神蛇

 海勇魚船わたないさなふねの船尾を抱くようにして根を張る航津海わたつみの統木すばるき大神おおみかみの御神木。その入り組んだ根本にはぽっかりと洞窟のように樹洞が開いており、その深部には根で汲み上げた海水を神体で濾過した真水を湛える泉がある。

 今日の泉は今にも溢れそうなくらいに縁から表面張力で盛り上がっており、船民の男が桶を投げ込んでは水を汲み取ってそのまま甲板まで走っていき水をぶち撒ける。

 甲板には大勢の船民がその水を使って長柄の刷子で甲板を擦り船外まで掻き出して、波で浴びた潮を掃除している。

 また船の側面には命綱を体に結んだ男がぶら下がっていて、宙づりになりながら掃除をしている。

 巨大な海勇魚船はこのように洗浄するのも命懸けの大労働であるが、大量に浴びた潮を放置しては腐食を引き起こすかもしれない。加えて海勇魚船はこの先、寄港する当てがないので整備も海洋の真ん中でその都度行うしかない。

 統木の花嫁はそんな人の頑張りを見守りつつ、御神木の泉に訪れた。

 泉から水を運ぶ船民が花嫁に頭を下げて脇を走り抜けていき、次の船民が後ろから花嫁を抜き去っていく。

 花嫁は働く人々の邪魔にならないように注意して泉の縁を辿って奥まで進む。

清淡きよあわの神蛇かむちのみこと

 花嫁が呼び掛けると直ぐに、根の合わさった隙間の闇からずるりと大蛇が姿を現した。その大きさは人を二、三人は纏めて丸呑みに出来そうなくらいだ。

 その神蛇は虚ろな瞳孔に花嫁の姿を映す。

「海勇魚船を浄めよ」

 花嫁に命じられた神蛇は黙って元いた暗闇に引き返そうと首を巡らせる。

 しかし御神木の根が音を立てて膨らんで神蛇が逃げ入ろうとした隙間を潰してしまった。

「話だにせよ」

 花嫁は御伴神みとものかみの一柱の態度に嘆息する。全く頼み甲斐がない相手である。

「人の手に足るものは人の手で行うべきと心得こころう

 神蛇は気怠そうにも聞こえる低い声でやっと返事をした。ずるずると隙間の中に残していた体の後半を引き摺り出して、入れ代わりですぐに滑り込めるように頭を近付けている。

 しかし花嫁は神蛇が胴体を引き出すにつれて覗く空間を次第に狭めて、神蛇の尾が出た瞬間に隙間をぴっちりと閉じて逃がさないようにしている。

 神蛇が花嫁に訴えるように虚ろな眼差しを投げ掛けるが、花嫁は目を吊り上げて睨み返して神蛇を威圧する。

「我が主よ、人を甘やかしてはならず」

はちと力を惜しむに過ぐる」

 二柱の神は眼差しを交差させてどちらも微塵も退くつもりがない。

 神蛇は引き抜いた体の分だけその先の頭を前へ前へと押し出して、それから幹の壁にぶつからないように緩く蜷局とぐろを巻いて花嫁をその中に納める。

「主よ、我はこの海勇魚船に寄るけがれをはらい、人の病を喰らい、水を守りたる。さらには我が子に鼠を捕らむ。我が神威は既に不足せり」

 神蛇は普通の役目だけでも多くの務めを担っていて、そこに加えて更なる務めを果たす余裕はないと弁明する。実際、巨大な海勇魚船を浄化するというのは、神であっても気軽に出来るものではない。

 そのくらいは花嫁も分かっているが、分かった上で言っている。

 その厄介さを良く知るからこそ、神蛇は話を聞かずに逃げたかったのだ。

 そんな二柱の様子を水汲みにきた船民は遠目に眺めては、触らぬ神にたたりなしとばかりに逃げるように出ていく。

「清淡神蛇命、透く水のつかさ、健やかな生をもたらす者よ」

「我が主、未だ建ちぬ国の主神、古き神霊の新しき御霊みたまよ、止められよ、止められよ。伏して願い奉る」

 花嫁が権限を用いて神蛇に命じようとしたのを、神蛇は頭を地面に擦り付けて止めてもらうようにこいねがう。

 主神に神名を告げられた命令は意志に関係なく実行されるものだ。そこに力加減なんて出来るものではなく、自身が消え去るとしても力を尽くさねばならない。

「水の浄めを強めむ」

「よし」

 遂には、或いは当然にして神蛇が白旗を上げて、どぼんと音と飛沫を上げて泉に身を投じた。その時に波立って溢れた水をちょうど桶を持って来た船民が浴びでずぶ濡れになる。

 そして泉の水は深くから光をうたぐませて神威に満ちている事を目に見せる。

 これで水は洗浄の効果を高められた。船民の苦労もかなり減らされるだろう。

 花嫁は神蛇が力を尽くしてくれるのを見て満足そうに頷いていた。

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