第21話


 その言葉は矛盾している。指摘するまでもない程明快に。今廊下には俺達以外誰もいない。そう分かっているのにでも同時に、確かに誰かがいたと確信している俺もいる。目の端に映った誰かが、つい先程までいたのだ。


 同意すればこの異様な緊張感は消えるのだろうか。否定すれば平穏が戻って来るのだろうか。どちらも違う気がする。もう既に拭えない違和感は俺達部員の脳内まで染み込んでいて、何らかの決着をしなければここから抜け出せないと分かっていた。然し決着とは何だ。変な人などいないんだ。だが彼女の態度は嘘をついているとはとても思えないし、部室を心霊スポット扱いされる事を嫌うシーの前でそんな冗談を言う訳も無い。


 現状が生まれた筋道が見当たらない。筋など不要だと言うように、ただ異様な今が前触れも無く現れ俺達を翻弄している。


 重苦しさを増していく沈黙に、更なる違和感を覚えた。こんな理解不能な事象に出くわした時にこそ、多弁になるシーが喋っていない。変な人とはどんな姿だ。性別は? 背格好は? 私には見えないけれどどの辺りにいる? と、何が起きているのか理解しようと質問攻めにする筈である。誰よりも冷静に。


 どうして黙っているんだ。視線をシーへ向けようと顔を動かす。


「黒い男の、大人の人。廊下の柱の陰からこっちを見てる」


 まだ後ろを向いたままの彼女が、幾分感情を取り戻した声で言った。まな板に置いた生肉からじわりと滲む、血のような恐怖を。


 蝉声せんせいが一層激しくなる。いつもならそれだけで、蒸し暑さが増した気になってうんざりするのにそれ所じゃない。彼女の言葉に聞き覚えがあったんだ。


 軽音の部室には幽霊が出る。この高校の生徒なら皆知ってる。その噂話には幾つかのパターンがあるが軽音部員ならどれも聞き飽きてるし、結局はいつも同じ内容に行き着く事も知っている。「人影が部室やその辺りをうろついているのを誰かが見たらしい。その正体を見た人は誰もいないが、その影は黒かったそうだ。その人影は夕方頃に現れるが、何をしているのか、何の為に現れたのかは、誰も知らない」


 それはモトへのプレゼントを買う直前に、三人で軽音部の幽霊の情報を求めて部員や知り合いに送ったメッセへの返信にもあったし、何ならほぼこの内容だった。少しでも異なる内容が送られて来ればそれだけで目を引いたものである。その黒い人影は、時には昼間にも現れると。


「皆見えないの?」


 彼女が言った。滲む程度だった恐怖が輪郭を露わにし始め、彼女の理性を削り取って行く。彼女は、こちらへ向き直るのを堪えるように身じろぎながら声を震わせた。


「柱の陰から首を伸ばして、こっちを見てるじゃない」


 逼迫ひっぱく感と、俺達を問い詰めたいような棘があった。


「部室側の壁の柱。部室の扉から数えて四本目」


 だからそんな奴はいない。そんな事口にしなくても皆分かっていて、でも落ち着きを失って行く彼女の異様さだけが濃くなっていくのにも耐えられなくて、言われた通りにそこへ目をやる。


 有り得ないのだ。確かにここの壁は防音の為厚い。柱だって同じだ。人が隠れようと思えば出来ない事は無い。それが幼稚園児なら。小学校に上がった頃には成長して体の厚みが増しているから、どれ程華奢な奴でも絶対にはみ出る。その上伸ばした首だけをこちらに向けるなんて不可能だ。そもそも俺達以外の人間はここに来ていないし、階段を上って来る誰かの足音も依然無い。でも俺は彼女より先に、誰かを目の端に捉えてた。


 皆が四番目の柱を見た。


 誰かの、抑え損ねた悲鳴が短く漏れる。


 シーからだった。


 耳を疑う。心霊写真を見ても、村山を見ても、決して動揺を表に出さなかったシーが叫んだ。


 とうとう疲れ切っちまって、お前も妙なものを見たってか? 馬鹿馬鹿しい。幽霊なんているもんか。オカルト番組で取り上げられる映像だって、まだ技術が拙い昔のものの使い回しばかりじゃないか。


 シーは元々目が覚めるぐらい白い肌を真っ青にして、瞬きもせず前方を凝視し固まっている。呼吸も忘れ、顔は強張り、肩を組まれている俺の視線すら気付いていない。


 どこを見ているのかは、問うまでも無いのだろうか。


 既に激しい胸の鼓動が、更に強くなる。


 視線をゆっくりとシーから外す。そのまま後輩達の間を潜り、部室のドアから数えて、四番目の柱へ移動させた。黒い男の、大人の人なんていない。考えるまでもなく分かってる。きっと俺が見た誰かも勘違いだ。


 人の心っていう目に見えないものを信じるって、神や幽霊を信じる事とどう違うの。


 シーの口癖が頭に浮かぶ。


 俺自身がさっき見た誰かは勘違いという考えを信じるという事は、神や幽霊を信じる事と同列であるって言うのか。根拠の無い事を、検証していないものを信じるとは、お前がただ自分にとって都合のいい事を信じたいだけに過ぎないんじゃないのかって。


 馬鹿言うなよ。誰も階段を上がっちゃいない。お前だって分かってるから、そんな顔をしてるんじゃないのか。いや、この考えも間違いだ。きっとシーは、後輩ちゃんの言動が理解出来なくて絶句してるだけだ。柱の陰には誰もいないって、皆分かってるんだから。


 四番目の柱の陰から、首を伸ばした黒い人影のような何かが、こちらに顔を向けている。




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