第7話 ノアの箱舟

 鳥飼が殺されてから、三日が経っツ公園では、鳥飼の死体が放置されていた場所は立入禁止になっていた。現状保存が警察の仕事でもあり、公園自体も、半分は通れないようになっていた。

 何しろ表での殺人だっただけに、雨でも降って、現状が荒らしてしまうわけにはいかない。ビニールシートはもちろん、風にも飛ばされないように、足場もシートも厳重に施されていた。

 その公園は、住宅地の近くで、しかも線路のそばという比較的都会の様相を呈している場祖であるにも関わらず、結構広めに作られている。昼間は子供が主役の児童公園だが、早朝や、日が沈んでからは老人の散歩や、スポーツ選手のロードワークなどには最適で、よほどの森羅でもない限り、人が途絶えることのない場所だった。

 それなのに、犯人はよく誰に見られることもなく犯行に及ぶことができたのか。最初からこの場所を選んだこと自体で、これが計画犯罪であることに気付く人もいたであろうほど、この公園のことを知っている人は、ここで人殺しがあったことに対して、不思議に感じられたであろう。

 例の喫茶「ダンケルク」のマスターもこの公園は知っていて、

「あそこで殺しって、犯人は何を考えているんだろう?」

 ということをボソッと言っていたのを思い出したのだが、その言葉を忘れていたくらいに、マスターの言葉に違和感がなかったという証拠であろう。

 半分は公園が使えないとして、さすがに昼間の公園を訪れる人や、ここを遊び場にしている子供は、よそにいくことであろう。全面を使って遊ぶことが基本である子供は不自由な思いをするくらいなら最初から違う遊びをしていることだろう。いくらでも遊び方はあり、別にこの公園にこだわる必要はなかった。

 しかし、夜や早朝の散歩をする老人は、他に行けるほどの時間と体力は持ち合わせていない。少々小さくとも、他に行くことを思えば、ここに来るのが一番だった。ロードワークも同じで、コースを少し変えればいいだけで、公園をコースから外す必然性はどこにもない。

 ペットの散歩にしてもそうだ。

 基本、狭かろうが広かろうが、ペットがよほど嫌がらなければ別に狭くても関係はない。別にリードを外すわけでもないのだから、ペットには何ら関係のないことであった。

 朝、犬の散歩をさせるのが日課になっている一人の大学生がいた。

 彼は、家から離れて都会の大学に入学したのだが、最初は大学の近くに部屋を借りようとしたが、すでに遅かった。

 なぜなら彼は補欠入学で、彼が正式に入学できるためには、他の大学の発表が終わり、その人が自分が行きたい大学入学を辞退してくれる必要がある。それが分かるのは、入学金の振り込み完了期間なり、振り込みがなければ、そこで正式に繰り上げ入学となる。その頃になると、ある程度の部屋は埋まっていることだろう。

 まったく部屋がなかったわけではなかったが、残った部屋を考えると、大学の近くにある親戚の家に厄介になる方がよかった。そのうちに、ゆっくりとまた部屋を探せばいいと思っていたのだ。

 何しろ、基本は一人暮らしがしたかったのだが仕方がない。親戚の家から大学に通うことにしたのだ。

 家賃は破格の値段にしてくれたのだが、その見返りとして、ペットで飼っている犬の朝の散歩を仰せ仕ることになったのだ。

 イヌ好きの彼にとって、早朝というのは少しきついと思ったが、犬の散歩であれば、嫌な理由はどこにもない。

 最初こそ、いろいろなコースを地図を見ながら模索していたが、どのコースを通っても、この公園を外すことはできなかった。しかも、イヌ自体がこの公園が好きになったようで、近くまでくると、その引率力には半端ないくらいの力が働いていた。

 イヌはラブラドールで、比較的大きい。大人しいが、それなりに力があり、顔からは想像できないような力で引っ張られると、彼は苦笑いをするしかなかった。

「こんなところで殺人事件だなんて。本当に物騒だな」

 と、早朝なだけに、気持ち悪かった。

 通り魔が出るという話は聞いたことがないし、大きな事件はこの殺人だけだったので、通り魔殺人に関しては、彼の考えとしてはありえないと思っていた。

 しかも警察が厳重に現状を保存しようというのは、通り魔による殺人よりも、身内か誰かの怨恨による殺害の方が、確率は高いと思っていることだろう。

 それが分かっているだけに、気持ち悪いとは思ったが、通り魔ではないという思いから、怖いという感覚は薄れて行った。

「怨恨だとして、何もこんなところを選ばなくても」

 と言って、幕の張られた殺害現場を横目に見ながら、今日も犬の散歩をさせていた。

 さすがにここ数日は朝の寒さは冬本番となっていた。

 雨が降る様子はまったくなく。昼間は日陰に入れば、さすがに肌寒いが、日が照っている場所では、ポカポカ陽気と言っていいだろう。

 そんな天気のいい日、早朝などの最低気温に違い時間は、地面の温度が下がり、気温が急激に下がることを、気象用語としての放射冷却と言われるが、さらにそこに木枯らしなどが絡むと、身体の損から寒さが感じられるユニなる。

 特に風の強い日などは、その傾向は顕著で、車の窓ガラスなど、完全に霜が降りたような状態になっていることだろう。

 ただ、夜が明けるにしたがって天気が晴れであることが分かると、その寒さが余計にしみじみ感じられ、人間には耐えがたいものになっている。

 しかし、イヌはどうだろう?

「イヌは喜び庭駆けまわり、猫はこたつで丸くなる」

 などという童謡もあるが、まさにその通りだ。

「お前は寒いなんて感じないのか?」

 震えている様子もない。毛は生えているが、人間の衣服とは比較にならないほどお情け程度の気で、よくこの寒さに耐えられると思う。

 逆に夏は苦しそうに口を開けて、

「ハアハア」

 と舌を出して苦しそうな姿が痛々しいのを思い出していた。

 イヌは基本的に寒さには強くできているのだろう。

 そんなことを感じながら一緒に散歩していると、いつの間にか、どっちが飼い主でどっちが飼われているのか分からなくなる。イヌと一緒にいるだけで楽しいと思うほどかわいいのだが、朝の散歩の時だけは、どうもおかしな気分にさせられる。

 今まではよく道で出会っていた他の犬の散歩も、最近は少なくなってきた。

 それもこれも、今年の春くらいにあった、

「外出禁止令」

 なるものの影響ではないだろうか。

 あれから世の中の生活は一変してしまった。

「用心するに越したことはない」

 と言われるが、その用心も、あの外出禁止令があってからというもの、人それぞれで感じ方が違っているのか、個人差が見えてきた。

「あの時は、皆一致団結していたよな」

 と、一部の不心得者に対しての誹謗中傷はあったが、いろいろな問題を抱えながら、最初の危機は乗り越えた。

 しかし、一度危機が去ってしまうと、世の中は、

「たるみ」

 というものが出てきてしまう。

 一度解除されると、引き締めたものがすべて解決したかのように皆が受け取り、その時にあった問題が、すべてが過去になってしまったのだ。

 これが一番恐れていることであった。

「オオカミがきた」

 と言ってウソをつき続けると、最後には本当にオオカミが来ても、誰も相手にせず、全滅してしまうということだってあるのだ。いや、その可能性は非常に高いということもこの世の七不思議のひとつなのかも知れない。

 そんな「オオカミ少年」の話をいまさら思い出してもなのだろうが、教訓としては、一番分かりやすい部類のものだ。何しろ、ほとんどの人が大なり小なり経験があるのが、この「オオカミ少年」の話に出てくる少年であろう。

 人間誰しも、オオカミ少年でもあり、群衆でもある。その時とで自分がどちらに入るかで運命は決まってくる。ひどい言い方をすれば、オオカミ少年にも、群衆にも、どちらにもなれるのが人間である。その時のタイミングでどちらかに分類されるとすれば、自分はどっちなんだろう。いや、どっちに行きたいと考えるだろうか。

 しょせん、オオカミに狙われてしまったら、どちらになったとしても、命が奪われることは決まったようなものだ。

「どうせ死ぬなら、どっちで死にたいか?」

 などという発想は、実にナンセンスだが、その時がくれば、きっと考えてしまうに違いない。

 世の中というもの、人間死に際が肝心だという人もいたが、本当であれば、

「死んで花実が咲くものか」

 なのではないだろうか。

 外出禁止令が出た痕、少し禁止令の効果が表れてきた時、政府の方から、それまでの病院や買い物などの絶対に必要な外出以外の、不要不急の用事以外は家から出てはいけないというものから、

「人と接触しないようにしての、軽い散歩や運動くらいは大丈夫だろう」

 という話が出たことで、早朝の散歩などが増えてきた。

 ペットの散歩などにもちょうどよく、人間がじっと家にいるのと同じで、ペットの散歩にもちょうどよかった。意外とペットも人間と同じでストレスを抱えるもののようで、家の中で、溜まったストレスを発散させるにはちょうどよかった。

 余談であるが、実はこの事態が発令されるちょっと前くらいに、そのような事態を予期して、一人で家に籠っていればストレスがたまることを危惧し、ペット購入者が増えたという。

 特に室内でのペット、ネコであったりイヌであったりである。

 だが、外出禁止令も一月ほどで解消し、また表に出られるようになると、今度はペットを持てあます飼い主が増えてきた。それまでは自分のストレス解消という目的のためだけにペットを飼っていただけであり、それはそれで悪いことではないのだが、外出できるようになると、今度はペットを飼うのが億劫になってきた。

 そうなると、ペットに人にあげてしまったり、餌を与えなかったり、さらには、簡単に捨ててしまうという輩もいるようになってきた。

 そのことが社会問題となったのは当然のことだが、人間という動物がいかに自分のことしか考えていないかということの表れである。

 そもそも、人間が自分という括りをどこまで感じているか。人によって違うとは思うが、その違いがどの範囲までかということで、その人の性格も垣間見えてくるのではないだろうか。

 まず基本的には、

「自分は自分。いくら家族であっても、自分という括りには入らない」

 という人もいれば、

「家族のような血の繋がりまでは自分という範疇に入る」

 と思っている人もいるだろう。

「自分に関わる人すべて」

 という考えもあれば、さらに広く、

「人間皆家族兄弟というような宗教的な発想を持っている人もいるかも知れない」

 と考えると、本当に人それぞれだ。

 どれが正しくて、どれが間違っているというわけではないが、基本的には、家族や血の繋がりを考える人が多いだろう。この感覚は、何か大変なことが起こった時、誰を優先するかという感覚から、自分という括りを考えるに違いない。例えば、何か事故が起こって、乗っていた乗り物が壊れてしまったりした時、負傷したりしている人を助ける場合、誰を優先するかと言われれば、百人が百人、肉親を優先するに違いない。

 自衛隊や医者などのような公共の救命員には、その選択権はないが、心情的には家族を助けたいというジレンマに苦しむことになる。

 だが、もし、そんな優先順位を意識することがなければ、どうだろう? 緊急事態に陥った時に、苦しむっことがないように、気持ちをリセットできたとすれば、少なくとも苦しまずに済むのではないか。余計な人情を持つために、助かる人が助からなかったり、そのくせ自分が苦しむという本末転倒なことになりかねないのだ。

 人というのは、生まれてくるのも一人、死んでいく時も一人である。確かに生まれてくる時は母親から生まれてくる。両親がいて自分がいるのは間違いのないことなのだ。それを否定はしないが、

「自分」

 という括りになれば、あくまでも自分一人なのではないだろうか。

 成長していって、自分の判断で行動できるようになると、親の言っていることに対して疑問を感じたり、何かの違いに気づいたりする。その時、親はいつまでも子供を自分の持ちモノのように思っていると、子供が逆らうことを信じられないという思いに打ちひしがられてしまう。それを、

「反抗期」

 というのだろうが、それはあくまでも親から子供を見た時の言葉であり、本当は反抗期などではなく、

「社会適合気」

 と言ってもいいのではないだろうか。

 子供が親の元を離れて。自分で独立できるようになるための準備段階。そういう意味で、この時期のことを、

「成長期」

 ともいうのだ。

 成長期と言うと、どうしても肉体的な意味で、子供が大人になる時という謂賞が強いが、本当は精神的なものが大きいのかも知れない。

 そういう意味で、

「反抗期」

 のことを、

「精神的な成長期」

 と言ってもいいのではないだろうか。

 ただ、反抗期に見えてしまうのは、まわりの影響を一番受ける時でもあるからだ。何にでも興味を示し、自分が成長しているということを自覚してはいるが、その反面、

「まだまだ子供だ」

 と思っている。

 これは、子供としての謙虚な気持ちからではなく、子供から大人になるのを怖がっているという証拠でもあるのだ。それを大人は分かっているはずなのに、自分の子供であったりすると、それを認めたくないという思いが親の中にあり、これを、

「子離れできない親」

 として、世間は認識することだろう。

 だがこのような関係は大なり小なり、誰もが通る道なのだ。

 親離れも子離れも、子供と大人の境目に子供がいることで、親は半分は見えているが、半分は見えていない。そんな中途半端な場所であっちに行ったりこっちにいったりしている子供を、コントロールできないでいるのだった。

 そんな時期が子供にとっても、親にとっても、一番大切な時期なのかも知れない。動物はそれを本能で乗り切れるが、人間には感情があるために、なかなか乗り切ることができない。それだけ弱い動物でもある。

 だからこそ、人間には、武器として知性や理性が備わっているのだ。

 それを人間は驕りのように感じてしまうことで、他の動物に対して、自分の優位性を保とうとする。

「ひょっとすると、その気持ちが、動物を飼うことで自分が癒されると思っているのではないだろうか?」

 と感じさせた。

 そもそも買うというのは、自分が優位に立ちたいという思いから、

「支配する」

 という意識を持つことなのかも知れない。

 自分が表に出られないことで、まるで檻の中に閉じ込められているという意識が働き、そして、その檻の息苦しさを、

「癒しを求める」

 という言葉に変えて、ペットを飼おうと思う。

 それは、檻の閉じ込められている自分が、さらに檻に閉じ込められているものを見て優越感に浸るという意識も少しはあるのではないか。実際にハツカネズミなのどように、本当に閉じ込められているのを見てしまうと、さらに鬱を深めてしまいかねないのを、無意識に分かっているのだ。

 いわゆる、

「マトリョーシカ現象」

 のようなものではないか。

 人形の中を開けると、人形が出てきて、それを開けるとまた人形が入っているという。ロシアに伝わる民芸品の人形のようにである。

 だから、

「共に生きる」

 という意味で愛玩動物を飼うことにするのだが、それも、緊急事態が収まると、すぐに用なしになってしまうのは、人間のエゴからであろうか。

 エゴという言葉は何にでも当てはまる言葉で抽象的ではあるが、実に都合のいい言葉だ。特にあまりいい意味ではないだけに、そう感じるのであろう。

「ペットというのは、飼い主を選べない。だから、ペットが幸せになれるかどうかは。運命に委ねるしかないんだ」

 と言っている人がいるが、それは人間でも同じである。

 人間であっても、動物であっても、平等であるべきだという発想はあっても、実際には生まれながらに不平等にできているのだ。そんなことは誰もが分かっていることであるが、決して口にする人はいない。

「どうして口にしてはいけないのか?」

 誰が答えを知っているというのだろうか?

 そんなペットが捨てられていく中で、松本先生は、

「少しでもペットを救おう」

 ということで、自分の病院の裏手にある空いていると地位、大きなプレハブの小屋を作り、そこに一時ではあるが、ペットを収容できればいいと考えていた。そのまま放っておけば、保健所が事務的に、

「動物狩り」

 を行い、殺処分にされるだけなのは分かり切っていることであり、そうなってしまうのを誰も助けることはできないだろう。

 動物愛護団体だって、しょせん何もできない。

「すべてを救えなければ、一匹だけ救っても同じなのだ」

 と考えているのかも知れないと思うと、松本先生が憤りを感じ得なかったのだが、

「少しでも助けられればいい」

 と思えば、気が楽になるのだった。

 プレハブ小屋はまもなくできあがり、餌もそれぞれに用意して、中ではペットの種類ごとに飼えるようにはしていた。

「まるでノアの箱舟のようだな」

 と先生はニッコリと笑いながら言ったが、少なくともこの時の先生は、自分が考えていることがすべて正しいと信じ込んでいた。

 もっとも、それくらいの意志がなければ、続けられるものではない。中途半端な気持ちからわざわざお金を出してプレハブを作り、そこにペットを収容しようなどと、そう簡単に考えられるものでじゃないだろう。

 最初こそ、ペットたちは警戒してなかなか寄り付かなかった。しかし、一匹でも中に入ると、その仲間が少しずつ増えてきて、ペットの種類という枠と超えて、中に入ってきた。

 中にはペットごとに餌も別れておいているので、ペット同士で喧嘩することもない。松本先生の考えは図に当たっていた。

 ノアの箱舟を想像したのは、聖書の一節からだった。

 神が、自分の作った人間の堕落を見て。一度人類を滅ぼそうと考え、自分の選んだ子孫繁栄のための、浄化を免れた人間、ノアに箱舟を作らせ。その中に人間と各種動物のつがいを詰め込み、これから起こそうとする浄化のための大洪水をやり過ごさせようというものだった。

 このプレハブに集まってくるペットたちは、大切な命であり、ノアの箱舟伝説でいうところの、

「種の保存のために選ばれた動物たち」

 のような気がするのだ。

 人間のエゴのため、その寂しいという一瞬を埋めるだけで飼われた彼らは、その人間がそのまま飼うことだってできるのに、危機が去ったという意味で、さっさと捨ててしまう。まるでまだ使える道具を感嘆に廃品回収に回すようなものである。

「最初にどんな気持ちで飼おうとしたのかという思いを忘れなければ、こんなことにはならないのに」

 と同じ人間でありながら、そんな飼い主に対して、恨みしか浮かんでこない。

 そもそも、松本先生というのは、人間嫌いであった。医者ではあるが。別に真剣に人を助けようなどと考えているわけではない。

「仕事だから仕方がない」

 という程度であった。

 医者だからと言って、皆が皆、聖人君子というわけではない。

「仕事だから、医者としての仕事をまっとうするだけのことだ」

 と考えている人も結構いるだろう。

 学校の先生だってそうだ。

「先生だから、子供の味方だというわけではない。子供が逆らうのだって。こっちは我慢するしかないんだ」

 と、親からはいろいろ言われ、世間からも言われる。

「本当に溜まったものではない。苛めの問題にしても、体罰にしたって、なんで教師が皆悪者にならなければいけないんだ?」

 というのが本音なのだろうが、それももっともな話だ。

 親もすべてを学校に丸投げする人もいるし、学校は勉強をするだけの場所のようにしか考えていない親もいる。温度差の激しさをすべて一緒のように受け止めようとしても、できるはずがないことに気付いていないのも、教師側が不利な点でもあった。

 誰にも文句を言えず、憤りだけを抱えているのは、教師も医者も同じだろう。

「なった自分が悪いのか?」

 と自分を責めたりもする。

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