なぜ彼女はささやくのか

なぜささやくのか ただし犯人は問わない ①

 家斉響子いえなりきょうこは、三王丸中学校の国語教師である。


 今年から初めてクラスの担任を持つことになり、今日も業務に追われて残業中だ。


 新一年生たちも新生活で大変かもしれないが、それを担当する自分だってその意味では新生活だ。副担任にベテラン教諭を当てていると言っても、クラスの細々としたことは実質自分一人で回さなくてはならない。


「もう新しい生活も始まってますから、春休み気分のままではいけませんよ」自作と学校作の生活の心得プリントの配布。


「いままでとは違う道を通わなくてはいけません。このプリントに通学路を書いてください。夜に暗いところがあるようでしたら、保護者と相談して道を変えるなどしましょう」通学路申請のプリント、これまで不審者がみられた場所の一覧。


「中学生になったら、健康面も自分で管理しないといけません。これを自己管理と言います。体調の変化は他人からはわかりません。自己管理が大事です」


「アレルギーを持っている人はすでに面談を済ませていると思いますが、その時に希望されていた方に献立表とアレルギーの一覧を配ります」


「最近、近所の公園でセアカゴケグモが見つかりました。茂みなどには近づかないようにしてください」


「SNSは基本的に禁止です。事情があって利用するときは、必ず人の目に触れるということに注意して、写真などはアップロードしないように」


「遠出の際は……」


 あとは……ええと……。


 授業だけでなくそんな雑事もやっているとまったく時間が足りない。


 4月も終わり5月になると多少は日が長くなるが、それでも19時過ぎればもう真っ暗だ。このあともう少しやっておくべきことがあるので、響子が帰る時間はまだ先だろう。


 流石に暗い校舎が怖いなんて年頃ではないものの、夜道の運転は好きではない。三王丸中学校は大きな道路と住宅街に挟まれているのでこの時間でも歩行者は多いし、運転には十分以上に気を使わなければならない。どうせ明日も早いのだし、いっそ泊まれたら楽なのにと思う。


 ようやく終わりの目処が立ち、響子は一息入れるために席を立った。薄いコーヒーを淹れて喉を潤す。もう何杯目だろう。ラストスパートなので、集中力を落としたくない。もう化粧なんて気にする時間でもないし、顔でも洗って目を覚そうか。


 職員室のすぐ隣に、通用口と階段を挟んで教員用のお手洗いがある。そういえば、4時間目の終わりに女生徒たちが話題にしていた。


 夜の学校に現れる、『となりに立つ少女』。


 響子にも聞き覚えがある内容だった。彼女もこの三王丸中学校の卒業生なのだ。ただ、彼女の記憶にあるものとはだいぶ内容が変わっていた。


 怪談やオカルトなどは時代に合わせて変化していくのだな、としんみりしてしまう。


 彼女が中学生だった頃は、亡くなった女の子が寂しそうに校舎を歩いている、そんな儚げな噂があるだけだった。断じていいが、生徒を怖がらせたり驚かせるようなことはしない。そんな女の子ではなかった。


 洗面台の鏡を見る。教師というには幼さの残る容姿の女性がいた。小さな眼鏡の奥、まだ潤いを感じる瞳と、耳が隠れる程度にまとめた長い髪。自分が知っている、数少ない髪の結び方は、中学校時代の友人に教わったものだ。


 二十代の半ば、現場では3年経った今でも新人扱いされ、保護者も教育実習生が来たのではないかと疑うほど、彼女の見た目は幼い。


 ただ意外にもこの容姿は生徒たちとの距離を縮める上では役に立っている。目元がスッキリしていて涼やかなので、歳が近い頼れるお姉さんに見えるらしい。流石に「響子お姉ちゃん」は恥ずかしいのでやめるように言っているが、あまり威厳がないのかそう呼び続ける生徒もいる。担任のクラスではまだ生徒たちの聴いている曲も大体わかるし、人気の配信者ストリーマーの名前も自分が見ていたものとほぼ同じだ。年配の先生ではできないことが自分にはできる、という自信もあった。


 そうはいっても、そろそろこのハードワークの疲れが顔に出てきたようだ。シワこそないが、目の下のクマが目立つ。自己管理も大事、と呟き、思わずため息が出た。生徒たちに言っている言葉だ。なんとも言えない気分。


 ふと、かつての友人のことを思い出した。同じ吹奏楽部すいそうがくぶ、同じパートで、面倒見が良く、子供好きだったあの子。あの子も教師に……というよりは先生になりたい、と言っていた。彼女なら小学校の音楽の先生が適任だろうか。それとも保母さん?


 あの子が今の自分を見たらなんと言うだろう? 褒めてくれるだろうか。もう中学校時代の友人の顔を思い出すこともほとんどなくなり、すっかり疲れ果てている自分を、彼女はどのように思うだろう。薄情だな、なんて言われてしまうかも。


 静かな物想いにふけりながら、彼女はお手洗いの電気を切って職員室に戻ろうとした。


 ドアを引き開ける。


 背後に人の気配を感じた。まるで、すぐそばで吐息を吹きかけられたような……。


 風に乗って、かすかに名前を呼ばれたような。


 振り返った。


 ドアとは向かい合わせるように窓がある。


 その窓の向こう側に、人影があった。


 りガラスで顔は見えない。見えない……が。


 女生徒。


 見覚えがある。耳が隠れる程度に切り揃えた長めのショート。細い首、華奢きゃしゃそうな肩。少し首を右にかしげる癖。まるで、あの日から抜け出してきたかのような。


「と……ともちゃん……」


 思わず、友人の名前が口からこぼれた。


 足の力が抜けて。


 そこからしばらく、記憶がない。

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