第22話


 たとえば夕暮れ時、町を歩いていて、遠くを行き交う人々を見かけた時。彼らの輪郭は闇に溶け込み出していて、もう服装も髪型も捉えられない。そういう曖昧さを、柱からこちらを覗く人影は纏っていた。


 心臓は全力疾走中のように激しく鳴り続けていて、もう苦しい。緊張の余り蒸し暑さも感じない。浅くなった自分の呼吸がやけにはっきり聞こえる。全ての蝉が突然死したように黙り込んでいた。


 黒い男の、大人の人。彼女がそう現したのが分かる。夕闇に溶け込んだようなあの様はまさに黒だし、背格好は成人男性を思わせた。服装もこちらに突き出していている顔の形も、全く判別が付かない。影が立体になって浮き上がっているようだ。


 俺がさっき見た誰かはこいつだったのか? いや、誰もいなかったじゃないか。いや違う。そもそも誰も来ていない。俺の勘違いだったんだ。誰も階段を上って来ちゃいない。今だって無音だ。ならあいつは何なんだ。いつどこから現れた。何の前触れも無く。


「だからいるじゃない! そこ!」


 彼女は叫んだ。指を真っ直ぐに影へ向ける。


 他の後輩達は不安そうに視線を交わし合うだけで、彼女へどう言葉を返していいのか分からなくなっていた。俺もどう言えばいいのか分からず狼狽える。


「あ、ああいや……」


 シーが素早く返した。


「そんな人いない」


「いるわよ! さっきからずっと、こっちを見てる!」


 彼女は敬語も忘れ煩わしそうに、然し、黒い男の、大人の人から視線を外す事は絶対に避けるように、凄まじい勢いで僅かに横顔をこちらへ向ける。本当はきちんと振り向いて俺達を問い質したくて仕方無いのが、振り回される髪でありありと分かった。


 然しシーはあくまで即答する。


「私にはそんな人見えないしいない。他の皆だってそうだから、あなたに同意出来ないんじゃないの。本当にいきなりそんな人が現れてるんなら、私だってパニックになって逃げ出してる。階段からは誰の足音もしてなかったんだから」


 その言葉も表情も冷静だった。然し緊張は滲んでいて、気丈な振りをしてキイを励ましていた時と同じように、動揺を抑え込んでいるのが分かる。そうだから、本心は分からないのだ。シーには見えているのか、見えていないのか。先程上げた悲鳴の根源は、どっちなんだ。それでも確かに、この場にいる誰よりも理性的だった。


 シーは肩から俺の腕を解きながら言う。


「四本目の柱の陰に本当に誰かがいるのなら、そこを触る事は不可能だし、伸ばした手はその誰かに接触して阻まれる。どちらも起きなければ、黒い男の、大人の人っていうのは、そこにはいない」


 踏み出したシーの右足の靴音が、蝉声せんせいの消えた廊下に鳴り渡った。余りしっかりと体重の乗っていない、頼り無い音に聞こえたのは気の所為だろうか。シーとは本当に華奢で、見ていると季節感が狂う程の色白もあって、夕暮れ頃に遠目で見かけると、幽霊と勘違いされても何ら不思議じゃない見た目をしてる。どれ程力んで踏み込んだとしても、大きな音はしないのが当然だろうか。いちいち人の足音なんて意識して聞いた事が無くて自信が無い。今あいつは見えていて怯えてるのか? ただこの異様な空間に緊張して上手く力が入っていないだけなのか? それとも今朝踊り場で驚かされたように、いつも通りに歩いているだけなのか?


 四番目の柱を見た。黒い影は依然こちらを見ている。現れてから動いた様子はまだ見えない。こちらへ顔を突き出したまま、ふくろうのように固まっている。


 近付いていいのか。何であいつはあんな所に突っ立ってる。俺達に用があるから来たんじゃないのか? どうして声を荒げた後輩ちゃんにすら何の反応も示さない。誰かに気付いて欲しいのが幽霊ってもんだろ。


 誰しもシーを見る事しか出来ない。だって引き留めるにしてもどうする。シーは黒い男の、大人の人なんて見えないしいないと言ったんだ。つまりあれは、俺と後輩ちゃんにしか見えていないと。現に他の後輩達は異論を示さなかったし、どうしたらいいか分からなくて戸惑ってる。どうすべきなのかという答えを、シーが今示そうとしてる。


 そう。黒い男の、大人の人とは、いないのが現実なんだ。あれは俺と、後輩ちゃんだけが陥ってる勘違いなんだ。もしシーにだって奴が見えてるんなら、近付いて触りに行こうなんて言う訳無い。あんなに冷静になれるんだ。一人で近付くなんて言わずに、皆でここから離れようって促す筈だろ。こんな時にまで、何でも自分で確かめないと気が済まない性分が出たか? まさか。危険を軽視してまで好奇心に従うような奴じゃない。ならどうして近付こうとしてる。安全を確保する事を放棄してまで、ありもしない脅威に触れようとする意味とは何だ。


 迷い無い足取りで進むシーの背に、嫌な既視感を覚える。


 まさか、キイの時と同じ事をしようとしてる? 自分の不安を押し殺して、今度は後輩ちゃんを安心させようと?



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る