第45話


「キイ」


 つい言葉が出たが、特に意味も感情も乗っていない。青いものを見て青と口にするように、殆ど反射のような反応だった。


「何でこんな所に」


 シーが呟く。今し方の俺の言葉とは異なる、明らかな困惑が乗っていた。


 シーは数歩前進しながら懐中電灯をキイの足元に向け、子供をあやすような声で呼びかける。


「キイ?」


 キイは顔を上げない。指すら動かさない。でも確かにキイだ。


 シーはその様に息を呑むも、諦めず呼びかける。


「どうしたの? 帰ろう?」


 シーはキイを連れ出そうとしてか、大股で歩き出した。俺は慌てて腕を掴み引き止める。


「待て。近付くな」


 シーは焦りと怒りを滲ませ俺を見上げた。


「何で」


「おかしいだろ。本当にキイか分からねえ」


「どう見てもキイでしょ」


「違うよく考えろ。この旅館の入り口は、俺が開けるまでまるで誰も触ってないようなつた塗れだったろ。俺達が館内を歩いて来た間も、他に侵入出来そうな場所は見つからなかったんだよな? ならあいつは、どこから入ってあそこに座ってるんだ。キイのバイト先もここから電車で移動するような遠い場所だぞ? さっきの電話からまだ行方不明になってそんなに経ってないだろうに、何でここに来られるんだよ」


「そんなの後で本人にけばいい。キイをここに置いて行く理由にならない」


 振り払おうとするシーを掴む腕で抑え込む。


「待てって! あっちは建物も傾いてる! 倒壊したら川に落っこちるぞ!」


「だったら尚更早く連れて帰らないと!」


「てんごく」


 またどこかから、あの得体の知れない声がする。


 つい黙り込んだ俺とシーは、出所を探そうと辺りを見た。


 いや、今度はどこから発せられた声なのか、はっきりと分かっていた。


 俺とシーは、キイを見て硬直する。


 矢張やはり指一本も動いていないキイは、俯いたまま言った。


「う? しんじがたい」


 やっぱりキイだ。声質が全く異なっているから別人だと感じてしまうが、確かにキイが喋っている。機械音声のような不自然な抑揚で、要領を得ない言葉を繰り返している。


「いつもそう。なにもきかない」


 シーが見ていられないと言わんばかりに悲痛な顔で身を乗り出した。


「キイ。帰ろう。皆待ってる」


 剥がれかけの天井の奥から垂れる電線の一部が、誰かに触れられたように揺れたような気がした。


 懐中電灯を向ける。キイが座る椅子と逆方向、ゴミとガラクタの洞窟の前のスペースの、左脇にある一本だった。電線は、殆どが剥がれた天井の隙間から垂れつつも、まだ傷んでいない部分の天井裏へ収まって消えている。だがその一本は千切ちぎれてしまっていて、真っ直ぐ床へ伸びていた。それが、頭を床に向けて痛みに身をよじる芋虫のように、歪に左右に揺れている。……何故今気付いたのだろう。先端が輪っか状に結ばれている。


 最初に洞窟辺りへ懐中電灯を向けた時、あんな形で垂れている電線はあっただろうか。あったら洞窟と同じぐらい目に付いてる筈だろ。引き戸は開けて来たし窓も割れているし、館内の風通しは悪くない。だがあの電線の揺れ方は風に靡いているとは言い難いし、徐々に振れ幅も大きくなって来た。まるで人間がぶら下がっているように、ゆったり、ゆったり揺れると、その間隔を保って止まらなくなる。天井の軋みなのか電線自体が傷んでいるのか、揺れるたびにニイィ、ニィイと、引き攣れるような音も上がった。


 シーの説明が脳裏をぎる。この旅館の持ち主は、経営難によりこの館内で首吊り自殺をしたらしい。


 あの電線の先でぶら下がってるってのか? その持ち主の幽霊が。まさか。でもあの揺れ方は、風じゃあ説明出来ない。シーも揺れる電線に気付いていて、見上げたまま動けなくなっている。


 四方から微かに、家鳴りのような音がしてきた。ミシリ、パキパキ、バキンと徐々に種類が増え、断続的なノイズの群れとなって空気中を這い回る。


 正体を探ろうと闇を見渡した。


 いややめろ。妙に意味を見出そうとするな。廃墟なんだから傷んで音が出るなんて当たり前だろ。この旅館だって傾いてるし、中じゃ洞窟みたいになりながら潰れかかってる。


本当にそうか? 今日一度でも、自分の考えが何かの支えになった事があったか?

 いるんだよ、今俺達の目の前に。見えないだけで幽霊が。


 もう心臓は、全力疾走中のように暴れ回っている。最高点に達した緊張により滲む生唾を、下顎の底に貼り付く舌を剥がして飲み込んだ。


「……ここが原因だってのかよ。井ノ元達が飛び降りた元凶は、この旅館の幽霊……?」



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