星を踏んで帰る

 「あ」と頓狂に外れた声に目を開けると、亜子が窓の外を見上げて、声を出したときのままだと思われる形に口を開けっ放しにしていた。拳は無理でも、ゆで卵ぐらいなら入りそうだ、と寝ぼけた考えがふと浮かぶ。

「どうした、亜子」

「流れ星、が」

 そう言いながら亜子は窓の外を指差す。指の先にあるものは俺には見えない。微睡みかけていたところだったが、仕方ない、ゆっくりと体を起こす。その場にあぐらをかいて背筋を伸ばしていると、亜子が脚を崩して、膝を抱えて座り直すのが見えた。ようやく脚を崩せてほっとしているのかもしれないが、背中を丸めて胸を太腿へくっつける仕草は、まるで子供じみていた。そしてまた、窓の外を指差す。窓ガラスに映った亜子の白い顔の向こうの、暗い夜空を差している。

「あっちから、こっちの端に」

 言いながら人差し指を滑らせて、息を吐く。こちらを向いた亜子の顔は、残念がっているような笑みを浮かべている。

「突然だったから、願い事をし損ねました」

「願い事なんかあったのか」

「ええ、そりゃもう沢山」

「そりゃ大変だ」

「ええ、大変なんです。だから、慧さん」

「何だ?」

 膝を抱えて座ったまま、亜子は器用に俺の方へと体をずらしてくる。あぐらをかいた俺の膝にぶつかるかぶつからないかのところで一度止まる。俺が自分の膝を立ててやると、その分の距離を詰めてきて、俺の肩に自分の頭をもたれ掛からせる。見上げたガラスにうっすらと映っている亜子の口元は笑みを作っている。

「散歩に行きましょう。流れ星を探しに」

 可笑しそうな声が言う。胸を躍らせながら何かを待っているように、亜子は口を噤んでもまだ笑みを浮かべている。俺の肩に乗せた頭を動かすでなく、今以上に距離を詰めるでなく、ただそのままの姿勢で窓の外を見上げているだけだった。何を以てこの亜子の様子に答えるのが正解なのか、逡巡したのは一瞬で、しかし口に出すことはまだ躊躇われて、軽く息を吐く。もうすぐ日付が変わる時間だ、というのは言い訳になるだろうか。いや、他の誰かにならともかくも、亜子には通じないだろう。ここで俺が間違えれば、ひとりで星を見に出て行くことぐらい、直ぐにやってのけるに違いない。

「……そうだな、行くか」

 短い回り道の末、観念して俺が言うと「良かった」と亜子が言う。うれしそうな声音に、どうやらこれが正解だったらしいと解る。俺の肩が軽くなる。見れば、亜子は体を真っ直ぐにして、頭の上で手を組み、その手のひらを天井へ向けて、思いきり伸ばしている。そうして背筋を伸ばした後、亜子は手を解いて、また、膝を抱えると、膝の上に顎を乗せて、こちらを向いた。

「ひとりで行かなきゃいけないかと思いました」

 うれしそうに、可笑しそうにする亜子の言うことへ、さっきのが正解だったことを確かめる。それへ安堵もしているのに、あくまで笑顔を崩さない亜子に対して、自分が自然と渋面になるのが分かる。

「行かせない」

「あれ」

「俺がそばに居るのに」

「成るほど?」

「すぐに出るか」

「ええ、はい。もう、すぐにでも」

 頷いたり首を傾げたり、俺の言葉への返事に、亜子はいちいち反応する。それを見ながら先に「よいせ」と立ち上がって、亜子へ向かって手を伸ばす。亜子は、軽く見開いた目を何度か瞬きさせてから、手ではなくて俺の顔の方を見ると、はにかんだ笑みを浮かべながら、膝を抱えていた腕を解いて、俺の手へと自分の手を重ねる。柔らかな手のひらは、少しひんやりとしていた。華奢な手のひらを握っていると、亜子が立ち上がろうとするのに合わせて、手のひらに重みがかかる。立ち上がった亜子の顔は、俺より少し下にある。その距離を俺は見下ろし、亜子は見上げていて、視線が合う。

「行きましょう」

「そうだな」

 手を繋いだまま、部屋を出る。廊下はしんとして、空気は冷えて止まっている。雨戸を閉めないでいる縁側の窓から外を見る。庭の隅の何も咲いていない花壇がいやに目に付いた。その理由を考え始めるより早く、亜子が俺の手を引いて玄関へと歩いていく。急いでいるわけではなさそうだが、かといってのんびりと俺の様子をうかがう余裕はないらしい。まるで、何かへ夢中になっているかのようだ。何か。流れ星かもしれないし、自惚れでなければいいが、俺と出掛けるということについてかもしれない。うれしそうに、楽しそうにそうしている様を見ていれば、理由なぞ何だってよくなるものだが。

 玄関の明かりを点けて、つないだ手を解く。亜子はその場へ座り込んで、三和土へ出してあるサンダルに足を入れる。飾り気のない茶色い革のサンダルは恐らくは男性用に作られたもので、亜子が好んで身に付けるのはやはりそういうものだった。それが白い肌と、細い足首と、相俟ってしまうことなく違和を与えればいいのに、不思議と亜子にはそれが馴染んでいる。立ち上がった亜子の上半身を包む編み目の荒いニットも、余裕のある太さのベージュのチノパンも同じだった。余計なものがない無骨さが亜子にはよく似合っていて、違和感を覚えさせてくれない。恐らく、だから亜子は誤解されるのだし、それぐらいで誤解する輩には誤解をさせておけば良い。「慧さん」と呼ぶ声の柔らかさが亜子の本質に近いのだと、知っているのは亜子の側にいる人間だけで良い。誰よりも亜子が、その誤解を望んでいる。

「靴、じゃなくて草履。これじゃなかったですか」

「いや、それで合ってる」

 まだ靴を履かない俺を不思議に思ったのか、亜子が軽く首を傾げつつ、言う。眼鏡の奥のまなざしがほんの少し不安げに揺れたのが、大切に思われる。「少しぼーっとしてたんだ」と言いながら、靴箱の天板を支えにして、三和土の自分の草履に足を乗せる。片足ずつ、鼻緒をしっかり親指と人差し指の間へいれて、緩まないのを確かめる。

「行くか」

「ええ、はい」

 扉を横へ引く。冷たい空気がこちらへ流れてくる。亜子の手を引いて外へ出れば、夜はもう肌寒いぐらいだった。夏はあっという間に過ぎてしまう。あの暑さの盛りを思い出させてくれるものといったら、つないだ手の指の間に感じられる、金属の冷たさぐらいだ。俺の左手にも同じものがはまっている。亜子がそれをつけるのを拒まないことは些か意外だったが、こうして揃いをつけているというのも存外気分が良い。亜子が扉を閉めるのを眺めながら、自然と口元が緩むほどには。

「鍵は」

「まあ、良いだろう。朝まで出るわけでもないし」

「それはそうですね」

 亜子が頷いたのを確かめてから歩き出す。門を開けて外の路地へ出てから、どちらに行くか決めかねて足を止める。すかさず、亜子が俺の前に出て、左の方へ歩き始めるので、それへ着いて行く。手はしっかりとつながれたままでいる。前を見ながら、亜子の背中は自分のより小さいのだろうと考える。合わせて比べてみたことこそないが、俺の着物を羽織ったときのことを思い出す。随分と身頃に余裕が出てしまって、不格好になってしまったことがあった。あれはいつ頃だったか、まだ、空がおかしがって手を打って笑っていた頃だったような気がする。空の笑い声を聞きながら、亜子ははにかんでか困り果ててか、少し首を傾げて、眉尻を下げながら笑みを作っていた。ちょっと大きいみたいです、と俺へ言う声は朗らかだったように思う。

「慧さんは星を見る子どもでしたか?」

 亜子がそう言って、俺を振り向く。声もまなざしも浮かれたままだ。全く、とあきれてみせたいのに、息が止まる。笑みを作った唇の艶やかさが不意に、違和感をともなって赤く見えたせいだった。声も出せずにいると、亜子はくすりと笑い声を漏らして、また前を向く。白い項が夜に映えている。

「僕は、星を見るのが好きな子どもでした」

「知ってる」

「何だか、本当に知られてるみたいな気がしますね、慧さんが言うと」

「お前の言うのが本当だったら、俺は神様か何かだよ」

「かみさま」

 亜子が俺の言葉を繰り返す。その後には言葉をつなげずに、黙り込んだまま、亜子は歩き続ける。俺もその後を追って、歩く。かみさま、と亜子が舌の上で転がした四文字が、消えていかずに俺の耳の奥で響いている。かみさま、と呼ぶ声の色が少しずつ、少しずつ、別な声に変わっていく。その四文字の意味するところさえ、別な何かに変わっていく。慧ちゃんは俺のかみさまだね、と嘯いて、空の笑っているのが聞こえてくる。あいつは星を見る子どもだっただろうか。空がほんの子どもだった頃に夜を一緒に過ごしたことはあまりに少なくて、分からない。ただ、人のきらめかすイルミネーションよりも、夜空にかすむ星明かりの方を、空は好むような気がする。俺の前を行く亜子と、同じように。

「ねえ、慧さん」

「なんだ」

「もし、もしも神様になれたら、どんな神様になりたいですか?」

 今度は、亜子は振り向かなかった。だからか、ゆっくりと考えることが出来る。どんな神様、なんて、どこかずれた質問だ。神様になんかなりたくない、というのがはじめに浮かんだ答えだったが、それでは答えすらずれたものになってしまうから、思いつきの口を噤む。亜子は振り向きもせず、歩き続けている。俺の手を引いて、星を探す道筋を辿っている。不思議なほどに静かで足音も遠い。いつの間にか、まるで夢見じみている。息の出来る水の中を歩いているような気さえした。

 神様、なんていう言葉が自分の口をついて出ることが、夢の証明かもしれない。それは、俺が殺してしまいたい言葉のひとつだったし、殺してしまったはずの言葉だった。空と一緒に、居なくなってしまったはずの言葉だった。そんなことは本当には実現され得なかったというだけのことだ。殺してしまったはずのものだけが死にきれずに、立ち返り蘇っていつの間にかそこに居る。勝手に去っていったものを焦がれても何も戻ってこないというのに、ひどい有様だ。

 自分の足が地面を踏んでいるはずなのに、妙な浮遊感がある。前を行く亜子の背中が青みがかって見える。つないだ手に込めた力だけが確かに思われた。少し冷えた指先が俺の手の甲を押さえつけている、その重み。いつから、俺と亜子はこういうことを許し合うようになっただろうか。そう遠くない気がする。けれども、空の居なくなるよりは後だった。亜子と空は手を繋いでいたし、俺と空は手を繋いでいたけれど、空なしに俺と亜子が手を繋ぐことは、なかったように思う。誰かを、何かをなくしてこそ達成され得るものがあることを信じたくないというのこそが、子どもっぽい理屈の通らなさだとは分かっているが、それでも、そう言葉にしてみるとこれほど受け入れるのが難しいことはない。だからといって、この手をふりほどくことなど考えられるはずもなかった。

 俺は神様になぞなれなかったし、初めからそんなものではなかったし、望まれてもそのふりなんぞしてはならなかった。慧ちゃん、と自分を呼ぶあどけない声に懺悔するように、そんなことを思う。

「慧さん」

 亜子が俺を呼ぶ。思わず立ち止まると、存外近いところで亜子が俺を見上げている。空のでない、他のどの弟妹たちのものでもない、眼鏡のレンズの奥の黒い目が、俺を見上げて瞬いている。赤い唇が薄く開いて、逡巡するように一度閉ざされ、耐えきれなかったようにすぐに開く。

「僕は、星を見るのが好きな子どもでした。今もそうです」

「ああ、そうだろうな」

「だから、僕が知ってるのなんて星のことばっかりで」

 俺の返事を聞いて頷きながら、亜子の口元は笑みを象る。笑いを含んだ声が途切れて、上を向く。つられて見上げれば、暗い空に細かな明かりが散りばめられている。それらの光が集まってまばゆいところもあれば、疎らで暗いところもある。そこに意味を読みとる術を、俺は知らない。亜子が読み解いて話すのを、聞いているだけだ。

「それでも、空のどこから流れ星が降ってくるのかは、分かりません」

「お前でも、分からないんだな」

「だって、慧さんが神様の居場所を知らないのに」 また亜子の声が途切れた。柔い息づかいの音だけがしている。満天の細かな星明かりは、俺の鼓動とも亜子の呼吸とも関係なく、遙か高くにある。その距離の途方もなさをすら、亜子は丸ごと星空として好くのだろう。

 亜子が見上げている様子を見ようと思って顎を引くと、亜子もまた、空を見上げるのをやめて、俺を見ていた。仄かなる笑みを浮かべている。

「流れ星、見つかりませんね」

「残念……ってわけじゃなさそうだな。それでも星は見えるから?」

「いえ」

 亜子が僅かに俯いて、首を横へ振る。一旦は伏せたまなざしが、また俺を向いてきらり、と輝きを映す。星なのか、別な何かなのか。別に、何であっても構わない。亜子がひどく満ち足りた様子でいるから、それで良かった。

「慧さんが、こうして僕と一緒に歩いてくれるから」

 繋いだ手にこもる力が、わずか、強くなる。どちらがそうしたものか分からないが、いつの間にか温まった手のひらは、汗ばんで湿っている。繋いだ手を引かれるままに歩き出すと、さっきまで進んでいたのとは逆の方へ向かっている。来た道を帰り始めるらしかった。

「こうして一緒に歩いてくれるのが慧さんで、僕は幸せなんです」

「そうか」

「ええ、慧さんが思っているよりも」

「俺も、お前と一緒に居られて幸せだよ」

 俺が答えれば、先を行く亜子の歩調が、少し早くなる。舗装されたコンクリートの地面を踏む二人分の足音が、どこか逸っている。

「明日、役所は何時から開くんだったかな」

「……それこそ、慧さんの知ってることでしょう」

 俺のとぼけた質問に答える亜子の声は、またおかしがっている。その声を聞いて「そうだな」と返す自分の声も、同じようにおかしがっていた。部屋の机の上に置いてきた、届けのことを思い出す。明日、あれを役所に持っていく。こんな、夜空の下を歩いてでなくて、青い、晴れた空の下を歩いて。

「あ」と、外れた調子の声がする。思わず、空を見上げる。流れ星は、もうどこにも尾を引いていなかった。

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