第26話 約束

———ボフッ!!


水惟は傍にあったクッションを蒼士に思いきり投げつけた。その目は蒼士をキッと睨むように見ている。

「水惟?」


———ポフッ!

また一つ投げつけると、蒼士は上半身で受け止めた。


「おい…水惟!」

「嘘つき 嘘つき 嘘つき!!」

今度は枕を手にして投げようとしているのを、椅子から立ち上がった蒼士が腕を掴んで制止した。


「落ち着けって!水惟!」


「…だって…約束したのに…」


蒼士の言った通り、水惟は忘れていたことを思い出していた。


「5年以内に迎えに来てくれるって…。そしたら…また夫婦としてやり直そうって…」


それは離婚する時に二人がした約束だった。


「…なのに…嘘つき…」


水惟は怒っているようにも悲しそうにも見える表情で振り絞るように言った。


「水惟…」

蒼士は水惟の腕を掴んだままだ。


「ほんとは…」


「…わかってるの。悪いのは私だって…」


「蒼士はちゃんと迎えに来てくれたのに」


「ちゃんと覚えててくれたのに」


「私は…全部…約束も、思い出も…全部忘れて…」


「ひどいこと言って…」


「なのに…また好きになったなんて言って…」


「嘘つきは私」


「こんなの、嫌われて当然…」


———っふ…うぅ…

水惟は堪えるように息を詰まらせ、目から涙が溢れた。


「こんな…ダメ…なヤツ—」

泣き出した水惟を、蒼士は抱きしめた。

「水惟」

———…ぅ…っふ…

水惟は蒼士の腕の中で肩を震わせて泣き続けている。

「水惟はダメじゃないし、何も悪くないよ。」

蒼士は水惟を宥めるように背中をポン、ポン、と叩いた。

「何度も言うけど、俺は水惟を嫌いになったりしてない。」

「……っ……うそ…」

水惟は泣きながら言った。

「嘘じゃない。」

「…じゃ…ぁ……ぅ…やっぱり他 に…好きなひと…できた…?」

「できてないよ。」

「…なら…ど して…」


「どぅして…やり直せ ない…の?」


「………」

蒼士はまた迷ったように黙る。


「やっぱり…わたしと結婚なんて…しない方が良かった…って思ってた?」


「…水惟」

蒼士は水惟を抱きしめる腕を緩め、自分の方に向かせた。

「ダメなのも悪いのも、全部俺だから。」

「え…」

「もっとはっきり思い出したらきっと水惟も納得するよ。」

「どういうこと…?」


水惟が蒼士をみつめて訊ねると、蒼士は観念したように溜息をいた。


「水惟は…水惟が思ってるより辛かったはすだ。」


***


8年前


「藤村 水惟です。よろしくお願いします。」

そう言ってややぎこちない顔でニコッと笑って挨拶したのは、22歳、深端グラフィックスの新入社員時代の水惟だ。入社直後は自由な私服ではなくリクルートスーツを身に纏って出勤していた。

深端では新入社員の配属について入社前から本人の希望をアンケートのように聞いてはいるが、本人の適正や人員配置のバランスを見て最終的な配属を決定する。その適正を判断するため、新入社員は入社から3か月の間にさまざまな部署の研修を受けていく。

水惟と同期入社の6人はこの日から営業部の研修が始まり、順番に挨拶していった。

「営業部第一グループの深山です。よろしくお願いします。」

研修の教育係の蒼士が挨拶をすると、新入社員が少し騒めいた。深山という名前に反応する者もいれば、蒼士のビジュアルに反応する者もいた。蒼士にとってはもう慣れてしまったいつもの反応だった。

ふと、先ほど自己紹介をした水惟が目に入る。

彼女は他の新入社員に比べると前に出るタイプではないようで、少しボーッとしたところがあるようだ。

深端うちの新卒にはあまりいないタイプかな。)

蒼士がそんなことを考えていると、考え事をするように斜めの方角を見ていた水惟の唇が小さく何かをつぶやいた。

“ミ ヤ マ…”

(ん…?俺の名前?)

“ミ ヤ マ サ ン”

しっかりと覚えようとしているかのように繰り返した。難しい名前でもなければ、これからしばらくは毎日顔を合わせるのだから自然に覚えられる名前のはずだが、彼女はなぜか繰り返した。

(だいたいうちでは一番覚えやすい名前のはずなんだけどな…社長と同じ名字だし。)

蒼士は少し不思議だと思ったが、大して気に留めなかった。


数日後

「二人は配属の希望は決まってるの?」

車の運転をしながら蒼士が言った。この日は営業先に新入社員2名ずつが同行することになっていた。

蒼士と同行することになったのは、水惟と油井 美里あぶらい みさとで、後部座席に二人並んで座っている。油井は水惟とは対極にいるような見た目で、小慣れた派手目なメイクに髪はきれいに巻かれている。

「はいっ!ぜ〜ったいクリエイティブに行きたいです!」

油井はハキハキとした明るい声で言った。

「元気いいね。藤村さんは?」

「えっと、私もクリエイティブが希望です。」

「営業人気ないな〜」

蒼士は苦笑いで言った。

「当たり前じゃないですか〜美大から深端に入ったらクリエイティブに行きたいですよ〜!」

(物怖じしないタイプだな。深端っぽい新卒だ。)

「藤村さんもそんな感じ?」

「…私は…どの部署の研修もおもしろかったんですけど…多分、デザインでしか人並みにお役に立てないので…」

水惟らしい不器用な答えだ、と出会って数日の蒼士でさえ思った。

「水惟ってよく深端の試験に受かったよね〜」

ハッキリとした油井の物言いは失礼とも思えたが、深端で生き残っていく社員には珍しくないタイプでもある。

「うん、自分でもそう思う。でもかなり必死に頑張ったから。」

言われ慣れているようで、水惟は自嘲気味に笑って言った。

「必死ってなんで?うちでやりたいことでもあった?」

蒼士に聞かれ、バックミラーに映る水惟の表情が急に焦りを見せた。

「え!?えっと…その…はい…」

「どこかの企業広告とか?好きなデザイナーと仕事したいとか?」

「えっと…はい、そんな感じ…です」

水惟の答えはどこか歯切れの悪いものだった。

「私は〜生川さんとか氷見ひみさんと一緒にお仕事したいです!」

油井は深端グラフィックス所属の有名デザイナーの名前を得意げに挙げた。

「ふーん…」

当たり前すぎる答えに蒼士は興味がなさそうな反応をした。

「あの…」

「ん?」

「深山さんも…やりたいことがあって深端に入ったんですか…?」

予想外の質問だった。

「バカッ!水惟!」

油井がヒソヒソ声で水惟に耳打ちする。蒼士には彼女が何を教えているのかわかった。

「深山さんは深端の—」

「えっ!?」

「知らないのなんて水惟くらいよ。」

油井は呆れて言った。

「すみません!失礼な質問をしてしまって!」

水惟は青ざめた顔で謝罪の言葉を口にした。

「べつに失礼じゃないよ。」

蒼士は優しく笑って言った。

「やりたいことか—」

その時、蒼士の口から答えが出ることはなかった。

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