷と繋がれている。

 そんなもの見ていたくないなと思って、目を開ける。薄暗い部屋の中、ベッドの上には私一人きりだった。本当に、一人きりだった。さっきまで、そこに座っていた男の子と言葉を交わしていたはずなのに、と思ってベッドの上に目を凝らしてみるのに、男の子のいたあたりの布団には、私が寝ていた以上の痕跡はありそうに見えなかった。

 あの子はどこへ行ってしまったの。それとも、夢を見ていたんだろうか。どうせ夢を見るなら、もっといい夢を見ていたかった。だって、目を覚ませばまた、どうしようもない現実ばかりが見えてきて、いい出来事だけがそう都合よくは分かってくれない。ため息をつく。男の子に言おうと思ったのに、肝心の聞かす相手を失った言葉が、宙ぶらりんになって喉の奥に控えている。そのままじゃあんまり可哀相だ。

「だって、好きでいればひとりじゃなかったもの」

 だから、言葉に音を与えて吐き出した。弔いの代わりだ。聞かせる相手は居なくても、私はここで聞いている。それで満たされるかは分からないけれど、少しだけ、体が軽くなったような気がする。ただ、私がこうしてひとりぼっちなのには変わりはなくて、無性に悲しくなってくる。ひとりでにあふれてくる涙を拭っても拭ってもきりがなくて、布団に突っ伏してシーツに顔を押しつける。悲しいのも、惨めなのも、やっぱり何ひとつ変わりはなくって、それなのにどこか、楽になった気がするのはおかしい。けれど確かに、私の中から煮えたぎるような怒りと、冷たい刃の感覚は消え失せている。

 すん、と鼻をすすった。誰かからの返事も何も、聞こえなかった。


 何日ぶりになるか分からない勤め先の部屋のドアをくぐると、隣の席の先輩と目が合った。携帯電話に誰よりもたくさんのメールと着信を入れてきた人。

「おはようございます」

 当たり障りのない挨拶を交わしながら、部屋の端の方の自分の席へと近づいていく。私のついた嘘がどこまでどう広まっているのか、「もう大丈夫?」やら「まだ、顔が青いぞ」やら、心配した声をかけられる。それらに笑顔を返しつつ、ようやく自分の席にたどり着いて、カバンを机の上に下ろす。隣の席の先輩のまなざしは、あくまで心配そうに私に向けられている。

「おはようございます、続木先輩」

 今日はまだ他の誰にも見せていない、とっときの笑顔で先輩にそう挨拶をすれば、先輩は一瞬、はっと目を見開いて、瞬きを繰り返し、ぎこちない笑顔を浮かべてみせる。可愛らしい人だなあと思う。

「おはよう、世紬ちゃん」

「メールと電話、ありがとうございました。返せなかったですけど」

「あー……別に、気にするな。私がしたくてしただけだ」

「はい。でも、ありがとうございます」

 軽く礼まですれば、先輩はとうとうそっぽを向いた。キャスター付きの回転椅子というのは、こういうときに便利なのだろうと思う。体の正面を向こう側へ向けた先輩の後ろ姿しか私には見えないけれど、後ろ姿の耳が赤いのを見つけて、可笑しくなる。

 先輩から目を離して、席に着く。カバンを一番下の引き出しへおさめてから、机の前のメモの群れに手を伸ばす。雑務から、対外的な連絡の記録まで、様々なことが、分別のない色づけをなされてそこへ張り付けられている。一度、メモの群れを根こそぎすべてはがして、机の手前に用件ごとに貼り付けなおしていく。幅の細いのもあれば、太いのもある。それも色々であったし、幅からはみ出している重なりの部分を見ると、本当に無分別な色づけだった。

 あっという間に仕分けが終わって、それぞれのふせんの山を、また机の前へ貼り付けていく。椅子に腰かけたままで腕を思い切り前へ伸ばす。

「手伝おうか?」

 先輩の声がいつも通りに言う。それへ、首を横に振って答えておいて、残りの山を手早く、机の前へ貼り付けていく。それもまたあっという間に終わって、息を吐きながら背もたれに体重を預けると、隣の席の先輩が、また私の様子をうかがっている。私よりも、先輩の方が落ち着かないみたいだった。

「続木先輩」

「なあに、世紬ちゃん」

 自分でもびっくりするほど落ち着いた声が、自分の喉から出た。答える先輩の方が何故か慌てた様子なのは、やっぱり可笑しい気がする。だから私は、言葉を続ける気になるのだろうか。

「好きな子が結婚するんです」

「うん、聞いた」

 先輩は神妙な調子で頷いている。私はそれを横目で捉えながら、自分の言ったことをぼんやりと考える。亜子が、あの人と、結婚する。式は挙げるのだろうか。指輪をするのだろうか。口づけは交わすのだろうか。ただの想像とも、裏付けのある疑念ともつかない考えが、脳裏にふと過ぎる。でも今は、それを放っておくことも出来そうだった。

 一度目を閉じて、ゆっくりと開ける。心配そうな先輩と目が合う。

「その結婚式が無事に終わったら、私とデートしてください」

 私の言う途中から、そして、私が言い終わってもまだ、先輩の目は大きく見開かれて、私を見ていた。あんまり分かりやすくびっくりしている。それが、やっぱりおかしくて、閉じた唇の端からも笑いがこぼれそうになる。口元に力を込めて、声を押しとどめながら、笑みの形を作って少し首を傾げる。鼻の奥と目頭が熱いのは気のせいだろうと、言い聞かせながら。

 先輩が口を開く。何かを言おうとしたのだろうけれど、先輩の声がするより先に、朝礼の合図が部屋の中にするどく響く。先輩が口を閉じて、まなざしだけで私にうなずいて、そっぽを向く。室長の方を向いたのだ。私も同じ方を向いて、ゆっくりと息をする。

 先輩との即席の約束が果たされるかは分からない。果たされたところで何も変わらないだろうけれど、そんなものだと嘯いている。きっと大丈夫だと言い聞かせているのか、確信しているのか分からない、自分じゃないようだけど確かに自分のものである声を聞きながら、私は私の毎日に、戻っていく。

 誰にもばれないように小さく、すん、と、鼻をすすった。

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