恋代

 夕方、外はまだ海の果てに沈んで行く太陽の姿が海の境で半分に見切れながらも空に紅い光を広げている時刻に、甲板の下になる船内はもう暗闇がうずくまっている。

 海勇魚船わたないさなふねではこの時刻が夕餉と決まっている。この船の竈は大きなものが一ヶ所で、千人分の食事が纏めてこしらえられるので、この時間を逃すと冷めた食事を摂るはめになる。

 統木すばるきの花嫁の部屋には二人分の膳が運ばれてきて、妻問つまどいをしてきた航君わたぎみと隣り合って座っていた。

 今日の献立は立派で鮮やかな色の焼き魚が丸々一尾に、もやしと菜の和え物、卵酒、瓜の香物、アラ汁、米は魚の身と炊き込まれて嵩を増やされている。それに神樹の水菓子が切り身で添えられている。

 花嫁の分は小さな皿に供えられているばかりだ。御神体である巨木が光を浴びて自ら栄養を作れる花嫁は、食事を大して必要とはしていない。

 花嫁と花夫は膳を運んだ侍女が下がり襖を閉める音をきっかけにして、手を合わせて箸を取った。

「漁の方は思った以上に獲れているそうだ。なんでも海の中に伸びた根に魚が住み着いて、舟を出さなくてもいいくらいらしい。魚にはしばらく困らなさそうだ」

いおは身を隠す陰をくらむ」

「そうだな。船も速度も置いていく程ではなく、魚を狙う大きな魚も船を恐れて近寄ってこないのだろうな」

 航君は花嫁と語る合間に焼き魚の身を解して口に運ぶ。

 花嫁の方はもやしを一本摘まんでまじまじと見詰めた。

「農はなかなかに生憎なる」

「やはりそうか」

 花嫁が昼間の話を伝えると海皇は眉根に皺を寄せる。

 地面から離れての農作が難しい事は勿論出航前から誰しもが分かっていた。しかし人が健やかに生き続けるためにはなんとしても穀物や野菜を食膳に上げなくてはならない。

 その困難を承知の上で、何度も船を降りても構わないと出航の直前から半年間に渡って航君が直々に伝えても尚、船に残ってくれたのが今の農民達である。船に乗ってくれているだけでも感謝の念は尽きない。

 だから理があると言っても一方的に言い付けて従わせるのを航君はいとう。

「他に仕事があればよかろうが……思い付かぬ」

 ここで当意即妙と策を閃く事が出来れば神君とも褒め称えられようが、航君の頭はそう都合良く働いてはくれなかった。

「君と共に皆があらむ」

 仕方のない事に気落ちする気配を見せた花君はなぎみに花嫁は声を掛ける。

 朝議とは皆で知識を突き合わせて良き案を出すためにあり、航君が一人で思い悩み行き詰る事がないように開かれるものだ。

 また朝議には参じない民であっても、この海勇魚船が新たな国を築くのに力を尽くすと応えた者だけが揃っている。

 一人で気負う必要がないと花嫁に諭された花夫は、僅かに表情を和らげてアラ汁の椀に口を付ける。

「話は変わるが、昼の熱い中でも船底近くの部屋は涼しいと船民が仕事の合間に好んで休むそうだ」

「日の遠くへだつるに合わせ海にくに、常清とこきよかろう」

 海勇魚船も船体の半分程は海に沈んでいて日射しの熱も届きようがない。それに海の水は一定よりは上がらないので夏の間はよく涼めるのも道理だ。

 逆に冬になってもやはり海の水は一定よりは下がらないので、雪が降るような日はやはり船底近くが反って暖かく感じる事もあるだろう。

「鼠がよう出るも、蛇が動かず、悩ましき」

「蔵の米もまた食われていたな。確かに困りものだ」

 他の生き物と違って鼠は陸で忍び込んできた者だ。統木の支配にもくみしないので、花嫁が行動を従わせる事も出来なくて悪さばかりする。

 鼠対策に海勇魚船では蛇を飼っているが、気温の低い船倉では動きが鈍ってあまり狩りをしてくれない。鼠がそのような暗く湿ったところに潜んでいるのもあって、駆除が間に合っていないのが現状だ。

 ちなみに、猫ではなく蛇が選ばれたのは与える食事の量の差にある。人でも食べ物に困る中で猫に餌を回す余裕があるか分からなかったのだ。その点、蛇は御神木に付いて来た虫でも腹を満たしてくれる。

 結果として魚の取れ高が好調なので、猫も飼えたかもしれないと花嫁も花夫も残念がるが、言っても詮無い事だ。

清淡きよあわの神蛇かむちにも言い聞かせむ」

「いや、かの神もうに尽力してくださっているのだろう?」

 花嫁は憮然として自分の御伴神みとものかみを叱りつけるような雰囲気を醸し出すので、花夫は間髪入れずに宥める。

 そもそも淡水の神であるのに潮水の中に連れて来られただけでなく、船の厄除けとして神通力を使って病を祓ってくれている蛇の神に、さらに働けと叱責するような厚顔無恥さを人の王は持っていない。

 そうでなくとも、供物が満足に与えれていないのに祟り神となって暴れ出さないような優しく理知的な神であるのに、頼まれ事を増やせば無理をしてでも応えてしまいそうだ。

「神は死なず」

「そういう問題ではなく、敬意の話をしております」

 花夫が言い聞かせるように丁寧な言葉遣いをしてくるので、花嫁はむぅと唇を尖らせて引き下がった。

 この船の民は皆、花嫁の大切な氏子であるのでなんでもしてやりたいのに、自立心の高い人々はこうして神の手出しを抑えてくる。

 それは命の誇りとして正しいのではあるけども、花嫁は自分の中にある人々をもっと構いたい欲を抑えなくてはならなくて、不満が溜まってしまうのだった。

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