第5話 ノア研究会

 その日、K警察署の刑事課は、落ち着いた雰囲気だった。この間までの事件が三日前に解決し、ここ二日間の間には、事件らしい事件も起こっていないので、刑事課では、ゆっくりした日々が続いていた。

 そんな中で、昨日は、近所の中学生が社会見学と称し、一日警察署内を見学するというイベントが行われていた。

「地域に愛される警察署」

 というものを目指しているK警察では、地元の学校などが警察署の見学に訪れるということは大事なイベントとして、結構行われている。こういう時には警察の広報も結構大変ではあるが、

「やりがいがあるよ」

 と後方の人も言っていて、それだけ後方としても、ある意味楽しい仕事だと思っていたようだ。

 刑事課の連中も、いつも犯人を追いかけてばかりで、しかもいつも悲惨な現場を目の当たりにさせられるというストレスのたまる仕事ばかりをしていると、中学生の真面目なまなざしを見ていると、何とも言えない新鮮な気持ちに陥ることを、実に気持ちいいと思っていた。

 刑事課の中には、中学英の子供がいる人もいて。

「まるで自分の子供から見られているようで、緊張するよ」

 と言っているが、その顔は実に楽しそうだ。

 見学の後で、質疑応答などの時間も与えられるが、中には鋭い質問をする子供もいて、質問を受けた刑事がタジタジになることもあった。さすがに中学生くらいになると、どう答えていいのかに困ってしまう質問をしてくる少年も少なくはなかった。

 そんな時、一人の少年がおかしな質問をしてきた。

「刑事さんはお金で繋がった人がいて、お金を与えている人がお金を貰っている相手を奴隷同然の扱いをしているとすれば、どう思いますか?」

 という質問だった。

「ん? どういうことかな? それはお金で繋がった友達関係というか、お金だけの関係なのかは分からないけど、少なくともお金の授受があって、その見返りに奴隷同然の扱いを受けているということになるの・」

 と、応報の人も、頭が混乱しているようだった。

「友達といえば友達なんだろうけど、お金だけで繋がっている関係だとすれば、もはやそれは友達関係ではなく、完全に奴隷とご主人様と言った、主従関係のことです。僕にも想像はできないんですが、世の中にはそんな関係の人だっていると思うんです」

 とその少年は言い切った。

「返答には結構難しいと思える内容ですね。確かにそういう関係の人は存在しないとは言い切れないし、存在しているとして、一言でその関係って言い表せないと思う。もし複数、いや、想像以上にたくさんの人がお金だけで繋がった主従関係にあるとすれば、その数だけパターンが違うような気がするんだ。だから、そのパターンごとに話のサンプルがなければ、何とも言えないんじゃないかって思うんだよ」

 と、刑事課の人間が答えた。

 自分でもうまく逃げたと思ったが、そう答えたのは、辰巳刑事であった。

 辰巳刑事は、K警察署の刑事課に勤務する、まだ二十代の若手刑事で、どちらかというと、正義感溢れる熱血漢。勧善懲悪をいつも頭に描いて仕事をしようと思っているという、まるで、

「刑事の鏡」

 のような人であった。

 少年の回答に我ながらうまく答えたと思っていたが、その考えは当たっているようで、質問者は、それ以上何も返してこなかった。

 だが、

――まだ中学生だというのに、どうしてあのようなリアルで生々しいたとえ話のようなイメージが浮かんでくるのだろう?

 と、自分の中学時代を思い出して、その違いに、背筋に一筋の汗が滲んで流れ出しているような気がして仕方がなかった。

「本当に最近の中学生は怖いな」

 と感じさせられた。

 そんな質問を受けた辰巳刑事は、その時はその程度の意識でその日の見学会は終わったのだが、その質問が頭の中から離れなくなりそうに感じたのは、一夜明けた、その日のことだった。

 それがまさか何かの虫の知らせのようなことになろうとは、思ってもみなかったが、その事件が起こったのは、その日の日も暮れた夜のことだった。

 事務処理も終わり、そろそろ署を出ようかと思ったその時、殺人事件の一報が入った。内容は、一人の男性が会社のトイレで死んでいるのが見つかったというのだ。ナイフで刺されているらしく、洋式トイレの扉が開いている状態から、そのままうつぶせになって倒れているということだった。

 一報を聞いた辰巳刑事と清水刑事はさっそく現場に向かった。現場ではすでに駆けつけていた警官が縄張りを貼っていて、誰も中に入らせないように、縄張りの前に立っていた。近づくと、トイレの中で一瞬何かが光ったように見えたので、きっと鑑識も到着していて、捜査が始まっていることが分かった。

「ご苦労様です」

 と馴染みの小野寺巡査に言われて、二人も敬礼した。

 その時の表情はいかにも真面目そうに、背筋をピンと伸ばしていたが、捜査は最初が肝心、気を引き締める意味でも、表情が硬くなっているのも、仕方のないことであろう。

「中の様子は?」

 と聞かれた小野寺巡査は、

「はい、先ほど鑑識が到着し、初動捜査が始まったところです」

「そうか、殺人事件には違いないんだろう?」

「ええ、被害者は胸を刺されて、前のめりで倒れています。今詳しいことは鑑識の方が調べています」

「第一発見者は?」

「応接室で待たせています。何しろいきなりだったので、私が到着した時は、まだ手の震えが止まらない感じでした。第一発見者はその人一人です」

 さすがに、仕事場で同僚と一緒にトイレに行くということもないだろう。

 あるとすれば、会議をしていて、全員一緒に休憩に入ったというタイミングくらいか、会議の時など休憩時間にはトイレに人が殺到するのは分かり切っていることであった。

「被害者の身元は分かっているんだろう?」

 と聞くと、小野寺巡査は手帳を取り出して、メモっていた内容を読み始めた。

「ええ、被害者はこの会社の事業企画部に所属している倉敷統さん、三十歳だそうです。まだ若い社員ですが、倒れているところを見る限りでは、中年ではないかと思えたほどで、第一発見者の人も、すぐに誰なのか、想像もつかなかったようです」

「ということは、被害者と第一発見者は面識があるんだね?」

「ええ、部署は違っているようですが、仕事の関係で何度か話がしたことがあると言っていました」

「じゃあ、面識があるという程度で、特別に親しいというわけでもないのだね?」

「ええ、そういうことになります。少なくとも第一発見者の彼はそう話していました」

「このトイレには防犯カメラがあるんじゃないかな?」

「ええ、ですが、プライバシーの問題になるので、個室を映すようなカメラはありません。あるのは、あくまでも表の出入り口を映しているものだけになります」

「ということは、誰がやったのかの特定に至らないかも知れないわけだね。被害者が入ってから犯人が後から入ったのか、それとも最初からトイレに潜んでいたのかということもありえると考えると、防犯カメラの映像だけでは判断がつかない。参考にしかならないんじゃないだろうか」

 と、辰巳刑事は言った。

「じゃあ、まずは、現状を見ることにしようか?」

 と言って、清水刑事は辰巳刑事を促すようにしながら、縄張りを超えて、鑑識がせわしなく動き回る現場に入った。

 最近工事でもしたのか、まだ壁も綺麗であった。何となく新築の匂いも残っているくらいなので、新装したとしても、ここ一月くらいのものではないだろうか。

 そう思って中に入ると、せっかく綺麗なトイレを無惨にも汚しているかのような惨状が目の前に飛び込んできた。

 被害者に罪はないのだが、汚い中での死体発見とは違って、余計に気持ち悪さを感じさせる。綺麗に光っている床には、半分乾いてしまった鮮血が、ドス黒さを増しているかのようにドロドロになっている。

 そんな様子を見ていると、さすがに百戦錬磨の辰巳刑事も、どこか不気味さを感じさせられた。

「それにしても、どうしてここなのだろう?」

 と考えてしまった辰巳刑事だった。

 殺害現場で会社のトイレを選ぶというのは、最初から殺害の意志はなく、偶然殺してしまったというのであれば分からなくもないが、殺害にナイフを使っているということで、それはありえない。まさかナイフなど物騒なものを持ってトイレにいくというのも考えにくいからだ。

 では、最初から殺害予定だったということで考えると、確かに防犯カメラは入り口にしかないのは分かっている。しかし、叫べばどこかしらに声が響く中、誰かが飛んでこないとも限らない。しかも、声を立てなくても、普通に見られる可能性だってないわけではない。その危険性はむしろ高いと言ってもいいだろう。

 ただ、今は何も分かっていない中でいくら想像を巡らせても、それは勝手な想像でしかない。そのためには、事件の前夜に何があったか、そしてその背景に何が蠢いているかということが問題になってくる。

「やはり即死だったんですかね?」

 と監察官の人に訊いてみると、

「即死とまではいかないかも知れないけど、致命傷はこの胸に刺さったナイフだね。かなり近距離から身体を預けるように突いたみたいで、そのまま、少し回すように抉っている。殺人に慣れているとまでは言わないが、犯人は殺害する時に、それほど慌ててはいなかったとも思えるんだ。ナイフを抜いていないのも、きっと返り血を浴びるのを恐れたんだろうね。至近距離で刺した方が、返り血も浴びにくいということも分かっているようだし、そう考えると、ある程度の計画性は感じ取ることができるよ」

 と言っている。

「なるほど、じゃあ、指紋なんかを残すようねヘマはしていないんだろうね」

 と聞くと、

「そうだね、多分、手袋のようなものをしていたんじゃないかな? 血で触った指の痕が残っていたところがあったんだけど、そこには指紋はなかった。そう考えれば、手部狂をしていたと思うのが、一番自然な気が吸うね」

 と鑑識の人は言った。

「状況から見ると、用を済ませてから個室を出ようと扉を開けたところ、目の前に犯人がいて、声を挙げるまもなく、刺されたと考えるのが一番じゃないかな? 誰に見られるかも分からないので、長居は無用だし、それにしても、トイレを殺害現場に遣うというのはちょっと考えにくい気がするんだけどね」

 というと、後ろから小野寺巡査が、

「外部の人間の仕業かも知れませんよ」

 と言った。

「外部の人間であれば、知らない人が会社に入ってきて、トイレに入ったのであれば、どこか怪しく思われる危険性があるんじゃないかな?」

 というと、

「いいえ、そんなことはないんです。この会社は貿易関係の会社で、普段から営業などで人の出入りが多い。つまり営業の人が結構いるということですね。だから、ここには普段従業員だけが使うトイレが別にあって、ただ狭いので、大の時などは、どうしても、来客兼用のトイレを使わざる負えないこともあるんです。だから、来客用のトイレに部外者がいたとしても、普通は誰も怪しみません」

「なるほど、じゃあ、被害者もこっちに流れてきたということだね。でも、それをどうして半人が予見することができたんだろう? よほど被害者の行動を逐一観察していないとできない芸当に思えるんだが」

 と辰巳刑事がいうと、

「確かにそうですね。でも、このトイレで部外者がいても怪しまれないということは事実なんですよ」

 と、自分の意見の正当性を小野寺巡査は訴えていた。

「もっといろいろ知りたいものだ。あまりにも情報が今の段階では少ない。ただ、やはりここでの殺人はかなりのリスクがあると思ってもいいような気がするんだが、そうなると犯人の気持ちがどうしても分からない。一体この犯人は、何を考えているのだろうか?」

 と辰巳刑事は考えていた。

「死因はナイフによるものだろうけど、それ以外に被害者が受けているなのかってありますかね? いきなりだったとはいえ、胸を刺されたんだから、悲鳴暗いあってもいいかも知れない。もし今日はなかったとしても、犯人とすれば、声を立てられることを一番恐れると思うんだ。そのためには、何か他に死に至らしめるだけの力はなくとも、刺してから声を立てることができない状況に持っていくということくらいできそうな気がするんだけどね」

 と、清水刑事が付け加えた。

 清水刑事と辰巳刑事は、小野寺巡査に伴われて、まずは第一発見者に話を聞くことにした。

「すみません。お待たせいたしました。さっそくですが、少しお話を伺いたいと思いまして」

 と清水刑事がいうと、

「話なら、このお巡りさんにしましたよ」

 というので、

「すみませんが、我々にもお願いできますか? 直接お伺いしたいと思いますので」

 と辰巳刑事は言ったが。第一発見者としては、

――もう一度聞きたいというよりも、この俺の態度を見て。怪しいかどうかを探ろうっていうんだな? こういう事件の時は、第一発見者を疑えっていうからな――

 と考えた。

 確かに、刑事ドラマなどでも、何度も同じ質問をすることで、容疑者でもない人間には不快に感じることもあるだろう。テレビを見ている時は、

「さすが公務員だな」

 と感じていたが、最近ではそれだけではないような気がしていた。

 確かに、第一発見者には、何度も話を聞いているが、第一発見者に何度も聴くことで、彼の話に矛盾がないかを見るのも一つの考えであった。相手が警官と、私服の刑事であれば、答え方は必然と違ってくる。最初に警官だと思って舐めていると、後から刑事がやってきて、いかにも、

「お前のあらを徹底的に探ってやる」

 と思われているように思えて仕方がない。

 まるで、

「ヘビに睨まれたカエル」

 状態だと言えるのではないだろうか。

 しかし、最初から警戒ばかりしていても仕方がない。供述は真実でしかできないのだからである。

「まずは、あなたは、あそこで殺害されていた人をご存じですか?」

「ええ、彼は事業企画部の倉敷さんです。僕は事業企画部とは違う部署なんですが、面識はありました」

「どれほどの面識ですか?」

「面識があると言っても、友達だというわけでもないし、一緒に食事に行くような仲でもないので、まあいえば、会社で会えば挨拶をする程度ですね。でも、仕事に関しては接触はあるので、仕事の話をすることは結構ありますよ」

「それは場所を変えてですか?」

「いいえ、そんなことはないです。いつも会社の会議室か、どちらかの席の前でということが多いですね」

「じゃあ、二人だけのプライベートな話をするということはないんですか?」

「それが二人とも、大人であるくせに、アニメが好きだったりするので、仕事以外の時間はアニメの話で盛り上がったりすることもあります。ただ、そんな話を会社ですることはめったにないですね。するとすれば、会社の近くのカフェに行ってするくらいですね」

「それじゃあ、友達のようなものではないんですか?」

 と、先ほどの倉敷の話と矛盾しているように感じたが。

「いえいえ、友達などというものではありません。あくまでも趣味の話でお互いに盛り上がるだけで、お互いの知識が遭いの知識を補っているというだけの関係でしかないのですよ」

 と言った。

 今の社会人というのはそういうものなのかも知れない。普段は仕事を離れると誰とも話をすることもなく、皆スマホの画面を見ているだけである。以前のガラケーの時代からそうだったのだが、

「一体、彼らは何を見ているというのだろう?」

 と感じていた。

 道を歩いていても、人にぶつかりそうになり、ビックリするのだが、次の瞬間にはまたスマホの画面ばかりを見ながら歩いている。まったく気になっていないのだった。

 そのくせ、会社に行くと、友達はいるようなのだ。表に出て誰とも話すこともなく家に帰りつくのに、会社では友達のように振る舞っている相手がいる。果たして相手は自分を友達だと思っているのか、それとも相手に対して自分も友達だと思っているのか、果たしてどうなのか分からない。

――二人の関係を本人に訊いても信憑性はないかも知れないな――

 と、清水刑事は思った。

「では何か他に倉敷さんのことでご存じのことってありますか?」

 と聞かれた発見者は。最初少し考えたようだった。

 何かを知ってはいるのだが、何だったのかを思い出そうとしたのか、それとも、これは言ってもいいことなのか、少し迷ったのか。普通であれば、相手は死んでいて、その人間を殺した人物を探そうとしている警察の人が相手なのだから、知っていることは話すのが当然だと思うのだろうが、それでも迷うということは、そこには何か秘密があるというのだろうか。

「ええっと、彼はある宗教団体に入信していたというウワサを聞いたことがあります」

 それを聞いて、辰巳刑事は溜息交るで、

「宗教団体?」

 と聞き返した。

「ええ、あくまでもウワサなのですが?」

「それは何という団体なのか、聞かれました?」

「ええ、聞きました。どうもその団体というのは『ノア研究会』というそうです。最初聞いただけでは宗教団体とは思えませんが、登録は宗教法人となっているそうです」

 と彼は答えた。

 辰巳刑事が宗教団体と聞いてため息交じりになったのは、つい最近解決した事件の中でも、宗教団体というのが重要な地位にあって、その団体のことがしばらく頭にあって忘れられなかった。

 人をその気にさせて洗脳させて、マインドコントロールすることで、団体の存続を図る。それが宗教団体の正体だというように思っている辰巳刑事には。宗教団体という組織は、勧善懲悪の自分にとっての、永遠の敵とでもいえるものではないかと思っている。

 ウワサとは言いながら、被害者が宗教団体に所属しているということを聞くと、それはすでに辰巳刑事にとって、戦闘開始モードに入ったと言ってもいいだろう。それだけ最近自分たちに嫌というほど関わってくる宗教団地という言葉を聞いただけで、辰巳刑事は条件反射のように、ため息が漏れるのだった。

「その『ノア研究会』というのはどういう団体何でしょうか?」

 と訊かれて、

「何でも、聖書に出てくる『ノアの箱舟』を研究するというところからついた名前だということでした。『ノアの箱舟』ご存じでしょうか?」

 と訊かれて、

「ええ、少しですが分かっています。確か、聖書の中で、神様が自分の作った人類が堕落したことを憂い、神様が人類を滅ぼすために、大洪水を起こすが、あらゆる種族の存続のために、ひとつがいの種の保存緒ために選ばれた動物たちと、人間で神に選ばれたノアに、箱舟を作らせて、彼らを箱舟に載せるんですよね。そして彼らがもう一度、最初のアダムとイブになるというような話だったと思いますが」

 と清水刑事は答えた。

「ええ、概ねその通りです。いろいろな意見があるとは思いますが、神様の目的は何だったんでしょうね?」

 と聞かれた。

「それは浄化にあったんじゃないでしょうか?」

 と答えると、

「ええ、その通りです。つまり『ノア研究会』というのは、その浄化というものを正当化し、今の世の中でも浄化が必要ではないかということを突き詰めようという宗教なんです」

 と言われて、今度は辰巳刑事がビックリしたように。

「えっ、それって世の中の浄化を肯定し、浄化を正当化するための宗教ということになりますね。じゃあ、浄化という名目の元に人が殺されてもそれは仕方のないことのように思われますね」

 というと、

「ええ、その通りです。僕とすれば、だから宗教団体なんじゃないかって思うんですよ。僕も勧誘されたことがありましたが、ちょっと考えただけで、それだけのことを感じたので、即座に入信を断りました」

「それはそうでしょうね。それでも入信する人がいるということは、真剣、浄化を考えているんでしょうかね?」

「そうだと思います。今の自分の立場や居場所に不満を持っている人にとっては、絶好の自分をアピールできる場でもあり、自分の存在価値を表すための手段でもありますからね。宗教団体というものは、人の心にどんどん入り込んでくる力を持っているんでしょうね。逆に言えば、それだけ救いを求めている人が水面下でたくさんいるということですよ。人間なんて。しょせんそんなものですよ」

 と言っている。

「分かりました。そのあたりの教団に対しての調査は我々の方で行いましょう。ところで他に被害者の倉敷氏について、何かあれば教えてください」

 と清水刑事がいうと、また、少し黙りこむような素振りを見せた。

――被害者の倉敷という男、一体どれだけ人の口に戸を立てるだけの秘密を持っているというのだ?

 と、彼を見ているうちに、次第に苛立ちを覚えた。

 秘密を持っているであろう倉敷に対してもそうだが、なかなか口を開こうとしないこの男に対しても、辰巳刑事はいい加減業を煮やしていた。

「実は……」

 と、男はゆっくりと話し始めた。

――やっと話し始めたか?

 と考えた辰巳だったが、この男が言葉に詰まっているのは、彼の名誉を考えているというよりも、本当に彼をどのように表現すればいいのかに迷ってしまって、言葉を選ぶことができないからではないかと思えた。

「実は?」

 と、清水刑事が促すと、

「彼はほら吹きだという人がいて、そういうところから『ほら吹き男』と呼ばれているようなんです」

「ほら吹き男?」

「ええ、ほら吹きと言っても、少々大風呂敷を広げて、実際にできるわけもないという小心者だというだけなんですが、そんな話が出てから少しして、彼の変なウワサが流れるようになったんです。小学生の頃は、苛めっ子だっただとか、中学に入ると、まるで友達を奴隷のように扱っていただとか、高校になると、好きになった人を無理やり略奪し、暴行を加えていたなどという、とんでもない男というウワサですね」

 その話を聞くと、どうにも気色の悪い感覚が襲ってきたのか、吐き気を催してくるようで。実に気分が悪くなった二人だった。

 それでも、質問しないわけにはいかず、

「そのウワサの出所は分かっているのかい?」

「ネットの書き込みだと聞きました」

 と彼がいうと、

「でもネットでは、相手の特定までしてしまうと、それこそ犯罪になっちゃうだろう? よくそれが倉敷だということが分かったものだよね?」

「ええ、ネットで分かったわけではないんです。そのネットの記事を見た会社の誰かが、それは誰だか分かりませんでしたが、どうやら、それが倉敷だと言って。確証があるかのように言って言いふらしたんですね。そういうウワサというのは、ウソであっても本当であっても、流れてしまうと早いじゃないですか。あっという間に彼のことだということになり、皆が彼を気持ち悪がるようになったんです」

「そういうウワサが立てば、そうなってしまうでしょうね。本当にウワサというのは恐ろしいものだ。ところで、それに対して倉敷という男はどういう反応だったんだい?」

 と清水刑事が聞いた。

「元々が小心者だっていう話があったので、やつが何も反論しないのは、やはり本当なんじゃないかという話にもなったんだけど、じゃあ、どうして今小心者のやつが、子供の頃、そんなひどいどうしようもないような男だったのかって、思いますよね? 結局分からずじまいで死んでしまったんだけど、最近ではまわりで、彼のことを気にするのはやめておこうというような話も持ち上がっていたんですよ。結局、変なやつには関わらない方がいいということですね。関わったわけでもないのに、僕はやつの死体の第一発見者などになってしまいましたけどね」

 と言って、、苦笑いをした。

 その表情はとても笑っているという感じがするわけでもなく、結局は彼の死で曖昧に終わってしまったと言いたいのだろう。

 しかし、警察としては、曖昧では済まされない。

 彼に対しての誹謗中傷に近いネットの書き込みや、ウワサがどこまで本当なのか、第一発見者の男の話を聞いているだけでは、ハッキリとは分からない気がした。彼はなるべく倉敷と関わりたくないと思って距離を置いていたと言っている。

「どうしてそんな俺が、第一発見者にならなければいけないんだ?」

 と思っているに違いない。

「俺ってついてないな」

 と感じたのかどうか、とりあえず警察には正直に話をしていた。

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