Day23 静かな毒
物心ついた時は既に父は大企業の社長だった。母も父を支える立場で忙しく、あまり家にいなかった。小さい頃から僕と一緒にいてくれた夜久さんが、両親の代わりによく話を聞いてくれて、全然寂しくなかったから気にした事はなかった。
でも流石にこの状態は可哀想と父が思ったらしく、小学一年生の夏休みは夜久さんと一緒に父方の祖母の家で過ごす事になった。
小高い丘の森の中にひっそりと佇む洋館。近代建築に慣れた幼い子供の目には、御伽噺の入り口に見えた。
隠し通路や秘密の小部屋はなかったけれど、たくさんの漫画とアニメとゲームと最速のネット環境と有り余るお菓子があった。まるでヘンゼルとグレーテルがたどり着いたお菓子の家みたいに。竜宮城でたらふくご馳走を食べた浦島みたいに。
おばあちゃんも優しかった。好き嫌いしても、夜更かししても、廊下を走っても、丸一日動画配信見てても怒らない。「おやつ抜き!」なんて言わないし、むしろ「食べたいのは、体が欲しがってる証拠」と言っていくらでもお菓子でもフルーツでも食べさせてくれた。
夏休みの間、何日かだけ来た従姉妹は怒られていたから、きっとおばあちゃんは僕の方が好きなんだろう。ジトッとした従姉妹の目にドヤ顔してやりたくなった。
両親とのテレビ電話の時は、どれだけおばあちゃんが優しいか、お菓子が美味しいか止めどなく話した。おばあちゃんの家、最高だね!って。
夜久さんには「好き嫌いばかりすると大きくなれません」「早く寝ないと身長が伸びないですよ」「家の中はアスレチックではありません」「早めに宿題をしないと後が大変ですよ」と何度も言われたけど耳を後ろにして聞かない事にした。だっておばあちゃんが怒らないんだもの。別に良いよね?
ついに夜久さんの声は段々虫の鳴き声並に聞こえなくなってきて、夏休みの宿題の存在もすっかり忘れてしまった。
気がついたら夏休みは残り一週間しか残っていなかった。
「ナナト様、今日こそは宿題をしましょう。遊んでばかりで何もしていませんでした、なんて先生やご学友に言えますか?」
「……言えない」
「やるべき事をきちんとできない人は格好悪いんですよ」
「はい」
「ナナト様はマルカブグループの未来を背負う大事なお方なんですからね」
夜久さんの言う事は間違いないかもしれないけど、そんなに会社が大事なのかな?僕より会社の方が大事なのかな?
はい、はい、と答えながらも、口を尖らせて一応頷くだけ。どうせ社員さんだし、本当に僕のことは大事じゃないんだ、なんて思いながら聞いていた。
そんな態度を見かねたのかおばあちゃんが間に入ってくれた。
「まぁ、夜久。そんな厳しい事を小さなナナトに言うのですか?」
「ナナトちゃん可哀想に」と言いながらおばあちゃんは僕の頭を撫でて、ぎゅっと抱きしめてくれる。きっとこれで夜久さんも黙るだろう。
「大奥様。差し出がましい事ですが、ナナト様にはきちんと責任感のある方に育って頂く為にも、ご自分で宿題をしていただかねばならないのです」
「あなたの口調ではナナトが怯えてしまいます。物分かりが良い子なのですから、見守る事も大事でしょう」
「ねぇそうでしょう?」と僕の背中をさするおばあちゃんの肩越しに、夜久さんの握り拳の血管が浮き出ているのが見えた僕はハッとした。
「うん、おばあちゃん、ありがとう。僕、ちゃんと宿題やるよ」
おばあちゃんをギュッと抱きしめ返してから、そそくさと僕は宿題の山に取り組みはじめた。
夜久さんはお小言が多くても、怒らない人のはずなのに。あの瞬間だけは本気で怒っていた。それが怖くて宿題の山に向き合う事にした。
最終日。
夜久さんのサポートのおかげでドリルもポスターも標語も自由研究も日記も全部終わりにできた。やっつけ仕事だけど、できてないよりはずっと良い。
「ナナト様、よく頑張りましたね」
そう言ってふわりと微笑んだ夜久さんの顔は、ほっとしたような、喜ぶような、暖かい表情で。つられて僕も笑ってしまった。
なんとか終わらせた宿題たちを抱えて登校した九月一日。帰宅すると、いつもならいないはずの父がいた。
夏休みはどうだったか、宿題は上手くできたか、楽しかったか、この夏にできるようになった事は何かあったか──とにかく色々聞かれた。もちろん、凄く楽しかった。絵本の中に入れたような、夢みたいな、そんな経験だ。何が楽しかったか、どの漫画が面白かったか、ゲームの攻略が難しかったかと延々と話していく。その中で宿題の件に差し掛かった時、しどろもどろに誤魔化そうとしたら父の目が鋭くなった。
瞬間身構えたが、父は詰めた息をゆっくりと吐き出しただけだった。
「ナナト」
父さんの、思ったより穏やかな声に顔をあげる。絡んだ視線は柔らかかった。
「やるべき事をきちんとこなせ。マルカブの、中村の家の男なら」
父さんの真っ直ぐな視線に貫かれ、束の間、呼吸が止まる。夜久さんと似たような事を言うなぁとぼんやり思ったけれど、そうじゃない。父さんが言おうとしている事はもう少し深い意味がありそうな気がした。
夕方のオレンジの光が眩しかった。
あれから、父方の祖母の家に泊まる計画は無くなった。様子がおかしいと勘付いた僕も行きたいとは言わなかった。計画的に宿題をする事を学んだ僕は、長期休み最終日に大慌てする事もなくなった。
あの時はさっぱりわからなかったけれど、小学四年生になる頃にはあの夏の真相がうっすらわかるようになっていた。
祖母は父よりも叔父にマルカブグループの経営を任せたかった事。
祖母は父の子の僕よりも、叔父の子の従姉妹の方が好きだった事。
小学一年生の夏休みに甘やかされたのは、なんとかして僕に継がせない理由を作りたかった故。そして、祖母が僕を手懐けて思い通りに操ろうと考えていた故。
だから、あの時ひたすらお小言を言い続け、祖母に意見した夜久さんは僕を守る為に必死だったんだと思う。確かに僕は夜久さんの守りたい人だったんだ。
父が「中村の家の男なら」と言ったのも。
祖母の静かな毒に蝕まれた僕を、父さんと夜久さんは全力で引き戻してくれた。助けてもらった人生、皆んなに恥じない僕でありたい。
例え、ペースが一人だけ遅くても。マルカブグループ、それから中村の家に恥じない僕であらなければ。
(夜久さんは「Day22 賑わい」の夜久さんとは別人です)
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