あなたの「となりに立つ少女」を描きなさい

あなたの「となりに立つ少女」を描きなさい①

 面倒なことになった。と、中村佳美は思った。もともとこの学校へ戻ってくるのは気が乗らなかった。嫌な……辛い思い出がある。


 目の前には家斉響子と、彼女の担当しているクラスの女生徒。艶やかな長い髪、ぱっちりした目の可愛らしい娘。たっての相談事があるということで吹奏楽部の練習を見た後に話を聞くことになったのだが、ずいぶん遅刻されてしまい、もう夜の7時をすっかり過ぎている。音楽準備室の窓の外は真っ暗で、気の早い用務員が校舎の明かりをどんどん消していく。


 しかも今日は何やら深刻な話だと聞いていたが、まさかこんな事だったとは。


「さきほど話した通り、あの事故で亡くなった花田さんが最近うちのクラスで話題になってしまってて、彼女の幽霊を見たっていう子が後を絶たないんです」


「でも、先生ぃ……」女生徒が口を挟む。


「静かにしてなさい。中村先生からも言ってあげてください。あれは自殺でも殺人でもなく、事故だった、と」


「でも、こころちゃんも見たって……」


 女生徒がしつこく食い下がる。止むを得ず佳美も口を出す。


「幽霊なんていないわ。そんなうわさをする子がうちの吹奏楽部にもいるけど、本当に見たっていう子なんて」……いや、一人いた。

「あの、こころちゃんて吹奏楽部の根本さん?」


「そうです! 彼女も見たって言ってました、階段を降りようとしたら、そ、その幽霊が出てきて、耳元でユルサナイ〜って」


「……」


「こら! そういう時は『はい』か『いいえ』で答えるだけでいいの」


「でも先生ぃ〜、許さないって言ってくるってことは、やっぱり殺されたんじゃ……私を犯人と勘違いしてたりしないですよね?」


 家斉は大袈裟なため息をつき、助けを求めるように佳美に顔を向ける。


「先生、言ってあげてください。彼女は不幸な事故だったと。本当に殺されたっていうことならまぁ確かに化けて出てくるってこともあるかもしれないけど、彼女はそんなんじゃないわ」


「……」


「中村先生?」


「え、ええ、もちろんそうね。事故だったんだから、許すとかどうとか、そんなはずはないわ」


「ですよね? いま、クラスでこういうのが流行ってて、私も当事者としても担任としても困ってまして……」


 しばらくこんなやり取りが続く。


 佳美は気が気ではなかった。最近、彼女の周囲で不思議なことが起こる。学校に置いている上履きの靴紐が、毎朝のようにほどけているのだ。机の上にちゃんと並べていた書類が散乱していたり、買ったばかりのボールペンがすぐ使えなくなったり、椅子に結えてある座布団がひっくり返っていたり。あげくには、発信者不明の電話がかかってくるようになった。決まって公衆電話。一度だけ電話を取ってみたが、雑音がするのみで無言だったので、慌てて切った。


 そんな折に、さっき話題に出た根本こころという生徒から聞いたのだ。『となりに立つ少女』を見た、という話を。例の階段の近くで、友達と離れて一人になった際に「出た」らしい。


 畳み掛けるように、山岸さくらからユーフォニアムから変な音が出る、と相談された。この子も以前、昔のことについて聞いてきたので不気味に思っていた。仕方なく演奏を聞いてみると、実際に妙な音がする。正確にはユーフォニアムから音がすると言うよりは、それに呼応するかのように女の子の声が聞こえてくる。注意して聞いてると、確かに何かを喋っているような気がする。スピーカーを通したような、雑音が混じったような声だ。恐ろしくて彼女にも、彼女のユーフォニアムにも近付けなくなった。


 こんな学校へ戻ってきたくはなかった。まるであの娘に呼ばれたような気さえしてしまう。


 さらに今晩のこのやり取りだ。しかも刻一刻と時刻は過ぎていく。


「せ、先生、そろそろ時間も遅くなってますから、続きはまた明日にしませんか」たまらずに佳美は切り出した。


「え……あら」家斉は腕時計を見て、7時半を過ぎていることにやっと気付いたようだ。

「すいませんでした。すっかり遅くなってしまって……そういえば、ともちゃんもよく遅くまで練習してましたね。私も付き合わされて、帰るのがずいぶん遅くなってました」


 その時、廊下の奥から、低い金管楽器の音が聞こえた。


「あら……ユーフォの音? まだ誰か残ってるのかしら」くすりと笑って、「思い出しますね」


 冗談ではない、こちらは忘れたいのだ。それにこの時間まで残っている生徒がいるはずがない。7時までに帰るように言っておいたのだから。


「おかしいですね、遅くならないように言っておいたのですが」嫌々立ち上がった。「声をかけてきます」


「あ、私が行ってきますよ!」


 女生徒が快活に立ち上がって、廊下に出る。呼び止める間も無く出て行ってしまった。


「あの子も、普段は優等生で幽霊なんて信じてないみたいなんですけどね」家斉はため息をつく。

「今回はどうしたものか……あら?」


 彼女は立ち上がり、準備室にある楽器を数え出した。


「ひとつ、ふたつ……、へえ、今は吹奏楽部も潤っているんですね。今の生徒たちが羨ましいです」


「どういうことですか?」


「ほら、ユーフォって昔は2台しかなかったじゃないですか。私、ともちゃんと交代で練習してましたから、いいなぁって」


「……いまも2台だけですが」


「えっ」声を出して、また雑多な楽器群を見る。「でも、ここに2台ありますけど。ユーフォニアム」


 驚いて、佳美も楽器を数えた。ユーフォニアム。トランペット。フレンチホルン。バリトン。金管楽器は全種全数揃っている。


「確かに、全部あります。数も合っているはず」


「そんな。じゃあ、さっきの音は一体……?」口に出した家斉が怯えるのが見えた。「だ、誰か私用のを持ち込んでるんですか?」


 佳美は小さく首を振った。そんな生徒はいないはずだ。いったい誰が、どのユーフォを吹いたのだ?


 その時、またどこかしらから、太い、独特の音が聞こえてきた。


 二人は言葉もだせず、立ちすくむ。


「せんせえ〜……」


 小さな声に思わず振り向いた。さっきの女生徒が涙目になって立っている。


「誰もいないよ、先生、こわいよ……」


 家斉と佳美は思わず顔を見合わせた。


「帰りましょう」家斉は小さな声で、鋭く言う。


「ええ、そうしましょう」佳美も小声で返す。


 家斉は生徒に「荷物を持って」と促しながら、自分もバインダーなどを脇に抱えた。


「先生ぃ、いまの音って、もしかして……」


「違う違う、遅くまで残ってる子がいたのよ。明日は注意しとかないとね」家斉は荷物を持った生徒の背中を押しながら廊下に出た。


 振り返って、「さ、中村先生も早く」


「ええ」


 戸締まりのチェックは……もういい、たぶん窓も閉まっているし、貴重品庫は今日は開けてない。早く帰ろう。あとは職員室の日報に名前を書いて鍵を返すだけだ。家斉たち二人はすでに廊下で待っている。自分も部屋の電気を消しながら廊下へ出て、音楽準備室の鍵をかけようとした。が、なぜか鍵穴に鍵が入らない。


「あれ? 変ね、鍵が入らない」思わず口に出てしまう。焦れば焦るほど、鍵がうまく合わない。向きもあっているはずなのに、奥まで入らない。手が震えて、鍵穴と鍵が擦れてカチャカチャと金属音を鳴らす。


「先生、私がやります。この子を連れて職員室へ行ってください」小声で言いながら、家斉が青ざめた顔で手を差し出した。

「はやく」


「そう、そうね、お願いします」


 鍵を受け取った家斉は、「中村先生についていきなさい」と女生徒を押し付けた。彼女はこわごわと佳美の袖をつかむ。震えているのが袖越しでもわかる。佳美は彼女の背中を押しながら、「さあ、はやく」と歩き出した。


 音楽室がある実習棟4階と、教室棟の4階を繋ぐ渡り廊下は比較的窓が多く、夜中でも月明かりや街灯の灯りが差し込んできて歩きやすい。渡り廊下の中程にあるトイレの周辺だけが少し暗いが、見えないほどではない。ただ、さっきまで明るい音楽準備室にいたので目が慣れていないため、普段よりもずっと薄暗く感じる。


 袖を掴む生徒をひっぱりながら歩くのは骨が折れた。自分が怖がっているのがバレたら余計にこの女生徒が恐怖で動けなくなり、佳美自身も身動きが取れなくなる。トイレの前まで来たら、ある程度はもう目が慣れた。このまま教室棟まで行って、あとは階段を降りるだけ、と思った矢先に、横の女子トイレから水滴が落ちる音が聞こえた。


「ひえっ」と女生徒が佳美の腰にしがみつく。「な、なんのおと? なんのおとですか?」


「落ち着いて、水滴が落ちる音よ。何でもないから」


 さあさあ早くいきましょうと急かす佳美に、腰に巻き付いた女生徒がまた声をかける。


「あの、家斉先生、遅くないですか?」


 言われてみれば遅い。鍵がかかりにくかったとは言え、それだけなら時間はかからなそうだし、何なら諦めて追いかけてきそうなものだ。しかしもう待っていたくもない。


「ちょっと時間がかかってるだけだから、先に行きましょう」


 佳美は不安を押し殺して女生徒を立たせた。さっきよりもしっかりと袖を掴んでいる。歩きにくくて仕方ないが、そのままにして渡り廊下を渡った。教室棟は渡り廊下よりも暗い。月明かりの角度も悪いし、渡り廊下のように両側に窓があるわけでもない。階段周りは尚更だ。非常灯の灯り以外は消えていて、窓の月明かりが一番の光源になっている。


 佳美は手すりを頼りにして階段を降りた。女生徒は佳美の袖を掴んだままだ。おかげで手すりを持っているのに一段づつ、ゆっくりとしか降りれない。


 やっと3階に降りてきた。すると、いよいよ女生徒が腕に抱きついてくる。


「あの、歩きにくいから、ね、少し離れてくれない?」


「せんせい、でもすぐそこが、例の場所なんでしょう?」


 佳美はびくりと体を震わせた。そうだった。すぐそこの踊り場で、あの事件は起こった。忌まわしい、佳美の大事なものを奪った事件が。そして、『となりの少女』が恨み言を囁くというのもこの階段……。


「せんせいぃ、ここの階段ん、やめませぇん? あっちのぉ、教室の向こうの階段にしません? 遠回りだけどぉ、ここぉ、そのぉ、……。……怖いです!」


 渡りに船だった。不気味な幽霊の噂がある階段など、夜中に通りたくはない。


 あの日のことがフラッシュバックする。


 婚約者の子供をみごもった女生徒が、ベッソンの選定品を持っていた。


 鈍く金色に輝く、あの奥ゆかしくも美しい光沢。


 学校の備品などとは比べ物にならないその価値。


 いつの間にか婚約者の家から消えていた重みのある芸術品。


 楽器は管理も手入れも重要なのだ。それなのに、あの浅はかな、尻が軽い婚約者はあの娘に軽々しく渡してしまった。あの年端も行かない小娘に、ろくに価値もわからない泥棒猫に。あれだけ優しく、あれだけ丁寧に教えてあげたのに。どれだけ悪いことをしたか、どれだけお互いの人生に影響するか、話してあげたのに。頑なに認めない。信用しない。挙句にあの芸術品を、べたべたと汗臭い手で汚させるなんて。


 子供が気安く触るものじゃない、返しなさいとケースを掴んだ。


 あの生意気な娘は、ケースを手放さなかった。


 階段を駆け降りようとする娘とケースの引っ張り合いになって……。


 あの強情な娘が……楽器を抱きしめたまま……。


 あの眼が、まだ私を……。


「わ、わかりました。向こうの階段に行きましょう」


 教室前の廊下は薄暗く、外の灯りも入りにくい。心なしか風が強くなって窓を叩いている。気がきかない用務員のせいで廊下の明かりは全くついていない。柱やロッカーの作る影が濃ゆく伸びており、足元もおぼつかない。


「さ、はやく」


 佳美は女生徒を急かす。相変わらず左腕にしがみついてくる彼女のせいで歩きにくい。こんなところは早く通り抜けたいのに、何と愚かな娘なのだろう。廊下の中ほどまで来た時に、一際強く風が強く吹いたのか、外に面した窓が大きく鳴り、


「ひゃっ!」


 女生徒が悲鳴を上げて腰に抱きついてくる。バランスを崩して思わず教室側によろけて、窓に手をついてしまった。


「あ、あぶないでしょ」


 流石に文句を言おうと女生徒の顔を見る。青ざめて、両目を見開いている。視線は佳美の顔の横、廊下の奥だ。女生徒は、ゆっくりと、その視線の先を指さした。振り返る。


 廊下の奥に、制服姿の少女がいた。薄く、月明かりの中に浮かぶように、ゆらゆらとけぶるように立っている。遠すぎて顔まで見えないが、あの姿。忘れもしない、あの……!


 佳美が声を出そうとしたその時、いきなり校内放送のスピーカーが鳴り出した。激しい雑音とハウリングが響いた。驚いて天井を見上げた彼女の耳元で、何故か声がする。はっきりと。


「どうして……」


 振り返る。誰もいない。視線を下げると、相変わらず女生徒は彼女の腰にしがみついている。今すぐ逃げ出したいのに、この娘のせいで身動きが取れない。


 そうだ、そうだった、と唐突に彼女は気付いた。あの花田知世が在籍していたクラスは、この目の前にある、2年4組ではなかったか。


「あいつ、近づいてきた!」叫び声に釣られて、再び廊下の奥を見る。さっきよりも近いところに、ゆらゆらと輪郭さえも揺らしながら、『少女』が立っていた。このままでは、あいつが来てしまう。


「どきなさ……」い、と続ける前に、教室側の窓が鳴った。廊下に面した窓が、一斉に揺れた。教室の中から、風ではない何かが窓を揺らしている。耳障りな音を立てる窓には、磨りガラス越しに、うっすらと無数の小さな手が見えた。まるで赤ん坊のような、小さな、小さな手。産まれたての……いや、産まれる前のような、それくらいに小さな手。力が抜け、尻餅をつき、それでも両手足でもがきながら反対の窓際まで下がると、その手は一斉に消えた。


「あ……」言葉が出ない。「あ……」小さな、叫び声にもならない声が、喉から漏れ出る。天井のスピーカーからの雑音は止み、微かに、しかし確かに、金管楽器の音が聞こえた。……ユーフォニアムだ。


「どうして」


 また耳元で声だ。振り返るのが恐ろしい。わざとじゃなかった、違う、そうじゃない。わざとじゃない。違う。「ちが……ちがう……」舌が乾いている。声が出ない。腰にまとわりつく女生徒は、もう気を失っているのかピクリともしない。動けない。首だけ、首だけが動く。廊下の奥を……さっきまで、花田知世がいた方を見る。


 ……居ない。


 校内放送も止んだ。静かな廊下だった。風もない、窓も鳴らない。


 彼女は身を起こした。まだ震えが止まらない。一緒に倒れたままの女生徒はまだしがみついている。全く動かない。息をしているのかもわからない。


 ……終わったのだろうか?


 その時、また天井のスピーカーからハウリング音が流れた。思わず両耳を塞ぎ、目を瞑り、うつむく。今度は長い。恐ろしい。息もできない。目を開ければ取り返しがつかないものを見てしまう気がする。耳を塞いでも重く高いハウリング音の中でユーフォニウムの音が聴こえる気がした。こんなことはあり得ない。現実じゃない。幻覚だ、夢を見ているのだ。絶対にあり得ない。


 唐突にハウリングが止まった。耳を押さえていた両手ごと震わせていたかのような音の波が消えた。ユーフォニウムの音も聞こえない。今度は静寂が彼女の両耳を支配した。俯いたまま、ゆっくりと目を開ける。暗い。


 今度こそ終わっ「どうして」


 あまりに明瞭な声で、彼女は思わず顔をあげてしまった。


 目の前に、あの、花田知世がいた。肩まで伸ばした髪。少しだけ首を傾げる癖。涙で滲んだ眼ではそれ以上見ることができない。


「ゆ……許して……」涙が溢れる。「ごめんなさい……わざとじゃない……殺すつもりなんてなかったの……」両手を合わせ、懇願する。「違う……違う……殺すつもりなんて……ごめんなさい……」額を床に擦り付け、命乞いをする。


 耳元で、となりの少女がささやいた。


 ゆ る さ な い

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