第8話 人間の理不尽さ

 もちろん、人間の理不尽さというものは、学校の先生や医者だけに限った者ではない。サラリーマンだって悲哀がないわけではない。むじろ上司との関係、取引先との関係は、相手に絶対的な優位性があるという意味で、先生や医者と同等なのかも知れない。

 年を取ってくると分かってくることであるが、

「毎日、少しずつでも成長するのが人間だ」

 などということを子供の頃にいわれた。

 それが親からだったのか、先生からだったのか忘れたが、それを当たり前のことのように松本先生は考えていた。

 だが、成長っていったい何なのだろう?

 本を読んで勉強し、それを身に着けることなのか? それとも、自分で毎日新しいことを感じることなのか?

 だとすれば、一年間で三百六十五個、何かを感じなければいけない。

 しかも一つ一つが少しでも違っていなければいけないのだから、普通に考えても難しいことだ。

 それよりも、毎日少しずつ増やしていくことに目標を置くと、まったく感覚が違うことに気が付く。

 例えば日記をつけたり、絵を描いたり、何かを作ったりなどである。それが同じことでもいいのだ。むしろ同じことの方が継続という意味ではいいことなのだろう。

 人によれば、

「そんなものは自己満足にしかすぎない」

 と言っている人もいるだろう。

 しかし、自己満足の何が悪いというのか、自己満足もできない人間が、人に満足を与えられたりできるはずもない。

 社会での自分の立場は、

「働く」

 ということである。

 働くという言葉の起源として言われているのは、

「傍が楽をする」

 つまり、

「はたらく」

 ということである。

 まわりが楽をできるように、自分が起こす行動だというが、これはただの美学でしかない。本当は、金銭という見返りがあり、その金銭で自分が生活をしていくためのものである。つまりそこに自分を誰かが楽させてくれるという発想などどこにもないのに、

「何が、傍を楽にするだ」

 と言いたくなるのも無理もないことだろう。

 しょせん、何かをするには、大義名分がいる。だから生きるための大義名分として、

「一日一日何かを得る」

 というのは、大切なことかも知れないが、果たして本当に毎日少しでも違ったことを得られるという人がどれだけいるだろう。

 先生の思いとしては、

「そんなのは、限りなくゼロに近いさ」

 という思いであった。

 絶対にゼロだとは言わない。ひょっとすると気付いていないだけで、毎日少しずつ成長している人は結構いるかも知れない。だが、それを強要するのは、無理があるというものだ。

 だから、松本先生はそんな教科書にでも乗っているようなセリフを感嘆に口にする人間を信用していない。むしろウソっぽいことを笑いながら言える人の方に信憑性を感じ、その人が何を考えているのかを探る方が、よほど人生について考えていることのように思えるのだ。

 教科書のようなことを簡単に口にできるやつというのは、年寄りであろう。

 自分がそうしてきたから、人にも教えることで、自己満足を得ようとしているのかも知れないし、自分が生きてきたあかしをその人に証明してもらおうという気持ちもあるのかも知れない。

 だが、そんな気持ちだけを持っていても、先に進めるわけもない。松本先生は、

「口でなら何とでもいえる」

 と思っていたのだ。

 その思いがあることから、動物小屋を作っている時もあまりまわりにそのことを言わなかった。

 だが、一人だけには相談していた。それが喫茶「ダンケルク」のマスターだった。

 マスターも、どこか先生と似たところがあった。無口であまり人に話しかけるところのないマスターだったが、なぜか先生とは気が合った。

 常連の中で、店が終わっても、片づけをしながら、よく店で酒を酌み交わしたものであり、

「喫茶店があっという間にバーになっちまうな」

 と、どちらからともなくいうことで、笑いを誘っていた。

「そうか、あのペットたちを収容しようと思っているんだな?」

 と、マスターもペットの将来について憂いていた一人であった。

 この問題はペットだけではなく、人間側もロクなことにはならないと思っていただけに、先生の発想には感服していた。

「君も賛成してくれるんだね?」

「ああ、もちろんさ。大いにやってくれたまえ」

 と、マスターが背中を押してくれていた。

 しかし、これがこの痕、比較的近い将来に、先生を追い詰めることになろうなどと、マスターは考えていなかったに違いない。

 ペットたちが続々と増えてくる間はよかった。そのうちに、

「俺がノアなんだ」

 と感じるようになり、救済という気持ちが次第に高まってくると、ペットの数に小屋が追い付いてこないという分かり切っていたことに、直面することになった。

「少しでもいいからと、最初から感じていたことではないか」

 と思っていたはずなのに、今の自分がそれだけでは我慢できなくなっていることに、最初は気付かなかった。

 しかも、それが自分のおこがましい理想が根底にあるなど、想像もしていなかった。

「これが世の中なんだな」

 と感じたが、すぐに分かったわけではない。

「すべてを助けられなければ、今の俺の行為は一体何なんだ?」

 という思いを感じていた。

「そうだ、皆がやらないのは、すべてを助けられないから誰も何もしないんだと思って、そんな世間を憂いていたはずだ。それなのに今の自分はどうなのだろう?」

 と考えるようになった。

 世の中というものに、いかなる理不尽さを感じるか、今だけのことではなく。将来的にもたくさん出てくるはずだ。

「もうこんな年になった」

 という思いは結構ある。

 すでに五十歳を過ぎて、六十近くなってきて、やっと気づいたことである。

「先が見えてくると、今まで見えなかったものが見えていると思っているはずなのに、昔を振り返ることも結構ある。どちらへの思いの方が強いんだろう?」

 と考えるのだ。

「すべてのペットを助けたいが、絶対にそんなことは無理だということを分かっていたはずなのに、いまさら思い知らされるなど、本末転倒な気がする」

 という思いが、松本を苦しめ、ジレンマに陥らせてしまう。

 もちろん、松本先生自身、このジレンマを感じていることだろう。しかし、

「もうこの年になってくると、先が見えている」

 という思いが、次第に何かの言い訳にしか使っていないことに気付く。

 それが本当のジレンマの発症ではないかと考えるのだが、果たしてそれだけのことなのだろうか?

 途中まではできている。確かに橋を渡り始めているのだ。だが、先が見えているのに、先に進むのは怖い。かといって戻るのも恐ろしい。断崖絶壁にかかっている縄梯子の途中で、立ち止まった気分だ。

 本当は立ち止まらず、後ろも振り返ることなく、前だけを見てゴールするべきだったのだ。余計なことを考えてしまって、その影響で下を見てしまった。恐ろしさから後ろを振り向く。かなり来てしまったことに気づくと、まったく動けなくなってしまった。

「ジレンマ」

 という言葉に挟まれて、生きているということすら分からない状態になるほど、精神的に病んでしまっているのかも知れない。

「俺は一体。どうすればいいんだ?」

 橋の上にいる松本先生を、自分で想像するのがどれだけ恐ろしいか、身に染みて感じていた。

 松本先生は、世の中の理不尽を憂いていたが、何よりも自分に対しての理不尽を憂いていた。

 他の人のためにすることが美学のように今の世の中では言われているが、自分のためにすることを一番にして何がいけないのだろう。

「人は一体、何のために生きているのか?」

 ということを考えた時に、思いつくのは、まず

「何が正しい」

 ということを求めようと考えるのではないか?

 だが、何が正しいのかを追い求めていると、負のスパイラルに落ち込みそうな気がする。なぜなら、を、何をもって証明するのかが問題になってくる。

 誰が証明してくれるのか。その人が、

「証明する」

 と言って、自分を始めとして、誰もがその人のいうことであれば、すべて信じられるというのか、それこそ本末転倒であり、なぜならそんな強いカリスマ性の強い人間の出現を、普通は皆恐れているからだ。

 それは歴史が証明しているではないか。

 例えば、第一次大戦の後のドイツなどがいい例ではないか。敗戦のため、連合国から多額な賠償金を強いられ、しかも領地も奪われ、軍備も縮小を余儀なくされる。その理由としては、

「大国の復活を警戒するから」

 であり、飛車角落ちの状態にして、手も足も出なくさせなければ、こちらが危ないという考えだ。

 しかし、実際には手負いのオオカミの恐ろしさを知らなかったがために、ヒトラーの台頭を許してしまうことになる。

「強いドイツの復活」

 を唱え、演説とパフォーマンスによるプロパガンダで、強く国民を一つにした。しいたげられた者が、強い力によって立ち上がっていくという姿に、ドイツ国民はヒットラーにナポレオンを見たのかも知れない。

 ヒトラーが、

「ドイツが欧州を席巻し、大帝国を建設する」

 と言えば、誰もが期待し、応援する。

 それがナチスの台頭であり、ヒトラーを独裁者に仕立てたのだ。

 そのことに元々の勝者が気付いた時には、時すでに遅かった。

「しょせん、ヒトラーには何もできない」

 と、完膚なきまでにやっつけた相手なので、復活はないと感じていた連中にとっては。なかなか気づかなくても当然である。

 だが、気付いた時にはすでに噛みつかれていて、逃れることは不可能だった。

 もし、あの時、ヒトラーに野望がなくて、国民のための戦争であればどうなっただろう?

 ある程度、ヒトラーの思惑通りに戦局は進んでいたのではないだろうか。

 そうなると、世界はドイツに席巻されていたかも知れない。考えただけでも恐ろしい。

 だが、結果は、ドイツが席巻していた世界とどう違っただろう。ほとんどの都市は廃墟になり、押収、アジアと、復興にかなりの時間がかかる。しかも、戦後が独立運動が盛んで、戦勝国であっても、植民地が次々に氾濫を起こし、独立していく。戦争には勝ったとしても、結局はどうしようもない状況だった。

 世界の混乱を思えば。戦争が何をもたらしたのか、まったく分からない。それは犯罪にも似ているのではないだろうか。凶悪犯が発生し、いかに大義名分が存在していても、ものが犯罪であれば、どこまで許されるのか微妙である。

 戦争も理不尽であれば、犯罪も理不尽である。

 考えてみれば、人一人一人が理不尽だからこそ、集団で行う戦争も理不尽であり、犯罪も理不尽なのだろう。

 人生を何が正しいのかと考えてみると、まず正しいのは自分が生きていることである。戦争中などは、

「陛下のために」

 ということで、命を捨てる兆候にあったが、それが本当に悪いことなのかどうか、誰が証明してくれるというのか。昔は教育でそういう考えが美学だったのだ。今の考え方だけを考慮して、

「その考えは間違っている」

 というのは、本当にいいのだろうか。

 松本先生は、ペットの一時預かりに疑問を感じていた。

 助かられない命を意識し始めたのだ。

 最初は、

「助けられる命だけでも助けたい」

 と思っていた。

 例えば、目の前で大きな船が沈もうとしている。それを救助しようとたまたま自分が乗った救助船が差し掛かった。その船は豪華客船で、あまりにも大きなものなので、近寄るだけでも難しい。それでもm助けられる命を助けるのが自分の役目だと思ったのだ。

 実際に近づいて、救急に従事していると、思ったよりもたくさんの人を助けてあげられることができ、満足している。しかし、助けようとしていると、船が大きく反り返り、今でも自分たちが危なくなっている。

 船の中では助けを求めてこちらに手を振っている。その姿が瞼に焼き付いている。

「助けられる人だけでも助けられればそれでいいんだ」

 と思っていたが、いざ助けを求める人の顔を見ると、助けることのできない自分がまるで悪者のように思えてくる。

「しょうがないじゃないか」

 と、言っても、

「はい、そうですか。じゃあ、我々は死んでいきます」

 と素直に従う人がいるわけもない。

 ただ、放っておけば全滅するところを助けられる人だけでも救おうというのがいけないことなのか、自問自答を繰り返してしまう。

 いくら助けられる人を助けたとしても、助けられなかった人の顔がチラついて、寝ていてもうなされることだろう。

「どうして助けに入ったこの俺が、こうも悩まされなければいけないんだ?」

 と理不尽に感じることだろう。

 それなら最初から慈善行為などをせずに、

「私には無理です。乗組員の生命の保証はできません」

 と言えばよかったのだ。

 乗組員の生命を口にすれば、たいていのことは、許容範囲であろう。

「言い訳までしなければ自分の正当性を説明できないなんて」

 これこそ理不尽ではないだろうか。

 助かった人に何を求めるのか、ただの感謝だけでは補えないほどの失ったものが大きかったと言えないだろうか。

 人を助けたのに、なぜこんなにも悪者を自らで演出しないといけないのか、それを思うと、

「理不尽というのはこういうことか」

 と思わざる負えなかった。

 ペットにしてもそうである。救える命と救えない命が存在することは最初から分かっていた。その境界線をどこに置くか、それを分からないままに先に進むことで、その場の成り行きというべきか、

「早い者勝ち」

 が、この場合の公平さになるのだ。

 そもそも、早い者勝ちが公平であるということに最初からしてしまっていれば、余計な紛争も起こらず、結構平和に国際情勢も変わっていたかも知れない。

 いや、早い者勝ちというのは、結構公平なのではないだろうか。くじ引きであったり、抽選などは、最初の始まりが公平というだけであって、いわゆる運によって左右されるのであるから、運というものを公平だと考えるか、早い者勝ちを公平と考えるかの違いである。

 早い者勝ちには、どうしても、いくつかの理不尽が先に思いつく。しかし、運に関しては理不尽かも知れないが、ハッキリと明言できることではない。だから、運に頼ってしまうのではないだろうか。

 だから、理不尽が蔓延り、何が正しいのか分からなくなってしまう。それが、今の世の中なのではないだろうか。

 動物を助けられないのと人間を助けられないという考え。どちらも同じものであった。

「人間が一番なのは当たり前じゃないか」

 と皆いうだろうが、何が当たり前なのだろうか。

 当たり前というのは、理屈がハッキリしているののを、優先的に考えるということであると思うと、理屈的に分かった気がしてくる。

「当たり前とハッキリと言えることが世の中にどれほどあるというのか?」

 と、思うのは仕方のないことなのだろうか。

 松本先生が、いつもそんなことを考えていると、似たような思いでいる人が、こんなに近くにいるとは思わなかった。

 それは松本先生も同じ思いであったが、もう一人の人も、

「まさか松本先生が」

 と言って、大喜びしたようだった。

「いやあ、松本先生というと、理不尽の欠片もないような人で、自分のことはどうでもいいから、人を助けるというくらいの聖人君子だと思っていたので、先生には申し訳ないが、先生も自分と同じ一人の人間だったんだと思わせられて、これほど愉快なことはないんだよ」

 とその人は言った。

「君だって、私から見れば、まったく理不尽など関係のない人に見えていたんだ。なぜかというとね。君には余裕があるんだ。気持ちの中に余裕がなければ、まわりのことが見えるはずなどないんだ。皆見えているように言っているが、しょせんは何も見えていない。それこそ錯覚であり。錯覚を勝手に見えているところが人間の人間たるゆえんで、本当は指摘してやりたいのだが、指摘すると、恨みを買いかねない。その人にとっては、絶対にまわりに知られたくないことだからね。皆に隠そうとしているのに、誰か、しかも、中立に見えている人から指摘されると、きっと全員に見切られてしまっているような思いを抱くでしょうね。だから、恨みも深いのさ」

 と先生は言った。

「余裕ですか、余裕ねぇ。そんなものが少しでもあれば、きっとずっと一人でいるのかも知れないですね。それこそ聖人君子の仙人のような人ですよ。人と関わろうとするのは寂しいから。寂しさを少しでも紛らわそうとするから人を欲するんですよね。まるで将棋のような気がするんです。将棋というのは、最初に並べた布陣が、一番隙のない布陣だと言われているようですが、まさにその通り。動けば動くほど隙ができる。せっかくあった百パーセントが九十九になって、九十になっていく。つまり減算法で減っていくということですよ.」

 とその男は言った。

「なるほど、減算法という考えですね。確かにそれはあると思います。将棋は減算法で、囲碁は加算法というところでしょうか?」

「ええ、うまく考えられたゲームと言えるんじゃないでしょうか? しかも昔からあるゲームなんですけどね。これこそ、ルールに基づいた単純であるが、奥の深いゲームと言えるでしょうね。しかも、気持ちに余裕がなければ、相手とは勝負にならない。始める前から勝敗は決していたと言ってもいいかも知れませんね」

 この男もなかなかいうものだ。

「私はペットたちを助けるために、この裏にプレハブのようなものを作ったのだが。最初は少しでもいいと思っていたペット救済のはずだったのに、どうしてペットを助けられないことがここまで自分を苦しめることになっているのかって分からなくてね。しかも自分ではいいことをしているんだからと言い聞かせれば言い聞かせるほど、それが虚しく響くんだ。もう一人の自分が、まさかこんなに厳しい人間だったとは。思ってもみなかったですよ」

 と言った。

「そもそも、自分が何を助けようと考えること自体、おこがましいと思ったことはないのですか?」

 と言われて。先生は愕然とした。

 確か小学生の頃に自分が何もかもおこがましい人間に見えたことがあり、そのせいで何もできなくなり、先生からかなり怒られたことがあった。

「何も考えなくてもいいから、先生の言うとおりにすればいいの」

 と言われた。

 その言葉がトラウマになり、今の自分が考える理不尽さの根底にあるものだということは最近気が付いた。

「先生の言うとおりにすればいいって何なんだ?」

 日頃から。自分で考えて何でもできるような人間にならなければいけないと言っていたではないか。それはウソだったのか?

 自分がした質問が、よほど先生の癪に障る話だったのか、そうでもなければ。ここまで投げやりで他人事のような怒り肩をするわけはないだろう。

 先生は自分の言葉の何を不満に感じたというのか、怒りを隠してまで……。

 人間には、一つや二つ、そんな言い合わしを感じることがあるものだ。それを感じたこともなく一生を終わることができる人間がどれほどいるというのか、この言葉を聞いて、そこが自分のターニングポイントになったとすれば、いくつそんなポイントがあるというのだろうか?

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